聲の形 公式ファンブック
KCデラックス 週刊少年マガジン
大今 良時 (著)
これについては、一つには、これまでも大今先生がインタビュー等で語っていた「『聲の形』を恋愛物としてとらえてほしくない」というこだわりであったり、「いじめた相手に謝ったら恋愛関係になるなんて」といった安易な「感動ポルノ批判」の文脈に乗せたくない、といった配慮が働いているように思います。インタビューで語ると文字で残ってしまうので、そういった妙な批判の対象になってしまうような言質をとられるのを避けている印象はありますね。
ただ、そんなことよりもっとはっきりしているのは、大今先生が、「恋愛感情」「恋愛関係」というのを、非常に狭い意味で使っているようだ、ということです。
以下、「考察」ではあるものの、私の個人的な恋愛観にかかる話になっている点についてはご容赦ください。
ただ、そもそもこのブログでこれまで「恋愛」と私が呼んでいたものがどこまでの範囲を指すものかについては、ちゃんと書いておきたいと思いました。
1.恋愛「感情」について
たとえばファンブックのQ&AのQ65で、橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」のシーンで、大今先生は「将也の側に恋愛感情は絡んでいません」と答えていますが、ここで大今先生のいう「恋愛感情がある」というのは、「自分が恋愛感情を持っているということを自認している」という意味だと思われます。
原作を振り返れば、結絃を彼氏と勘違いしてパンを落とし、硝子の入浴シーンを想像して焦ったり、硝子の電話番号を知ろうとどぎまぎしたり、ポニーテールや水着写真に盛り上がったり、「デートごっこ」に誘ったり、マンションから落ちるときに「俺のことどう思ってるのかな」と思ったり、その他もろもろ、どう見ても、将也は硝子に対して、ただの友達になりたいというのを超えて、恋愛の対象としての言動を取り続けているのは明らかです。
でもおそらく、将也は長らく自分自身のなかにある硝子に対する感情を「恋愛感情だ」とは認識できなかったんだろうと思います。
それは第2巻で雨の中を結絃と一緒に硝子を探すときのやりとりにも現れていたように、将也にとって、硝子のための行動の行動原理は贖罪でなければならず、恋愛感情など「あってはならない」ものとして、見えないように封印していたということです。
これは、第7巻の中盤にいたるまで、将也は自分自身の「こえ」さえ聞けていなかった、ということでもあります。
将也は「無意識」のうちには物語初頭から(下手したら手話サークルで硝子を発見するよりも前から)硝子に恋愛感情に近いものをもち、硝子と出会ってからはそれをどんどん育てていったと思いますが、将也自身が「意識」している世界のなかでは、文化祭で「こえが聞ける」状態になるまで、自分自身の「無意識のこえ」としての恋愛感情には気づけなかった、ということが言えるのではないかと思います。
これが、大今先生がいうところの「(将也には)恋愛感情がない」といった語りの正体なんじゃないかな、と思っています。
※加えて、この「生きるのを手伝ってほしい」に、将也はそもそもことさらに「恋愛」感情を込めてはいないだろう、というのはそのとおりだと思います。これは「色恋」にかかる感情の表明ではなく、「パートナーシップの約束」にかかることばだからです。それについては次の項で。
2.恋愛「関係」について
次に、大今先生がいうところの「恋愛『関係』」について。
私は、公式ファンブックを読んだ今でも、橋の上での「生きるのを手伝ってほしい」はプロポーズだと思っていますし、最終話どころか将也復活後はずっと二人は「恋愛関係」だと思っていますし、原作でもそう描かれていると思っています。
これは、大今先生が語っていることと矛盾しているように見えますが、私はそうは思っていないんですね。
これもまた、大今先生が「恋愛『関係』」というのを、非常に狭い意味で使っていることによるものだと思っています。
なぜかというと、私のなかで「恋愛関係」というのは究極的には「パートナーシップ」だと考えているからです。
恋愛とか恋愛関係、というものを構成する要素はいろいろあります。
燃えるような恋愛感情をお互いに確認しあって、「告白」をして、デートをして、キスをして云々といった、恋愛のなかでも特に「色恋」に相当する部分、というのが、まず1つありますね。言うまでもなくここには性愛の要素も含まれます。
それから、つきあう相手を特定の一人に限定して「浮気」はしない=他の相手を口説いたり関係をもったりしないということをお互いに約束しあうという、「排他的・独占的なコミットメント」というのも、「恋愛関係」の1つの要素です。
そしてもうひとつ重要なのが、「パートナーシップ」という要素です。
これは、いわゆる恋愛感情のような激しく不安定な感情ではなく、相手を深く信頼し、一生寄り添っていく、ずっと味方でいる、困ったときにはお互いに必ず助け合っていく、そういう「ずっと揺るがない大切なパートナーである」という意識をお互いに持ち続けるという、平穏で安定的で長期的に続く相手への感情とコミットメントのことです。
そして、どうやら大今先生の場合は、最初の2つが成立している状態のことを「恋愛関係」と呼んでいるように思えるのです。
逆の言い方をすれば、最初の2つが成立していなければ「恋愛関係ではない」と呼んでいるように見えるんですね。
端的にいえば「『告白』のようなイベントも経過して、目に見える形で『恋人』になり、デートも頻繁にやって、キスやそれ以上の性愛的な関係もある」という、そういう関係のことです。
この定義をとるならば、確かに最終巻の成人式の場面でも二人は「恋人関係」にはない、ということになるでしょう。
将也は硝子への恋愛感情はすでに自認しつつも、それをストレートに硝子に伝えきれていないという描写が随所にありますし、硝子も、かつて「好き」と伝えようとした恋愛感情が完全に消えているはずはなくても、いまはまだ東京で手に職をつけることを優先している状況だといえます。
たまに遠距離デートくらいはやってるかもしれませんが、「恋人らしい」進展はなかなかない、そんな感じだろうと思います。
これは当時の最終話のエントリでも書いたとおりですが、大今先生のコメントのニュアンスからすると、当時想像していた以上に、成人式時点でも二人の物理的な(色恋的な意味での)進展はなさそうだ、とは思います。
でも私は、「恋愛関係」というのは究極的には、先の3つの分類の最後の「パートナーシップ」に尽きる、と思っているのです。
「恋愛感情」は不安定なもので、いつか醒めていくものです。
でも関係を続けていく中で、しっかりとした「パートナーシップ」が育まれれば、二人の関係は、情熱的(でも不安定)な「色恋の相手」という関係から、長く安定的に続く「パートナー」に昇華していくはずです。
そして、一生をともに生きていくという意味での「婚姻関係」を続けていくために必要なのは、狭い意味での「色恋」ではなく、この「パートナーシップ」なのです。
ですから、「恋愛関係」の究極形は「パートナーシップ」だと思っていますし、当然、パートナーシップというのは「恋愛関係」の(とても理想的な)1つの形だと考えています。
そして、将也と硝子の関係が非常にユニークなのは、硝子の想いは伝わらず、また将也の想いは無意識の下に抑圧されたことで、最初に経過すべき「色恋」の関係はすっとばして、いきなり橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」で「パートナーシップ」の関係を成立させてしまったことにあります。言い換えると、若者らしいカップルの関係を経ることなく、縁側でお茶をすする老年夫婦のような関係を先に作ってしまった、といったようなイメージでしょうか。
そして、この安定的なパートナーシップの関係は、当然に文化祭の場面でも、その後の時間も、そして成人式の場面でも、ずっと二人のあいだに続いています。
おそらく「告白」もなく、ベタベタした恋人っぽい関係も(まだ)ない二人ですが、相手を信頼し「生きるのを手伝っていきたい」という想いは、一点の曇りもなくお互いが持っていて、ずっと続いているはずです。
これは、私からみると、「恋愛関係」以外のなにものでもないですね。
そして、「生きるのを手伝ってほしい」は「パートナーシップの約束」であり、その意味において、それは紛れもないプロポーズです。
一方で、たぶんこの関係は、大今先生的には「恋愛関係ではない」でしょうし、だからこそ「生きるのを手伝ってほしい」も、(恋愛関係じゃないのだから)当然「プロポーズではない」ということになるのでしょう。
私は、そういうことだと理解しています。
これが、公式ファンブックで「恋愛(関係)じゃない」と言われたから慌てて付け焼き刃的に新しい理屈をこじつけたということでもないことは、これまでのエントリでの表現を読んでいただければ、以前から「パートナーシップとしての恋愛関係」という話をしていることがお分かりいただけるかと思います。