さて、硝子の映画再開に向けた思いは概ね整理できましたが、ちょっとここで少し話題を変えて、改めて、橋崩壊事件から硝子の自殺をへて「覚醒」にいたったプロセスを、この「映画再開」という視点からとらえなおしてみたいと思います。
橋崩壊事件で、将也は映画メンバー(橋メンバー)とのつながりを、硝子・結絃を除いてすべて失います。
そのことについて、「自分の存在は周囲の人間を不幸にする」という呪い的な観念にとらわれている硝子は、「将也がせっかく築き上げた人間関係を、小学校のときに続けて、高校になった今回も壊してしまった」という深い深い自責の念に改めてとらわれたと思います。
そんな思いのなかでの「デートごっこ」の最中、将也は転びそうになった硝子を助けようとして、逆に自分が転倒しけがをしてしまいます。
またもや将也に不幸をもたらしてしまった、と考えた硝子は、将也に対し「私のせいで ごめんなさい 今までのこと 私と一緒にいると 不幸になる」と告げます。

第5巻154ページ、第40話。
このとき、将也がそのことばを否定する前に、一瞬、核心を突かれた表情で汗をたらして絶句するのを、硝子は見逃しませんでした。

第5巻154ページ、第40話。
将也は、本音では「確かにその通りかも」と思っているところがあったわけです。
硝子は、これで将也に「自分のそばにいてはいけない」というメッセージが伝わって将也は自分から離れるだろう、自分は自殺するが、将也にはその真意が伝わって、将也はひとりで前を向いて関係再構築に進めるだろう、そんな風に考えていたのではないかと思います。
でも、将也は次の手話サークルにも現れ、毎日デートすることを求めてくるなど、どんどん自分への依存の度合いを高めていったわけで、これは自殺を決意した硝子にとっては想定外のことだったと思います。
そんな中、花火大会で、来年の誕生日を一緒に祝うことを約束させられてしまった硝子はついにいたたまれなくなり、そそくさと祭りの場を離れ、急ぎ自殺を決行しますが、結果は将也に助けられ、入れ替わりに大ケガをさせてしまうわけです。
このような不幸な事件が、なぜ発生してしまったのか。
(硝子の視点から)簡単にいえば、硝子はこれ以上将也に迷惑をかけないために、自殺してそっと消えていくつもりだったのに、将也には硝子以外の「居場所」「関係」がなくなってしまっていたために、硝子に依存してしまい、結果的に「不幸の運命共同体」みたいな結末を招いてしまったのだ、ということになるのではないでしょうか。
救出されたあとの硝子は、植野から暴行を受け、そのときに「お前は将也にとっての害悪だ」という非難を浴びせられます(実際には植野のせりふが聞こえているはずはないのですが、ここはあえて「そのメッセージを理解した」ととらえて話を進めます。もしここを真面目に「聞こえていない」と考えるなら、もともと硝子が信じている「自分の存在は周囲に不幸をもたらす」という呪いのことを考えれば同じことです)。

第6巻35ページ、第44話。
自分は確かに、将也にとっての害悪だ。
でも、自分が離れようとしても、将也には「居場所」がないから、将也は自分に依存してついてきてしまう。
だったら将也に、自分に依存しなくてもいられるような「居場所」を取り戻してあげればいい。
「害悪」である自分は、小学校のときも、そして高校になっても、みんなが築き上げた「居場所」「関係」を壊してしまってきた。
でも今こそ、その自分が壊してしまったものを取り戻して、将也に「居場所」を取り戻してあげたい。
もしそれがうまくいったら、もう将也は自分に依存しなければならない必要がなくなり、幸せな人生を取り戻せるだろう。
…どうでしょうか。
このようにとらえていくと、硝子が自身の「自殺前」をどう受け止め、そこから「これからやるべきこと」をどのように導き出しているか、ある程度明確なイメージがわいてくるんじゃないかと思っています。

若い子の自己否定は大なり小なりありますね。好きな人が不幸になって行くのは自分のせいだってのも、通過儀礼で皆が感じる事。 大きな病気や障害持ってる子は、早くにやってしまいます。それをまわりに悟られないように明るくお利口に振る舞うのもたくさん見てきました。足が弱い子が病院の待ち合い室で勉強にいそしむと、大人をそんなに喜ばせる事はないよ。だって君がクラスで一番になっても次から次へと要求エスカレートしてくからキリがないよ…と言ってしまいたくなります。
耳からの情報がない硝子ちゃん、石田君が孤立したのは自分といたから…という心得違いをしました。なおかさんも、あの子のせいで楽しい時間をなくした、と言いました。アメリカのハロウェル博士の本を読んだとき、不幸の原因を目立ったハンデを持った人に求めて周囲が結束して共同体の安定を図る心理も学びました。暴力事件の時に硝子ちゃんが耐えたのも根っこは同じ。自分が消えても、石田君の心根なら別の形の孤立をやらかす、なおかさんも別の理由で仲違いすると考えるには若すぎたんですな。自分がいてもいなくても別の形の不幸にシフトするだけ。脳の情報システム不全がそう悟ったのは自分の子に同じ診断がついた三十路近くになってからでしたから、若い子にそれを悟れというのはいささか無理な事でしょう。
修復終わった後に自分が消えてもなんにもならない、別の悲しみを与えるだけだと映画を通して学んでくれていたらよいのですが。だって、死んじゃったり別の場所に消えるのは嫌だと少なくとも二人はメッセージ出していたんですからね。 中学生が部屋一杯におロク写真貼ってまで。死ぬのは俺でいいですと神様に祈って。
コメントありがとうございます。
硝子は、この「自分のせいで周囲が不幸になる」という「呪い」の意識を、自殺を決行してしまうまでずーっと持っていたのだろうと思います。
そして、「そのせいで」将也を2度も不幸にしてしまったことを自覚し、将也に「呪い」のことを伝えて去っていこうとしたのだと思います。
でもそれは、「自己肯定感を持つことができない」という硝子の問題の裏返しとしての、愚かな思い込みだったわけです。
硝子は、そのことを将也に自殺を止められて以降、初めて気づくわけですから、いろいろな意味で、将也は硝子の「命の恩人」であることは間違いないですね。
硝子をいじめたことで逆に自分も報いを受けたことからも、本音では否定できない部分もあったのでしょう。
それと同時に、硝子からかけがえのない可能性を奪ったのは他ならぬ自分だという事実にも将也はデートごっこの最中、終始葛藤していました。
「近づかない方がいいよ、いじめっこだから」
スクールカースト最底辺に転落した小学校から移行するタイミングの中学入学時。この台詞を島田に突きつけられ、将也はその後も周囲を拒絶し、また拒絶される生活を送らざるを得ませんでした。
これと同じ台詞を、自分が関係を壊した橋メンバーたちが囁き続けるイメージには、将也自身もある種の呪いから逃れられずにいるようにも見えます。
自分には硝子を幸せにすることなどできないんじゃないか、そもそもその資格があるのか。
逆に不幸にしてしまうんじゃないか、現にいじめて、かけがえのない可能性を奪ったじゃないか。
「私と居たら不幸になる」という言葉への抗いには、「硝子といると不幸になる」「自分がまた硝子を不幸に巻き込む」という二つの意味に対して、抗いたかったのではと考えてしまいます。
本来は楽しいことであるはずの初めてのデート。しかし実際は二人とも、ボロボロの精神状態を取り繕うようにして、それらしい「ごっこ」を振る舞っていたに過ぎなかった。
硝子の存在を生きがいとして自殺を踏み止まった将也。しかし、逆に彼の不幸にしかならないから、と硝子は死を選択したのですから、なんとも皮肉な状況ですよね。
硝子を悩まし続ける宿痾は完全になくなることはこの先も多分ないでしょう。しかし過酷な運命に翻弄される中で、共に寄り添い、支え合えるパートナーを見つけることができました。
そこに至るまでの、葛藤や苦難の描写の複雑さ・克明さが、読み返せば読み返す程に解るところが、この作品のなんというかすごい所ですよね。
コメントありがとうございます。
作者インタビューでも語られていましたが、この「硝子の自殺という選択」の部分こそ、作者が最も強い思い入れを込めて描写した場面だということです。
硝子と将也の関係は、お互いがお互いにとって癒しでもあると同時に傷つけあう対象でもあり、希望であると同時に絶望でもあるという、本当に複雑でアンビヴァレントな関係になっていて、よくもここまで複雑な関係と、その関係の中で葛藤する心理を描ききることができたなあ、と、読み返してみると改めて感じます。
そして、硝子は将也によって救出され、それによって代わりに将也が転落して大ケガを負ったことにより、ある意味、小学校のころの加害-被害の関係は完全に逆転し、将也が復活した後の硝子は、笑顔を見せてはいるものの、ある意味、第2巻~第3巻の将也がそうであったように、将也を傷つけたというトラウマを抱えつつ、罪とそれへの償いの意識を持ち続けていったのだと思います。(これもインタビューで語られていました)。
そういった、誰もが光と影を持ち、善悪で割り切ることもできないところにも、この作品のリアリティがあると感じています。(^^)