最初にアニメ化の情報が出てから、長く長く待たされましたが、いよいよ、聲の形のアニメ映画、「映画・聲の形」が、明日から一般公開されます。
http://koenokatachi-movie.com/
映画・聲の形 公式サイト
上映時間は129分、内容としては、原作の最初から最後までをカバーしつつ、2時間強という尺に収めるために、エピソードを「将也と硝子の関係」に焦点を当てて大胆に切り取るスタイルとなっています。
私は運よく試写会に参加することができましたが、確かに早回しという印象は免れないものの、いい意味でアニメっぽさのない、とても「映画的」で美しい映像と音楽、そして声優の方の素晴らしい演技により、完成度の高い作品に仕上がっていると思いました。
逆説的ですが、コミックの原作に忠実に映画化された作品ではあるものの、原作をいったん忘れて、ゼロベースで映画の世界に没入したほうがずっと楽しめる、そんな印象を持ちました。
私は、明日の公開日に1回、さらにそのあと2回は見ようと思っています。
いま映画・聲の形を見終わりました。
— そらパパ㌠ (sora y.d.) (@sora_papa) 2016年9月17日
今回は試写会のときとまったく違って純粋に楽しめました。
で、はっきりわかったことは、この作品は原作と答えあわせしながら見ちゃ駄目なんだということ。原作と同じエピソードは使ってるけど、実は物語の構造は相当再構成されてる。原作忘れて見るのが吉。
↑2回目、「答え合わせ」を意識してしないようにして見たら圧倒的に楽しめました。
聲の形字幕上映スタッフトーク終了
— 保線後ティータイム (@hosengoteatime) September 24, 2016
・山田監督手話で自己紹介
・手話にも方言があり通った教室で関西と見破られた
・佐原が手話の習熟度が一番低く、分からない言葉は指文字を使っている
・最後の植野の指文字はハカになってるのを硝子がバカに直してあげてるが結果的に硝子が植野にバカと言ってる pic.twitter.com/yBPFC51rpr
↑謎解き要素が含まれていて非常に興味深いツイートがあったので転載しました。
↓そして、ここから下は3回目に見に行った際の連続ツイートです。
3回目の聲の形終了。やっぱりあれだ、原作答え合せは絶対ダメだ。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
原作を忘れて見ると、遊園地からあと、橋崩壊からいとの「事件」(そもそもここは順序逆になってる)、デートごっこ(これはごっこじゃなくてほんとのデートになってる)、誕生日から花火大会まで、全然違う展開になってると気づく。
花火大会のあと硝子があの「決断」をするに至る、「理由」の作り方が、原作と映画でまったく別物になってる。だから、「原作答え合わせ」をやってしまうと「はしょりすぎ」に見えるけど、実は原作忘れて見ると、ちゃんと連続性があって説得力のある「硝子がそう決断する理由」のドラマが見えてくる。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
冒頭から遊園地までと、将也が消えてからラストまではだいたい原作と同構成だけど、遊園地のあとから花火大会までは全然違う話になっている(同じエピソードを使ってるけど、再構成することでそれぞれのイベントの意味が変えられている)というのが映画・聲の形の本質だと気づいたのが、今回の収穫。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
映画・聲の形の、原作とは異なる構造の例をあげると、「ガムシロ」での将也と「デートごっこ」での将也が映画では基本的に「同じキャラ」なんですよ。原作だと、「ガムシロ」ではイケメンで「デートごっこ」では硝子依存空元気モードだけど。実際、映画での養老デートの将也は空元気モードじゃない。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
そして、映画・聲の形で将也が「空元気モード」になるのは養老デートのあと(原作では養老デートから)。空元気モードになる理由も、映画では硝子の「一緒にいると不幸に」ということばを聞いたことで、硝子のことが心配になったから(原作では橋崩壊による硝子依存)。「理由の組立て方」が全然違う。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
そうなってくると、映画での将也は、橋崩壊から花火大会にいたる過程で、硝子のメンタルが落ちていっていることに自覚的だということになる。そういう目で見ると、映画では橋崩壊の直後、将也が硝子を見て、硝子が落ち込んでいることに「気づく」シーンが新たに入れられていることに気づくわけです。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
そういえば、橋の上の奇跡のときの硝子のことば(手話)も変わっている気がします。映画では、「私が変わらなかったから」と、「変化のなさ」について硝子が謝りますが、原作では確か「みんなの関係を壊してしまって」という「呪い」を語っていたはずです。これは「変わること」が大切なんだという→
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
(続)ラストで将也が到達する「ゴール」と同じ挑戦を硝子も共有している、という「わかりやすさ」のための改変であるように思います。そして、この「変わる」については、佐原や結絃についても共通したものとして描かれています(追加シーンやセリフもあり)から、映画の1つの芯になっていると。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
そんな風に、映画を原作のダイジェストではなく再構成された別の物語として見ることができると、「原作に染まってしまった見方」とは全然違う見方ができると思います。原作を「忘れる」のはとても難しいこと(私もそうです)が、それがうまくできないと、映画・聲の形のおいしいところに気づけません。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日
と、今回、試写会を入れると3回目の映画・聲の形でしたが、回を追うごとに、原作とは別の感性された作品として映画を見ることができるようになり、どんどん楽しめるようになってきました。手元の前売り券はなくなりましたが、少し時間をあけて、もう一度は見に行きたいと思っています。
— そらパパ/sora y.d. 聲の形応援 (@sora_papa) 2016年9月28日