(関連エントリ)
第48話で改めて示された「非ガムシロ組」のコミュニケーション断絶とは?
第48話、川井と硝子のコミュニケーション断絶を示すもう1つの描写とは?
第48話は、川井という存在を使って、コミュニケーションにかかる障害=聴覚障害をもった存在である硝子をとりまく「コミュニケーションの断絶」をさまざまな角度から描いている、という側面があるように思われます。
すでに別エントリで、「筆談ノートを叩き落として一方的に話をする」「相手の表情やリアクションに興味をもたずに一方的に語り続ける」という、川井が示した2つの「コミュニケーション断絶の形」について指摘しましたが、さらに読み込んでいくと、もう1つ、「第3の」コミュニケーションの断絶が描かれていることに気づきます。
それは、
1)硝子は、みんなの気持ちがわかっていない。
2)硝子は、自分の気持ちを伝えることができない。
3)それでも、私(川井)はあなた(硝子)の気持ちはよく分かっている。
という、3段構えの思い込みです。
今回、川井は硝子に対して「みんな心配してたんだよ!!」と叱る一方で、「言えないよね つらいこと」「わかるよ 西宮さんの気持ち」という「エール?」を送っています。

第48話、13ページ。
この場面で川井が言っていることを整理すると、上記の1)~3)になるわけです。
でも、本当はこれって3つとも川井の思い込みで、ほとんど正しくありません。
かつての硝子はともかく、将也の転落事件をへて「覚醒した」硝子は、永束や佐原に率直な自分の気持ちを伝えていますし、多少卑屈かもしれませんがみんなのことも人一倍考えています。そして、そういう複雑な硝子の心の動きを、実際には川井こそが逆に「まったく理解していません」。
そもそも、筆談ノートを差し出して映画再開の意見を求めた硝子と、その硝子が差し出した筆談ノートを叩き落として、硝子の耳が聞こえないのも忘れてとうとうと自分語りを続けた川井、どちらが本当の意味で「コミュニケーション不全」に陥っているのでしょうか?
そして、そんな状況でも「相手のことをよくわかっている」と無邪気に信じられて、相手に説教じみたことすらできてしまうことは、労せずコミュニケーションをとることができる「強者」の、そうではない「弱者」に対する傲慢さをはっきり表しているといえるでしょう。
こうやってみると、硝子の聴覚障害は、コミュニケーションを「相手との相互作用」として行っている人物と、そうではなく「自分の言いたいことを押し付けるだけの営み」として行っている人物との差異を、残酷なまでにあからさまに見せつける役割を果たしているな、と感じずにはいられません。
ラベル:第48話

じっさい、
>コミュニケーションを「相手との相互作用」として行っている人物
>「自分の言いたいことを押し付けるだけの営み」として行っている人物
をたとえば硝子に対する植野と川井の態度で比較してみた場合、植野のコミュニケート作法は肉体言語も含めて(笑)かなり極端に斜め上なので、読み手からすると嫌悪感や違和感を感じたりもするのですが、「私は(いま、ここに、こうして存在している)アンタが嫌い」と対象を自分なりに洞察(加えてその手がかりとして硝子自身と対話もし、手紙をもらってもいる)したうえで結論を下しているので、「負の方向」ではありますがコミュニケーション自体は成立していると思われます。
一方の川井に関しては、まさに今回の記事に書かれているような体たらくであり、いわば硝子を「自分のふるまいを他人に示すための舞台装置」くらいに思っており、「生身の人間としてはどうでもいい存在」と見なしているといえるでしょう。
もちろん、キャラに割り振られた役割の違いという「そもそも論」もありますが(なにせ植野にとって硝子は恋敵ですから)、石田に「目クソ鼻クソ」扱いされた二人にも、そのコミュニケーションのあり方には千里の径庭が横たわっているのではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
あー、そういえば厳しいことばを使っているかも。
障害がゆえの弱者性と、それと対置される健常者の無自覚の強者性からくる傲慢さについては、もともと問題意識をもっているところなので、その「地」が出てしまったのかもしれませんね。
ともあれ、コミュニケーションの双方向性ということでいうと、川井はほんとにひどくて、その点は植野のほうがよほどマシだと思います。(ただ、上記の「強者の傲慢さ」みたいなものは、川井よりも植野のほうが強いと思います。)
この“コミュニケーション論”はキャラクター個々の無意識の思い(のようなもの)が見えそうでまた面白いです。
遊園地に行った時に川井が真柴に「大きな声で喋ってあげてね」と言っていたのが読んだ時から気になっていました。
聴覚に障害のある人とコミュニケーションとる時に「大きな声でしゃべる」では通じないことが多いですし、(もちろんそれでOKなこともあるでしょうが)描かれている硝子の聴覚レベルではきっと難しいだろうなぁ、と思いながら読んでいました。
川井は、小学校で出会った時のまま、硝子の障害について考えたりはなかったんだろうなぁ…と。
一方で植野は「あなたについて全然理解が足りなかった」と言ってましたし、多少は考えたんだろうなぁ、とも思うのですが、筆談を「感情が伝わらない」と拒んでいて、結局は“自分の”感情が伝わらないのが嫌なのかなぁ、と思いました。
硝子からしたら苦手な口話より筆談の方が感情が伝えられるのでは、と思うのですが…。
川井も植野も硝子とのコミュニケーションにはまだまだ壁があるなぁ、と。(この辺の描き分けが上手いなぁ、とも)
ちなみに、将也は硝子と話す時に、近くのものや硝子に軽く触れて「今から話すよ」と知らせてから口の形も見せつつ手話も使いつつ話しているので、手話だけじゃなくてそういうことも勉強したんだなぁ、と思って胸が熱くなりました。というか、将也独学なのに、手話レベルすごいです。
ともあれ、来るべき「植野回」で、植野が硝子とどういう風に“対話”するのかが楽しみです。
川井にとっては硝子は自分を演出するための舞台装置…何かしっくりきますね。でも真柴は川井の本性を見抜いていてもし遊園地回の「大きな声でゆっくり話してあげてね」を覚えていたならあの演説をどんな目で見ていたのか。
コミュニケーションの方法ですけど私介護施設で働いていてもう聾の域に入る聴覚障害のある方がいて唇の動きでだいたいを読み取られるんですがなかなか伝わりにくいので私は手のひらにその時私が口にしている事を一文字ずつ指で書いていくっていう触手話に近い形を取っています。
硝子の障害は生まれた時からのもので番外編で祖母と唇に手を当て振動や動きで発語する訓練をしているので多分正面からゆっくり大きく口を開けて話すのであればある程度は唇の動きを読み取る事は硝子にも可能ではないのでしょうか?
かといって熟練している訳ではないから筆談を交えるって感じなのでは。
川井の「大きな声で」は私もものすごく違和感がありました。
もちろん、それが硝子とのコミュニケーションを本当に円滑にさせるのか?というのも疑問だらけですが、それ以前に、そもそも自分は小学校のとき大きな声で話していたのか、ということを考えると、これなんかも真柴にかっこいいところを見せたいがためだけの会話なんだな、とまた別の意味での「ディスコミュニケーション」を感じてしまいますね。
硝子は、3歳になるまで療育らしい療育は受けていなかったようですし、その後もちゃんとした療育というよりは祖母による訓練とかが中心だったように描写されています。
祖母の訓練については、当事者の方からの「あまりいいやり方ではない」という指摘をどこかで見た記憶もありますし、硝子の療育環境は率直にいってかなり劣悪だったと言わざるをえません。
だから、硝子の音声によるコミュニケーションは、相当に制約されていると考えるのが妥当なのではないか、と思っています。