2016年09月27日

公式ファンブック関連:「恋愛」という言葉が意味するもの

さて、公式ガイドブックで、ある意味、最も物議?をかもしているのは、Q&Aやインタビューのなかでの「将也は硝子への恋愛感情はない」「ラストで将也と硝子は恋愛関係にない」といった、将硝の恋愛性への否定的なコメントではないでしょうか。


聲の形 公式ファンブック
KCデラックス 週刊少年マガジン
大今 良時 (著)

これについては、一つには、これまでも大今先生がインタビュー等で語っていた「『聲の形』を恋愛物としてとらえてほしくない」というこだわりであったり、「いじめた相手に謝ったら恋愛関係になるなんて」といった安易な「感動ポルノ批判」の文脈に乗せたくない、といった配慮が働いているように思います。インタビューで語ると文字で残ってしまうので、そういった妙な批判の対象になってしまうような言質をとられるのを避けている印象はありますね。

ただ、そんなことよりもっとはっきりしているのは、大今先生が、「恋愛感情」「恋愛関係」というのを、非常に狭い意味で使っているようだ、ということです。
以下、「考察」ではあるものの、私の個人的な恋愛観にかかる話になっている点についてはご容赦ください。
ただ、そもそもこのブログでこれまで「恋愛」と私が呼んでいたものがどこまでの範囲を指すものかについては、ちゃんと書いておきたいと思いました。



1.恋愛「感情」について

たとえばファンブックのQ&AのQ65で、橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」のシーンで、大今先生は「将也の側に恋愛感情は絡んでいません」と答えていますが、ここで大今先生のいう「恋愛感情がある」というのは、「自分が恋愛感情を持っているということを自認している」という意味だと思われます。

原作を振り返れば、結絃を彼氏と勘違いしてパンを落とし、硝子の入浴シーンを想像して焦ったり、硝子の電話番号を知ろうとどぎまぎしたり、ポニーテールや水着写真に盛り上がったり、「デートごっこ」に誘ったり、マンションから落ちるときに「俺のことどう思ってるのかな」と思ったり、その他もろもろ、どう見ても、将也は硝子に対して、ただの友達になりたいというのを超えて、恋愛の対象としての言動を取り続けているのは明らかです。

でもおそらく、将也は長らく自分自身のなかにある硝子に対する感情を「恋愛感情だ」とは認識できなかったんだろうと思います。
それは第2巻で雨の中を結絃と一緒に硝子を探すときのやりとりにも現れていたように、将也にとって、硝子のための行動の行動原理は贖罪でなければならず、恋愛感情など「あってはならない」ものとして、見えないように封印していたということです。
これは、第7巻の中盤にいたるまで、将也は自分自身の「こえ」さえ聞けていなかった、ということでもあります。
将也は「無意識」のうちには物語初頭から(下手したら手話サークルで硝子を発見するよりも前から)硝子に恋愛感情に近いものをもち、硝子と出会ってからはそれをどんどん育てていったと思いますが、将也自身が「意識」している世界のなかでは、文化祭で「こえが聞ける」状態になるまで、自分自身の「無意識のこえ」としての恋愛感情には気づけなかった、ということが言えるのではないかと思います。

これが、大今先生がいうところの「(将也には)恋愛感情がない」といった語りの正体なんじゃないかな、と思っています。

※加えて、この「生きるのを手伝ってほしい」に、将也はそもそもことさらに「恋愛」感情を込めてはいないだろう、というのはそのとおりだと思います。これは「色恋」にかかる感情の表明ではなく、「パートナーシップの約束」にかかることばだからです。それについては次の項で。


2.恋愛「関係」について

次に、大今先生がいうところの「恋愛『関係』」について。

私は、公式ファンブックを読んだ今でも、橋の上での「生きるのを手伝ってほしい」はプロポーズだと思っていますし、最終話どころか将也復活後はずっと二人は「恋愛関係」だと思っていますし、原作でもそう描かれていると思っています。

これは、大今先生が語っていることと矛盾しているように見えますが、私はそうは思っていないんですね。
これもまた、大今先生が「恋愛『関係』」というのを、非常に狭い意味で使っていることによるものだと思っています。
なぜかというと、私のなかで「恋愛関係」というのは究極的には「パートナーシップ」だと考えているからです。

恋愛とか恋愛関係、というものを構成する要素はいろいろあります。
燃えるような恋愛感情をお互いに確認しあって、「告白」をして、デートをして、キスをして云々といった、恋愛のなかでも特に「色恋」に相当する部分、というのが、まず1つありますね。言うまでもなくここには性愛の要素も含まれます。

それから、つきあう相手を特定の一人に限定して「浮気」はしない=他の相手を口説いたり関係をもったりしないということをお互いに約束しあうという、「排他的・独占的なコミットメント」というのも、「恋愛関係」の1つの要素です。

そしてもうひとつ重要なのが、「パートナーシップ」という要素です。
これは、いわゆる恋愛感情のような激しく不安定な感情ではなく、相手を深く信頼し、一生寄り添っていく、ずっと味方でいる、困ったときにはお互いに必ず助け合っていく、そういう「ずっと揺るがない大切なパートナーである」という意識をお互いに持ち続けるという、平穏で安定的で長期的に続く相手への感情とコミットメントのことです。

そして、どうやら大今先生の場合は、最初の2つが成立している状態のことを「恋愛関係」と呼んでいるように思えるのです。
逆の言い方をすれば、最初の2つが成立していなければ「恋愛関係ではない」と呼んでいるように見えるんですね。
端的にいえば「『告白』のようなイベントも経過して、目に見える形で『恋人』になり、デートも頻繁にやって、キスやそれ以上の性愛的な関係もある」という、そういう関係のことです。

この定義をとるならば、確かに最終巻の成人式の場面でも二人は「恋人関係」にはない、ということになるでしょう。
将也は硝子への恋愛感情はすでに自認しつつも、それをストレートに硝子に伝えきれていないという描写が随所にありますし、硝子も、かつて「好き」と伝えようとした恋愛感情が完全に消えているはずはなくても、いまはまだ東京で手に職をつけることを優先している状況だといえます。
たまに遠距離デートくらいはやってるかもしれませんが、「恋人らしい」進展はなかなかない、そんな感じだろうと思います。
これは当時の最終話のエントリでも書いたとおりですが、大今先生のコメントのニュアンスからすると、当時想像していた以上に、成人式時点でも二人の物理的な(色恋的な意味での)進展はなさそうだ、とは思います。

でも私は、「恋愛関係」というのは究極的には、先の3つの分類の最後の「パートナーシップ」に尽きる、と思っているのです。

「恋愛感情」は不安定なもので、いつか醒めていくものです。
でも関係を続けていく中で、しっかりとした「パートナーシップ」が育まれれば、二人の関係は、情熱的(でも不安定)な「色恋の相手」という関係から、長く安定的に続く「パートナー」に昇華していくはずです。
そして、一生をともに生きていくという意味での「婚姻関係」を続けていくために必要なのは、狭い意味での「色恋」ではなく、この「パートナーシップ」なのです
ですから、「恋愛関係」の究極形は「パートナーシップ」だと思っていますし、当然、パートナーシップというのは「恋愛関係」の(とても理想的な)1つの形だと考えています。

そして、将也と硝子の関係が非常にユニークなのは、硝子の想いは伝わらず、また将也の想いは無意識の下に抑圧されたことで、最初に経過すべき「色恋」の関係はすっとばして、いきなり橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」で「パートナーシップ」の関係を成立させてしまったことにあります。言い換えると、若者らしいカップルの関係を経ることなく、縁側でお茶をすする老年夫婦のような関係を先に作ってしまった、といったようなイメージでしょうか。
そして、この安定的なパートナーシップの関係は、当然に文化祭の場面でも、その後の時間も、そして成人式の場面でも、ずっと二人のあいだに続いています。
おそらく「告白」もなく、ベタベタした恋人っぽい関係も(まだ)ない二人ですが、相手を信頼し「生きるのを手伝っていきたい」という想いは、一点の曇りもなくお互いが持っていて、ずっと続いているはずです。

これは、私からみると、「恋愛関係」以外のなにものでもないですね。
そして、「生きるのを手伝ってほしい」は「パートナーシップの約束」であり、その意味において、それは紛れもないプロポーズです
一方で、たぶんこの関係は、大今先生的には「恋愛関係ではない」でしょうし、だからこそ「生きるのを手伝ってほしい」も、(恋愛関係じゃないのだから)当然「プロポーズではない」ということになるのでしょう。

私は、そういうことだと理解しています。
これが、公式ファンブックで「恋愛(関係)じゃない」と言われたから慌てて付け焼き刃的に新しい理屈をこじつけたということでもないことは、これまでのエントリでの表現を読んでいただければ、以前から「パートナーシップとしての恋愛関係」という話をしていることがお分かりいただけるかと思います。
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2016年09月16日

「映画・聲の形」、いよいよ明日公開!

今日は久しぶりのエントリ祭りなので、こちらについても今日のうちにエントリを立てておこうと思います。

最初にアニメ化の情報が出てから、長く長く待たされましたが、いよいよ、聲の形のアニメ映画、「映画・聲の形」が、明日から一般公開されます。

http://koenokatachi-movie.com/
映画・聲の形 公式サイト

上映時間は129分、内容としては、原作の最初から最後までをカバーしつつ、2時間強という尺に収めるために、エピソードを「将也と硝子の関係」に焦点を当てて大胆に切り取るスタイルとなっています。

私は運よく試写会に参加することができましたが、確かに早回しという印象は免れないものの、いい意味でアニメっぽさのない、とても「映画的」で美しい映像と音楽、そして声優の方の素晴らしい演技により、完成度の高い作品に仕上がっていると思いました。
逆説的ですが、コミックの原作に忠実に映画化された作品ではあるものの、原作をいったん忘れて、ゼロベースで映画の世界に没入したほうがずっと楽しめる、そんな印象を持ちました。

私は、明日の公開日に1回、さらにそのあと2回は見ようと思っています。


↑2回目、「答え合わせ」を意識してしないようにして見たら圧倒的に楽しめました。


↑謎解き要素が含まれていて非常に興味深いツイートがあったので転載しました。

↓そして、ここから下は3回目に見に行った際の連続ツイートです。

posted by sora at 21:51| Comment(28) | TrackBack(0) | 映画 | 更新情報をチェックする

小説「映画・聲の形」、上巻が本日発売!

さて、関連グッズラッシュです。
映画・聲の形をノベライズした小説の上巻が、映画公開の前日である本日、発売となりました。


小説 映画 聲の形(上)
KCデラックス ラノベ文庫
原作:大今 良時
脚本:吉田 玲子
著:川崎 美羽

ややこしいのですが、こちらはベースを原作コミックではなく映画においているようですので、映画でシェイプアップ・一部改変された内容をベースに、ノベライズがなされているものと思われます。
それにしても、二分冊になるなら同時に発売すればいいと思うんですが、映画の公開をはさんで発売タイミングがずれるというのは不思議な感じがしますね。

こちらについては、会社のそばの書店では売っていなかったので、会社の帰りに、新宿のアニメショップに立ち寄ってようやく買うことができました。
内容はまだ読めていませんが、最後を見てみると、原作でいうところの、

3巻の終わりまで

の内容でした。
ということは、下巻は4巻から7巻まで、となりますが、映画のストーリーに従っているのなら、「映画作り」がごっそり消えますし、エンディングは「あそこまで」になりますから、まあ映画の進行に合わせるなら、ちょうどここが中間地点という感じかな、とは思います。

また、下巻の発売予定などの情報は書かれていませんでした。

内容についてちゃんと読めたら、エントリを補足したいと思います。
posted by sora at 20:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | 更新情報をチェックする

聲の形公式ファンブック、本日発売!

本日、9月16日は、映画「聲の形」の公開日前日にして、関連グッズが続々と発売される日でもあります。

その1つで、原作ファンにもながく待たれていた待望の「公式ファンブック」が、今日発売になりました。


聲の形 公式ファンブック
KCデラックス 週刊少年マガジン
大今 良時 (著)

連載時のカラーページでも何度か見られた、特徴的な水彩風のカラーの表紙絵にまず魅了されます。

そして、新人賞受賞バージョンとマガジン読切バージョンの「聲の形」が、ようやく雑誌のバックナンバー以外で読めるようになりました。

また、何より見逃せないのは、20時間にもおよんだというロングインタビューに基づいた、大今先生自身による作品の解説です。

具体的には、一問一答で個別の場面の謎解きがなされ、キャラクター紹介で裏設定などが明らかにされ、最後のインタビューで作品全体のテーマなどが語られています。

まんが連載時から議論沸騰し、また当ブログでも考察してきた様々な伏線や謎、背景設定などについて、ようやく「公式見解」が出てきた、という形ですね。

私もドキドキしながら「答え合わせ」をしてみましたが、予想していたよりはずっと「合っていた」と感じる部分が多かったです。
ラストシーンで右手と右手をつないでいるところに持たせている意味の話とか、大今先生が考えていたことと当時の考察が肉薄している(と感じた)ので、わくわくしながら読みました。

公式見解と当時の考察との間で一番「違い」を感じたのは、最終巻のラストシーンを、大今先生は本当に「通過点」としか考えていないようだ、という点でしょうか。
7巻のなかでいろいろ起こった「事件」で「解決」された、と当時の私が思っていたことのいくつかが、大今先生の構想のなかでは「ラストシーン以降に持ち越されている」らしい、ということがわかりました。

こういった「謎解きの答え合わせ」の話題について、もしかすると改めてエントリを書いてみるかもしれません。→9/27:将也と硝子の「恋愛」に関連したエントリを書きました

いずれにしても、これまでの「読み解き」が「公式」見解と異なった部分があったとしても、それは読者という立場に許された特権であるところの解釈の幅に過ぎないとも思っているので、その「違い」も含め、楽しんで読んでいきたいと思います。
posted by sora at 20:19| Comment(25) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

映画「聲の形」サントラ、ゲットしました!

明日、9月14日は、映画「聲の形」のサウンドトラックCDの発売日です。
ですが、今日某アニメショップを覗いてみたところ、既に販売していたので、買ってきました。

サントラCD

ジャケット形態にAとBがあり、Aは映画のイメージ画像、Bは無機質なCG画像で、発売日も価格も同じです。
もちろん、今回買ったのは形態Aのほうです。


映画 聲の形 オリジナル・サウンドトラック a shape of light[形態A]
映画 聲の形 オリジナル・サウンドトラック a shape of light[形態B]
牛尾憲輔

映画のサントラだと考えると、普通に形態Aを選ばない理由がないのですが、なぜ2種類に分けているんでしょうかね。
もしかすると版権の関係で、映画公開期間が終わったあとの追加プレスは形態Bだけしかやらない、とかそういう感じなのかもしれません。

ともあれ、映画を応援する意味で私も買ったのですが、映画のシーンとかセリフが入っているということはまったくなく、すべて音楽だけ、主題歌も入っていませんから、サントラというよりはBGM集といったほうがいい感じです。

→ 何度も聞いているうちに、だんだん素晴らしく聞き心地のいいアルバムになってきました。ちなみに花火大会のあとのあのシーンの曲はトラック33「frc」、エンディングの文化祭のあのシーンの曲はトラック39「lit(var)」です。

追記:実はこのサントラ、映画のなかでものすごい伏線が張られまくっているということが、牛尾氏のインタビューで明らかになりました。

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1475063249559.html
ラストの曲は、京アニ近くの河原で泣きながら思いつきました――映画『聲の形』音楽・牛尾憲輔インタビュー

猫カフェで流れているBGMの歌詞は植野の将也への片思いを表現したものになっているとか、永束君と最初にハンバーガーを食べたフードコードで流れている曲が文化祭の宇宙カフェでも流れていて、それは永束のビッグフレンドへの友情を表したものだったとか、原作ばりの伏線がバリバリ設定されています。
また、バッハのインベンションが使われた経緯であったり、感動的な最後の曲を作曲するのに悩んだいきさつとか、このインタビュー記事を読みながらサントラを聞くと非常に興味深く聞けますね。
おすすめです。

posted by sora at 20:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | 更新情報をチェックする
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