2015年06月06日

過去考察の再構成版をアップしていきます。

これから、順次過去のエントリを再アップしていこうと思います。

ブログの過去エントリは、1つの記事が分割されていたため記事の順序と読むべき順序が逆になってしまっていたり、次回予測エントリ等、連載が終わった現在ではあまり意味がない記事があるため、

・考察記事として、連載終了の現在でも意味のある記事に絞り、
・分割されていたものは1つにまとめて、


再度掲載するというものです。

内容は基本的に変えませんので、連載途中での考察記事は、現時点で読むと間違っているものが含まれますが、それについてはそのままとします(ただし、いつの時点で書いた記事かは明記していきたいと思います)。

再構成版の記事は、カテゴリが「再構成版・XXX」となりますので、再構成版の記事だけを読みたい場合は、カテゴリ選択で「再構成版」で始まるカテゴリを選んで読んでいただければと思います。

なお、当ブログはコメントでのやりとりが非常に大きな部分を占めたブログでしたので、再構成版の記事をアップした後でも、オリジナルの記事は消しません。

・考察のみをまとめて読みたいときは、「再構成版」
・すべての記事とコメントのやりとりを当時の雰囲気で読みたいときは、「オリジナル版」


を参照いただければと考えています。
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聲の形における「因果応報」を考える

聲の形が完結して、作品全体についてのエントリを少し書きたいと思っています。

いろいろ書きたいことはありますが、そんななかでも、特にずっと気になっていたのが、この「因果応報」というテーマです。

この物語における1つのキーワードとして「因果応報」というものがありました。
「因果応報」ということばにはいろいろな意味がありますが、辞書を引くと、基本的にはあまりよくない意味で使われることばのようです。
そして「聲の形」のなかでは、「過去に犯した罪によって、その罪が償われない限り、ずっと罰を受け続けること」といったような意味として、このキーワードが使われていたように思われます。

ただ、当初、第4巻あたりまでは、物語の中でなんどか出てくるこの「因果応報」ということばが重要なものであるのかそうでないのかが、いまひとつはっきりしませんでした。
川井に「インガオーホー」と言われた将也は、過去の罪を負いつつも、硝子と良い関係を築きつつあるように見えていましたし、もう1人、第4巻の西宮母回想回で「因果応報」と言われた硝子は、将也との再会により、かつて失った絆を少しずつ取り戻していき、幸せな結末が待っているようにも見えました。

でも、その幸せな流れは第5巻の橋崩壊事件で一気に崩壊し、将也も硝子も(そして見えにくいですが、実は植野も)、「因果応報の無限ループ」のなかにとらわれたままだったことが、残酷なまでに示されたのです。
そして、第6巻から第7巻にかけては、その因果応報の無限ループからの脱出が描かれていきました。

物語が完結してから振り返ってみると、実は「聲の形」とは、徹頭徹尾、「過去の罪をしっかりと償い、因果応報を克服することによってその無限ループから脱出し、それによってようやく幸せな未来をつかんでいく」という物語だったことが分かります。
「因果応報」は、聲の形において、実はもっとも中核におかれていた最重要テーマだったのですね。

以前このブログでもエントリを書いたことがありますし、いまでも聲の形に関する話題として語られることがあるようですが、「聲の形の物語の中で、因果応報というのは肯定されているのか否定されているのか?」という疑問があります。
これについては、私は明確に「聲の形の中で、因果応報は『絶対的真理』として取り扱われている」と考えます
これはあとで言及しますが、植野は物語のなかで「インガオーホーなんてくそくらえ」と言ってそれを否定しようとしますが、その直後にその「インガオーホー」に完膚なきまでに叩き潰されています。(そして実際のところ、植野が物語全体を通じて闘っていたのも、将也や硝子と同じく、この因果応報だった、と考えることもできるのです。)


第5巻118ページ、第38話。

そういう目で、この作品全体を改めて眺めてみると、また違った世界が見えてくる気がします。

さて、聲の形において、この「因果応報」というキーワードが最初に出てきたのは、第1巻の学級裁判後、カースト転落して島田らにいじめられるようになった将也が、暴行されて校庭に倒れているときでした。
ここで、通りかかった川井が「ねぇ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」と言い放ちますが、これがこの物語で最初に登場する「因果応報」です。


第1巻144ページ、第3話。

次に出てきたのが、第4巻での西宮母の回想(もしくは西宮祖母の手紙)場面で、西宮父の母が硝子と西宮母に対して言い放った「因果応報… 硝子が前世で何か悪いことをしたせいなんだよ あるいは あんたが…」というせりふです。


第4巻169ページ、第32話。

そして3つめが、橋崩壊事件直前、夏休みの登校日にクラスで川井から過去のいじめを暴露されてしまい、橋に行くのをやめようとした将也に、植野が語った「インガオーホーなんてくそくらえ!」というせりふです。


第5巻118ページ、第38話。

改めて物語全体を眺めてみると、ここで語られた3つの「因果応報」というのがそのまま、この聲の形という物語に埋め込まれた主要な3つの「罪と罰」の因果応報の構造を示していることに気づきます。

1つめの、将也に対する「インガオーホー」とは、将也が硝子をいじめたことに対する罪と、それにより与えられた「孤立」という罰について。

2つめの、硝子に対する「因果応報」とは、硝子が(それこそ前世の因縁のようなものとして)障害をもって生まれ、それによって周囲を不幸にしてしまうという「呪い」をかけられてしまった、といった「罪と罰的な構造」について。

3つめの、植野に対する「インガオーホー」とは、植野が将也を「売り」、将也へのいじめを黙認どころか加担までしてしまったことに対する罪と、それによって植野自身が過去にとらわれてしまって未来に目を向けられなくなるという罰について。

2つめが分かりにくいですが、あえて乱暴な言い方で表現するなら、硝子の「罪」とは、「前世におけるなんらかの悪行」であり、それに対する「罰」というのが、「障害を負い、それによって親しい人間を皆不幸にしてしまう」ということ(呪い)です
これは、硝子の父方の祖母が言った誹謗そのものであり、私自身は当然こんな考え方をまったく支持しない者ですが(実際、硝子の障害の原因は、親の不適切な感染症管理です)、それでも「この物語の中では」、硝子についての、この「父方祖母が主張する因果応報論」は「生きている」と判断せざるを得ません。

この聲の形という物語に埋め込まれた3つの「因果応報」、つまり「過去の罪と、それによってくだされた罰の構造」とは、次のようなものです。

1)将也は、小学校時代に硝子をいじめたということが原因で、カースト転落して島田らにいじめられるようになり、孤立して人間不信になり、他人としっかり向き合うことができなくなってしまった。

2)硝子は、障害ゆえに周囲に迷惑をかけ、自分の近くにいる人・自分が関わった人をみんな不幸にしてしまうという「罪と罰の意識(呪いの意識)」にさいなまれ、その結果として自己肯定感が低く、他人と関わることに恐怖心があり、ひたすら自己を抑圧して生きていくようになってしまった。

3)植野は、ずっと好きだったはずの将也を「売り」、また腹いせに硝子をいじめたことが原因で、その後将也との親密な関係を手に入れることができず、ずっと後悔を続け、「あの頃こうすればよかった」「過去の素晴らしい関係を取り戻したい」といった形で、過去にしばられるようになってしまった。


そして、これら因果応報の構造は、聲の形の物語の中で「主題」の1つとして扱われ、まるで音楽のフーガかソナタのように、何度も何度もその姿を変えては現れていきます。

まず、物語の冒頭で、「硝子をいじめていた将也が、いじめられる側に転落する」という非常に分かりやすい形で「インガオーホーの基本構造」が提示され、奏でられます。
これはいってみれば、音楽における「主題の提示」です。


第1巻144ページ、第3話。

親切なことに(笑)、ちゃんとこのときに川井が登場して「ねぇ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」と読者にもよく分かるように教えてくれているわけです。

そして、第1巻の終盤、第5話では、この因果応報のループから抜け出そうとする将也が、島田らとの和解を試みますが(限定盤CD事件)、そんなことで問題は解決せず、逆に徹底的に拒絶されます。


第1巻180ページ、第5話。

このときの「拒絶」もまた、因果応報の理(ことわり)によって繰り返される将也への「罰」の1つであることは、言うまでもありません。

そして将也は、限定盤CDと一緒に買った手話の本を最後の心のよすがとして「手話を覚えて硝子に謝罪のことばを伝えて死のう」とします。
ところが、第2巻で出会った硝子に将也は思わず「友達になれるか?」と聞き、それが受け入れられてしまいます。


第2巻22ページ、第6話。

この「事件」によって、それまでまったく解決の糸口が見つからなかった、将也にとっての「因果応報のループからの脱出」に、一筋の光が見えることになります。
それは、硝子と友達になるという行為が、「過去をとりもどす」という方向性での贖罪ではなく、「未来にむけて新しい価値を作り出す」という方向での贖罪だったことと関係しているのですが、残念ながら将也はこの時点で、その2つの「違い」に気づくことができません

それが結果的に将也を誤った方向、つまり「過去を取り戻そうという方向の贖罪行動」に導いていきます。

第2巻での硝子との再会、そしてそこで交わされた「友達になろう」という会話は、硝子へのいじめによって「因果応報のループ」のなかに転落してしまった将也にとって、初めて見つけたそこから脱出するための糸口であったといえます。

ただ、その後の将也は、未来志向ではなく「過去志向」で、「硝子のために、失われた過去を取り戻す」という行動原理で行動してしまいます
第2巻で、将也は結絃に向かって「硝子のために命を消耗する」という決意を表明しますが、それは将也にとって、自身がからめとられている因果応報のループの「起点」である、「硝子をいじめたという罪」への贖罪によって、このループから脱出しよう、脱出できるんじゃないか、というあがきでもあったと思うのです。


第2巻152ページ、第13話。

でも、「過去」を向いた贖罪は、実はこの物語の中では、因果応報の無限ループを脱出するための「正解」ではありません
そのことは、物語の後半で徐々に明かされていくのですが、第2巻のタイミングでも、西宮母のせりふが「ヒント」を与えてくれています。

第2巻で、行方不明になった硝子の発見に協力した将也に対して、西宮母は、

「あなたがどんなにあがこうと 幸せだったはずの 硝子の小学校時代は戻ってこないから」

と告げています。


第2巻165ページ、第13話。

このあとの展開で示されていく、将也が因果応報のループを抜けるための方法は、最終的には「単なる謝罪」でもなく、「過去を修復すること」でもなく、「未来に向かって何かを作り出していくこと」だった、ということを、作者はこの時点ですでに西宮母のせりふという形で読者に予言的に伝えているのだと思います。

ここまでが2巻の展開です。
こうやって整理してみると、実は「因果応報」とはどんなものであるのか、どうすれば乗り越えられるのかということについて、将也のケースを使って第1巻から第2巻までの時点で、すでに相当踏み込んだ描写がなされていることに気づきます。

でも、この第2巻で密かに示されている、「過去の修復の先に(因果応報を乗り越えられる)救いはない」という「答え」は、登場人物のすべてに気づかれず、無視されます
そして、将也のみならず、硝子も、植野も、まさに登場人物すべてが「過去の修復」によって因果応報のループから脱出しようとして必死にあがき、そして究極的には(因果応報の罰による)「すべての崩壊」に向けてなだれを打っていく悲劇が描かれたのが、第3巻から第5巻だった、ということになるのではないかと思います。

第3巻になって登場してくる、因果応報に関する重要キャラクターは、いうまでもなく植野です

植野は、将也視点から見ると、自身のカースト転落後、完全に没交渉となり、それ以降は自分とまったく関係ない世界で楽しくやっていたように映っていたことでしょう。
それなのに、硝子や佐原と再会したあたりから、なぜか将也のまわりに現れるようになり、硝子との関係を邪魔したり、いまの自分は嫌いな方向に変わったと言ったり、さらにはかつての親友だった(でもいまはトラウマになっている)島田との関係修復にまで奔走するようになります。
これらの行動は、将也にとってはまったく理解不能であり、将也は第3巻の後半で「意味わかんねーし」といって、「関係の拒絶」の象徴であるバツ印を植野につけてしまいます。


第3巻136ページ、第21話。

実は植野は、(因果応報という視点で物語を語るならば)「将也いじめと硝子いじめ」という2つの罪によって因果応報のループに転落し、あの頃の「楽しかった過去」にとらわれてずっと抜け出せないままになっていたのでした。
そのループに巻き込まれたまま、将也との関係を「過去の楽しかった頃の形に」なんとか修復しようとする植野は、因果応報のループのなかで何度でも「罰」を受け、その試みすべてにおいて失敗を繰り返します。
将也と再会した日に、将也からバツ印をつけられて、その後ずっと関係を拒絶されてしまうというのも、また因果応報の理によって課せられた「罰」であったわけです。

さらにいえば、植野の「将也が好き」という感情についても、少なくとも第6巻までは、「小学校のころ、小学生だった将也が好き『だった』」という感情がそのまま塩漬けになって続いていたものにすぎない、と私は思っています。


第3巻153ページ、第22話。

つまり、植野は、もはや存在しない幻想にすぎない「小学生時代の将也」に対して、高3になっても恋愛感情をいだき続け、そしてそれにとらわれて、逆に「いまの将也」を否定せざるを得ない立場に置かれ続けていたのです。

こんな植野の、幻想を対象とした恋愛感情が成就する可能性などありえません。
でも植野はそれにとらわれて、そういう構造、自分がおかれた状況が見えていません。

そう考えると、植野の将也への恋愛感情すら、実はそれ自体が因果応報のループのなかで与えられた「罰」だった、という考え方さえできるわけです。

そして、そんな因果応報のループから抜け出すために、「西宮さんがいなかったころの将也や島田との過去」を取り戻そうとあがく植野は、「失われた硝子の過去」を取り戻そうとする将也とそっくりです。
将也とそっくりの行動原理で「因果応報のループ」を抜け出そうとする植野は、当然に、この先の展開で、将也とまったく同じ過ちを犯し、同じ破滅に向かっていくことになります。

第4巻では、将也・硝子・植野、それぞれにとっての「因果応報」がどのようなものであるのかが、より具体的に、詳しく描かれていきます

そういう(因果応報という)観点から、第4巻前半の遊園地回を読み解くならば、ここでは、

・将也にとってのインガオーホーのトラウマの中核部分に「島田」がいるということ

・植野は何らかの理由で、将也同様「過去」にとらわれており、同じくその「過去」には「島田」が関わっているらしい、ということ

・硝子は自己肯定感が低く、自分のこと嫌いだと思っている、ということ


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第4巻81ページ、第27話。

この3つの「それぞれの因果応報の実態についてのヒント」が示されている、と言っていいと思います。

そしてその後の葬式回で、硝子にとっての「因果応報」とはどんなものであるのかが、「悪役」としての西宮父とその家族によってついに提示されることになります。
それは、「なんらかの前世での罪」によって、現世で「障害を持ち、周囲を不幸にする」という呪いが「罰」として与えられる、という、硝子自身にはどうにもならない、理不尽な「因果応報のループ」でした。


第4巻169ページ、第32話。

この、硝子に設定された「因果応報」は、倫理的にいえばメチャクチャで、なんの合理性もないもの(でも物語上は設定されなければならないものでもあった)ですので、どうしても「悪役」に言わせる必要があったのだろうと思います。

ともあれ、理不尽にも設定されたこの硝子の「因果応報のループ」も、悲しいかな物語の中では生きています。
だとすれば、硝子が第2巻で将也と再会し、さらに第3巻からどんどん仲間が増えていく展開は、同時に、いつかその全員を不幸にするという、硝子の因果応報の罰、呪いが発動することを予感させるものでもあったことになります。

このように見ていくと、第4巻までで、いつか爆発するであろう「因果応報」が、将也と硝子、それぞれに埋め込まれた状態になっていることに気づきます。

一見、第3巻からかつての仲間が戻ってきて和解が始まり、硝子は将也に「うきぃ」と告白し、第4巻では結絃はガムシロ回で将也に救われて、いろいろありながらも「因果応報」をうやむやにしながらハッピーエンドの方向に向かっているように見えますが、実はまったくそんなことはなく、平和そうな表層の下で、因果応報の時限爆弾は、着々と準備を整え、炸裂するタイミングを待っていたことになります。

そして、その「因果応報の爆弾」が実際に炸裂したのが、第5巻ということになります

第5巻で、まず炸裂したのは将也の「爆弾」で、それを誘爆したのは植野の「爆弾」でした

将也は、夏休みの登校日に川井に過去のいじめ(=まさにこれが将也にとっての因果応報の起点となる「罪」です)を暴露され、ようやく生まれ始めた仲間関係をすべて失った(=こちらは因果応報の「罰」です)と感じ、橋に行くのを避けようとします。
実際、将也はこのときに、自らが因果応報のループにとらわれていることに対して自覚的であることを示す、こんなせりふを語っています。

将也「きっと 遅かれ早かれ こういう日がくる運命だったんだ
   避けて通れない……
   昔のこと なしにして… 人と上手くいくことなんかないって 思いしらされる日が…
   罰が足りないんだ… 俺には…」



第5巻117ページ、第38話。

そんな風に、将也が因果応報の罰に改めて打ちのめされそうになっているところに現れたのが、植野でした。
植野は、ためらう将也を強引に橋に連れて行こうとしますが、そのときに言ったセリフがまさに、「インガオーホーなんてくそくらえ!」でした。


第5巻118ページ、第38話。

このせりふは、連載で追いかけているときには「なぜインガオーホー?」とやや唐突に映りましたが、実は将也の直前のせりふがこの「因果応報」の内容について語っているものになっていますし、また全体をとおして振り返ってみれば、まさにこのシーンは、将也が、そして植野が、それぞれの因果応報にどのように立ち向かっていくかということを語っている場面になっていることに気づきます。

実はこのシーンは、植野にとっては本当に特別な瞬間でした
「これは私の挑戦 うまくいかなかったら 私を責めていいよ だからさ 橋に行こう」と、心を込めて強く迫る植野に対して、将也は「なんで…」ととまどっています。


第5巻119ページ、第38話。

「お前 俺のこときらいだったろ」「考えれば考えるほど 植野のこと 意味わかんねーし」と、植野のことを意味不明の存在としてまともに相手していなかった将也が、唯一、この場面でだけ、植野と情を交わした真剣なやりとりをしていることからも、それは分かります。(植野の顔にはりついているバツ印も、このときばかりはほとんど取れそうでした。)

マガジンの連載版では、将也とともに橋へ向かう植野のことを、いわゆる「アオリ文」で「救世主・植野」と呼んでいました(単行本では省かれています)。


連載版第39話の冒頭アオリより。

結果として植野は火に油を注いでむしろ橋崩壊を促進してしまい、救世主どころか疫病神みたいな展開になってしまったのですが、このとき、もし本当に植野がベストの動きを見せていれば、植野は硝子よりも先に将也を「因果応報の無限ループ」から脱出させることに成功していたかもしれず、もし仮にそんな展開になっていれば、俗にいう「植野エンド」が訪れていてもおかしくなかったのです。
でも、やはり少なくともこのときの植野の覚悟程度では、「インガオーホーのループ」を打ち破ることは不可能だったのです。

そして、密かに息を潜めて「その瞬間」をうかがっていた「因果応報」の時限爆弾は、第5話中盤の「橋崩壊事件」で、ついに爆発します。

将也を連れてやってきた橋の上で、植野は小学校時代の一連のいじめについて「みんな同罪、私たちも悪い、だから将也を責められない」と主張します。
これは、小学校時代の学級裁判で将也が主張した内容と、よく似ています。
そしてその結果として、やはり学級裁判と同じような仲間割れが起こります。


第5巻128ページ、第39話。

将也のかつての仲間の輪を取り戻そう(それによって自分の過去も取り戻したい)と考えた植野が、逆に「かつての学級裁判のときと同じように」仲間の決裂を決定的にしてしまったという意味で、ここではまず植野に「因果応報の罰」が与えられていることが分かります。

そしてそこから、将也がこれまでの鬱憤を晴らすかのように暴言を吐きまくり、真柴に殴られて、硝子・結絃を除くすべての仲間関係を拒絶して破壊する「橋崩壊事件」につながりますが、ここはもちろん、将也の因果応報の「爆弾」が炸裂したことを意味しています。
最後に将也が真柴から殴られたシーンは、学級裁判後に将也が島田らから殴られるシーンのリフレインであり、それを硝子が目撃することで、硝子は「呪い」が再発動したことを確認していることになります。

そして、その後のデートごっこから西宮母の誕生日会、花火大会、硝子の自殺決行の流れのなかで、硝子の「爆弾」が炸裂していきます。
もともと硝子は小学校時代、当たり前の友人関係がどうしても作れずいじめを受けてしまうことに絶望して「死にたい」と漏らしたことがあり、この頃に既に「爆弾」は埋め込まれていましたが、それが高3になって発動してしまったわけです。

硝子は、橋崩壊事件の最中には「障害ゆえに」何も理解できず何も対処することができませんでした。加えて、その日の夜に結絃から真相を聞かされ、将也の「自分への」いじめが蒸し返されて橋崩壊事件に至ったことを知ります。

これによって、硝子は「関わった人間を不幸にする」という呪い(罰)がまた発動してしまった、と絶望したことでしょう
そして硝子は、デートごっこのときにそのことを将也に伝えます。(カレンダーの分析によれば、このデートごっこは橋崩壊事件の「翌日」に行われています。)

そして、デートごっこ中に負傷し、「私と一緒にいると不幸になる」と突然告げられた将也は一瞬ぎくりとし、その場ですぐに硝子のことばを否定できませんでした。


第5巻154ページ、第40話。

このとき硝子は、将也も同じように「一緒にいると不幸になる」という意識を共有していることを確信し、自殺を決行してしまうわけです。

これが、第42(=「死に」)話までのストーリーです。
第42話までで、それまでに埋め込まれていたすべての「因果応報」の時限爆弾が炸裂し、将也も硝子も(そして植野も)最大級の「罰」を受け、物語はどん底に到達します

第5巻中盤から後半、橋崩壊事件から硝子の自殺決行までで、それまで息を潜めていた将也・硝子(・植野)の因果応報の時限爆弾はすべて爆発し、それまでに築き上げられてきたすべての物語は、第5巻最終話の第「42」話でいったん「死に」ます。

そう考えると、第5巻が第43話まででなく第42話までの収録になっているのも、ある意味必然であるように思います
なぜなら、第43話からは、その「底」、どうしても抜け出せないように見えた因果応報のループの最下層から、登場人物がなんとか「脱出方法」を見つけて、ようやく抜け出していく物語に変わっていくからです。
そういう意味で、第43話は既に流れは上向きに変わっているのです。

そんな第43話から始まる第6巻は、将也、硝子(そして植野)が、因果応報の無限ループから脱出するための「ヒント」を得ていく巻になっています。

第6巻、まず将也は第43話で、「みんなの顔をちゃんと見て、ちゃんと話してちゃんと聞く」と約束し、硝子に代わってその身を投げ出しました。


第6巻13ページ、第43話。

以前も考察しましたが、硝子に代わって将也が自らの肉体を投げ出すことは、宗教的な色合いを帯びた「究極の贖罪」を表現しているようにも思われます。
そして、どうやら物語のなかで、この「因果応報」の理(ことわり)を司っているのは、「鯉」のようです。
将也の約束と、硝子の「罪」までをも一緒に背負っての身代わりの「贖罪」は、その鯉にしっかりと見届けられます。
第43話で将也が転落した川には、将也のまわりを優雅に泳ぐ鯉がしっかりと描かれています。この転落のとき、島田らが都合よく登場して将也を救出したのは、この「将也の贖罪」を一定認めた鯉が起こした「奇跡」の1つだと解釈していいと思います。

そのあと、将也は転落によって意識不明の重体になってしまうため、実際の「因果応報」のループからの脱出はとりあえず第7巻に先送りされますが、この第43話で将也が約束した「ちゃんとする」ことが、まさにその「脱出」のカギとなっていくわけです。

続いて植野です。
転落直後の暴行、そして植野回と、どちらかというと植野は第6巻では罪を増やしていく展開もあるのですが(笑)、とりあえずそれらはあまり因果応報と関係のない「目の前の悪行」として横においておきます。
植野回での小学校時代の「硝子ハラグロ」回想から、それに続く現実の硝子とのやりとりとの対比のなかで、植野は、「諸悪の根源は硝子である」という、小学校時代からずっと抱いていて、高校で将也・硝子と再会して以降も持ち続けていた自分の認識が誤ったものであるらしいということを自覚していったのだと思います。
そして植野回の最後で、植野は島田の連絡先を硝子に伝えることで、硝子が主導している映画制作の再開を間接的ながら「助ける」という選択をします


第6巻148ページ、第50話。

この「硝子への認識を改めたこと」と、「いまの硝子を助けるという選択」が、結果的に第7巻において植野が因果応報のループから脱出できるきっかけになったと考えられます。

さて、聲の形を「因果応報」というキーワードから読み解くとき、第6巻とは、これまで苦しめられてきたその因果応報の罪と罰のループから、それぞれが脱出するためのヒントを得る巻になっていると思います。

さて、将也・植野に続き、次は硝子です。

硝子の贖罪については、まず第6巻のなかで「映画制作再開のキーパーソン」として自ら動いた、という点が指摘できます


第6巻72ページ、第46話。

そして、映画再開という「成果」をあげた硝子は、「自分は運命(=呪い)に翻弄されているだけの存在ではない、運命をみずから作ることだってできるんだ」という自信を得ることができました。
誰かから与えられるのをおとなしく待っているのではない、傷ついてもいいから自ら動き、切り開いていくと決め、行動し、実際に結果を出したことが、硝子にとっての因果応報のループからの脱出の1つのきっかけとなったと言えるでしょう。

ただ、硝子が因果応報のループを脱出するための最大のカギとなったのは、実は必ずしもこの「映画再開」ではなかっただろう、と思います。
それよりもはるかに重要だったのは、2話にわたる硝子回のなかで描かれた「劇的な価値観の転換」だったのです。

硝子回(第51話)の描写で特徴的なのは、前半の「映画制作再開の充実感」から、中盤の「かつて夢見ていた理想の世界の楽しいイメージ」に続き、最後に「将也を失うかもしれない、という喪失感、悲しみ」につながっている、という「場面」と「感情」の連続する展開、関係性です

硝子は、映画制作再開にこぎつけた日の夜、小学校時代から夢見ていた「もし私に障害がなかったら」という世界を「理想の世界」として夢見ます。
その流れのまま、将也が夢に現れ、橋の上で「俺がいなくても万事OK」といって消えようとするのです。


第6巻163ページ、第51話。

この展開は、何を意味しているのでしょうか?

硝子は、「自分が壊したものを取り戻したい」と考え、映画再開に動きました。
それは、それまでに将也が試みて失敗し、植野が試みて失敗した、「失われた過去を修復し、取り戻す」という挑戦、あがきに近いものだったといえます。
将也も植野も、その「過去を取り戻す」というチャレンジに失敗する中、硝子だけは映画再開にこぎつけ、その挑戦に「成功」したかに見えます。
映画制作が再開されたロケの場面から、硝子がかつて夢見ていた「理想の世界」の妄想につながっていくのは、まさに、「映画制作の再開」が、「小学校のころ、硝子が壊してしまった(と感じている)みんなのつながり」を修復し、取り戻す行為でもあった、ということを示しているのだと思います。


第6巻157ページ、第51話。

このように、硝子は、将也も植野もかなわなかった、「過去を取り戻す」という試みに成功したかに見えます。
では、これで硝子は「因果応報のループ」から抜け出せる状況になったのでしょうか?

実は、まったくそうなっていません
むしろ硝子は、「過去を取り戻したような状況」にいったん置かれることで、因果応報の理(ことわり)に「試されていた」のだと思います。

第6巻の硝子回で硝子は映画を再開させ、これまで将也も植野もかなわなかった「失われた過去を取り戻す」ことに成功したかのように見えます。

でもそれは、実のところ何を意味しているのでしょうか?

それを示しているのが、夢枕に現れた将也のメッセージです。
このときの夢に現れた将也は「俺がいなくても万事OK」と硝子に伝え、小学生の頃の姿にもどって「じゃーな 西宮」といって去っていきます。


第6巻165ページ、第51話。

「高校生」であるいま、映画再開によって「過去」を取り戻したことで、壊れてしまった過去を取り戻すという硝子の考えた「贖罪」は、いったん「万事OK」になりました。


第6巻163ページ、第51話。

でも、そもそも「失われた過去」がない、という事態を想定してみると、それは実は「障害ゆえに自分をいじめた、小学校時代の将也」という存在もいなかった事態を意味していることに気づきます。

つまり、もしも硝子が、

映画再開とは「過去を取り戻した」ことなのだ

という風に理解し、整理したのだとすると、それはすなわち、

映画再開とは、時間を遡って「将也の存在、将也とのつながり」が消えてしまった「if」の世界、パラレルワールドに移行することなのだ

ということになり、さらにいうと、

そのパラレルワールドでは、硝子にとっての将也は小学生の時点で消え、高校生になって再会しにやってくることもなかった

ということになる
、ということなのです。

つまり、硝子が「過去を取り戻す」という、聲の形の世界の中では「正しくない、ずれたやりかた」で因果応報の罪への贖罪を行うならば、硝子は「将也を失う」=将也はこのまま目覚めずに死んでしまう、という究極の罰を受け、やはり「因果応報の無限ループ」から抜けられない、ということなのです。

つまり、この時点で硝子は、因果応報の理によって「罠にかけられ、試されている」といえます。

実は、映画の再開という硝子の行動自体は、ループ脱出という観点からも間違ったものではありません。
ただそれを、「過去を取り戻す、失ったものを修復する、かつて夢見た理想の世界に近づく」ための行動だと考えていた、その硝子の「解釈」が間違っていた、ということなのです。

将也が夢枕に立つ夢によって、硝子は、「聲の形」の世界を司る「因果応報の理」という強大な存在から、このままでは将也が失われるという「罰」が下るだろう、という宣告を受けたことになります。
その夢を見たあと、いてもたってもいられなくなった硝子は深夜に橋に向かいます。


第6巻172ページ、第52話。

橋の下にいるのは、まさにその「因果応報の理(ことわり)」を司る超越的存在である「鯉」です。

そして、橋に着いた硝子は、再会してからの将也とのさまざまな出来事を思い出し、やがて、とてつもなく重要な真理にたどりつくのです。

硝子が夢見ていた「理想の世界」とは、現実にはおこりえない「もし私に障害がなかったら」という世界でした。


第6巻157ページ、第51話。

硝子はその「if」の世界にきっと現実では手に入らないような幸せがあると信じ、その一方で、障害をもっている現実の自分を否定し、自分が生きている現実の世界をも否定的に受け止めてきました
だからこそ、そんな現実の世界の辛さを受け止めきれなくなったときに、自ら死を選んだのだと言えます。

でも、橋でこれまでのこと、将也との出来事を思い出して、硝子は気づきました。
現実にはおこりえない「夢」の世界よりも、障害をもった自分が現に存在する「現実」の世界のほうに、もはやずっと大切で価値のあるものがたくさんあって、たくさんの幸せをもらっている、ということに。
そしてその「大切なもの」のほとんどは、端的にいって、かつて「障害があったから自分に関わってきた(そしていじめた)」将也によってもたらされたものだった、ということに。


第6巻177ページ、第52話。

ここで、硝子にとっての価値観の大転換が起こります。

これまでの硝子の価値観とは、

・自分の障害を否定し、
・障害をもっている自分を否定し、そんな自分が周囲を不幸にしていると考え、
・「もし私に障害がなかったら」という理想世界を夢想している、


そんな、「現実を否定し、自分自身を否定し、それらの存在を受け入れない、肯定しない」というものだったと言えるでしょう。

そこから、

・自分に障害があるということを認め、
・障害のある自分をありのままに受け止め、そしてそれを認めて、そんな自分を隠さずに外に表して、
・それでもこの現実の世界で、必ず幸せは手に入るんだと確信する、


そんな価値観に転換したのです。
シンプルにいうなら、硝子はようやく18歳になって「障害受容」をすることに成功した、ということになります。

これが、硝子にとっての「因果応報のループ」を抜け出すための、決定的なカギになります

硝子が「現実」を否定するのをやめ、過去ではなく未来を志向できるようになったことで、硝子回の前半部分(理想世界の夢想部分)までは「過去を取り戻し、理想の世界を実現する」と(硝子の中で)整理されていたであろう、映画の再開という行為の意味、解釈も変わりました。

すなわち映画の再開とは、「失われた過去、理想の世界を取り戻す」ことではなく、「現実の世界のなかに希望を生み出し、未来の関係を作り出していく」ことであり、そういう未来の創造に自分は役に立てるんだ(周囲を不幸にする呪いなんてなかったんだ)、という「自己肯定」でもあった、ということです。

そして、その新たな「意味」のなかでは、他ならない「現在の将也」、かつては自分をいじめたけれども、会いに来てくれてたくさんの幸せを運んできてくれた「いま、ここ」にいる将也こそが、もっとも大切な存在だということにも、硝子は気づきました。

でも、その「いま、ここ」の将也は、呪いにとわれて犯してしまった自分の過ちによって転落、昏睡し、生死の境をさまよっている…。
その過ちの罪深さを思い、心からの後悔と、どうしても将也に戻ってきてほしいという心からの願いが橋の上での硝子を号泣させ、その涙は川に落ちて川の中にいる鯉に届きました。


第6巻181ページ、第52話。

繰り返しになりますが、この物語のなかで「鯉」は、因果応報の理(ことわり)を司る超越的な存在であり、罪を犯した人間を因果応報の無限ループに取り込んで罰を与え続け、一方でその罪をしっかり償った者には「奇跡」を起こして因果応報のループからの脱出に導いてくれる存在だと考えられます。
そしてこのとき、川に落ちた涙に込められた硝子の思いに十分な贖罪を認めた鯉は奇跡を起こし、将也を目覚めさせるのです。


第6巻183ページ、第52話。

…このように、第6巻で描かれていたのは、第5巻まででは「どうしても脱出できない」ように描かれていた因果応報の無限ループに対して、それぞれが「脱出のヒント」を得て、行動する過程だったと言えます。
その「脱出の方向性」はみな違いますが、1つ共通していることは、罪を犯したころの「過去」を償う、過去を取り戻そうとするのではなく、新たな「未来」を作ろうとすることが、ループ脱出のためには不可欠であるという、考え方の転換でした

ところで、第6巻の最後、鯉が奇跡を起こして将也が目覚めた瞬間に、将也と硝子は「因果応報のループ」を抜け出した、と考えられます。
いわゆるタイムループものの物語で、ループから抜け出すことが「ループする世界」から「ループしない世界」へ、パラレルワールド間の移動を行うことになるのと同様、将也と硝子もこの「目覚めた瞬間」に、因果応報のループのない別のパラレルワールドに移動したと考えられます。

将也らがパラレルワールドを移動したことを示す「証拠」は、第7巻、第61話に登場した鯉です。
第7巻における「こちらの世界の」鯉は、魔力をもたないただの鯉で、硝子らからえさをもらってまるまると太ってしまっていました。

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第61話、10ページ。

登場人物がこれまで苦しめられ、第5巻ラストでは全員がどん底まで叩き落とされた「因果応報のループ」から、それぞれが脱出するヒントを得た第6巻をへて、第7巻では、実際にループから脱出し、未来に向かって歩き始める姿が描かれます

将也は、第43話で誓った「約束」を1つずつ実行していきます。
まず「橋の上の奇跡」で硝子と、文化祭で映画メンバーやクラスメートと、そして第61話では植野と、それぞれ「ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと話す」ことを愚直にやり遂げました。


第57話、11ページ。

そして将也は、コミュニケーションの限界を自覚しつつ、でもそれを尊重して着実に前に進んでいくことでしか人間関係を構築していくことはできないのだ(逆にいえば、その手順をしっかり踏んでいけば、どんな人間関係だって「未来に向かって」やり直すチャンスもあるんだ)、ということを自覚します。

ここへきてようやく将也は、小学校のころに島田らに裏切られたことで失った、他人に対する信頼、自分に対する自信を取り戻し、過去へのしがらみからもようやく自由になることができたのだろうと思います。
そしてさらに、そうやって実現した「関係の再構築」によって、硝子はもとより、植野や結絃、西宮母、さらには佐原や永束、川井、真柴に対してすら、将也は「救い」を与えるほどの存在になっていきます。
これにより、将也は因果応報のループをようやく完全に抜け出した、といえると思います。

次に硝子です。
硝子の場合、既に第6巻でほぼ「ループからの脱出」は実現しているのですが、第7巻でそれを確固たるものにしています。

第7巻での硝子にとって、もはや障害は、否定すべきものでも隠すべきものでもなく、ただシンプルに「自分」の一部でしかありません
硝子は耳を隠すのをやめ、ヘアメイクイシダの店内をどうしても見たいと将也に甘え、押しの強いメールを送って将也を文化祭に誘い、選考会後にけんかが起これば不器用に声をあげて仲裁しようとし、ファミレスではくだらないことで声をたてて笑い、そして何より、みんなの反対をおしてまで東京に行って夢をかなえようとしました。


第59話、9ページ。

こんな風に「自分が自分であるように、ありのまま、自然体で生きていくこと」を実践すること、それこそがまさに、最終的に硝子がこれまでとらわれていた「一緒にいると(障害のせいで)不幸になる」「自分はいないほうがいい」という呪いから自由になり、不本意にもとらわれてしまった因果応報のループから脱出する行為になっているわけです。

さて、最後に植野です。
植野の第6巻(特に植野回後半)での認識の変化と行動の選択によって映画は完成し、その映画を大きなきっかけとして、将也は映画メンバーとの和解を果たしました。


第57話、11ページ。

映画メンバーと将也との和解は、(途中離脱したものの)植野と将也との和解でもありました
そして植野は第61話で将也をたずね、自ら過去の硝子いじめと将也いじめへの加担を告白し、謝罪します。それを将也は受け入れ、また同時に、将也は自身のなかですでに島田への確執が解決していることを植野に語ります。


第61話、9ページ。

それは、植野がこれまでずっとこだわっていた「過去」はもはやどこにも存在せず、そこには「いま、ここ」の現在しか存在しない、ということが示された瞬間でもありました。

憎むべき「過去の」ハラグロな硝子は存在せず、いろいろ助けてもらったけど、それでも好きになれない「現在の」硝子しかいない。

かつて将也と親友だった「過去の」島田は存在せず、すでに別々の道を歩んでいるかつての友人でしかない「現在の」島田しかいない。

そして、

かつて大好きだった「過去の」将也は存在せず、劇的に価値観を変えて大人になった「現在の」将也しかいない。

ということを、植野はこのとき、思い知らされたわけです。

でもそれは、植野にとって実は「ループからの脱出」が明らかになった瞬間でもありました

植野は、「過去の将也」「過去の島田」への未練を断ち、「過去の硝子」への誤解を解き、ようやく過去へのとらわれから解放されて、植野自身が「いま、ここ」から「未来」に向かって歩いていけるようになったのです。
このあと、植野はファッションで成功するという夢を実現するために東京に出ていきます。
これは、映画の衣装を佐原が勝手にコンテストに応募していたおかげでしたが、因果応報のループから抜け出して過去へのとらわれから解放されたからこそ、「佐原のおせっかい」というイベントが発生して、植野の「未来への道」が開かれたのでしょう。

第61話で植野は、「3つめの知らないこと」を伝えずに走り去っていきます。


第61話、9ページ。

このとき、植野は、「私は『過去の』あんたのことが好き『だった』」ということを伝えたかったのだと思いますが、「生まれ変わった『現在の』将也のことも好きになった(好きになることができた)」からこそ、あえて過去形の告白みたいなことせずに走り去ったのだ、と考えることもできると思います。

むりやり島田を引き合わせるような「過去の将也が好き」という植野が、そうではない「いまの将也が好き」に変わったとき、将也の隣の場所はすでに埋まっていましたが、それでも、いまの将也が好きになれたこと自体、植野にとって「救い」であったことは間違いありません

このように、「聲の形」の物語は、将也と硝子を中心とした、「因果応報の無限ループ」から脱出しようとあがく、ひとつの「罪と罰」の物語、「因果応報ループもの」の物語として読んだとき、全体像がきれいに浮かび上がるという性格を持っていると思います。

そして、第1巻から第7巻まで、巻ごとにその「因果応報」の位置づけ、役割がきれいに分かれて配分されているということにも気づきます。

第1巻:将也の「罪」と「罰」の提示。
第2巻:硝子の登場。将也の「贖罪」の提示。
第3巻:植野の登場。将也の偽りの「ループ脱出」の提示。
第4巻:硝子の「罪」と「罰」の提示。植野もまたループに陥っていることの示唆。
第5巻:全方位に向けた「罰」の発動。「ループ脱出」が失敗に終わっていることの提示。
第6巻:ループ脱出のためのカギを、各々が発見。
第7巻:ループ脱出の実現。


そして、ここが物語の最大のキーポイントだと思いますが、それぞれが因果応報を脱出するカギとなったのは、単なる「過去」の行為への贖罪、過去の修復ではなく、むしろ「罪」を背負っている関係や対象に対して、過去にとらわれずに「いま、ここ」を見つめ直し、「未来」に向けて新しい価値や意味を作り出すことに力を尽くすことにありました

ここで、前半で触れた西宮母のせりふ、

「あなたがどんなにあがこうと 幸せだったはずの 硝子の小学校時代は戻ってこないから」

を改めて思い出します。


第2巻165ページ、第13話。

西宮母が言ったとおり、どんなにあがいても、過去は取り戻せません。
でも、将也は「幸せだったはずの過去」は取り戻せませんでしたが、硝子の「幸せになれるであろう未来」を作り出すことができました将也は全7巻をかけて、あがきにあがいて、ついに「たどりつくべき場所」を見つけ、そこにたどり着いたように思います。

同じように硝子は、「小学校の頃から渇望していた、障害のない理想の世界」にとらわれることをやめ、「障害あるこの自分と、いま生きているこの世界」をありのままに受け入れ、肯定し、自ら明るい未来を作り出すだけの強さを手に入れました

植野もまた、「かつての将也」「かつての島田」にとともにとらわれていた過去から解放され、ようやく「いまの将也」のことも好きになれて、晴れ晴れとした思いで未来に向かって挑戦できるようになりました

ところで、ここで疑問になってくるかもしれないのが、将也と硝子以外の登場人物が、なぜこの2人と同じレベルの苦労をしていないのに、将也らと一緒に無限ループを脱出して「救い」が与えられているのか?という問題です。
これは、単にそれぞれの犯した罪の重さが違うから、と整理してもいいのかもしれませんが、どうもそれでは整理しきれない部分もあるように思います。
こちらについては、この連続エントリに続く、もう1つの「全体についての連続エントリ」で考えたいと思っています。

以上、非常に長文のエントリになりましたが、私が「聲の形」という物語全体を、どのように読み取ったか、という1つの考察として書かせていただきました。

(了)
posted by sora at 08:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 再構成版・物語全体 | 更新情報をチェックする

将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説

さて、聲の形にはいろいろな批判があって、そのなかには「確かにそうだな」というものもあれば、「それはこの作品の特質と考えるべきでは」と思うものもあります。
ここでとりあげようと思っているのは、私が「後者」だと感じる、典型的な意見のなかの1つです。

いわく、「この作品に出てくるのはクズばかりでみんなひどいことをやっているのに、手ひどい罰を受け、償いをさせられているのは将也ばかりで、不公平だし不正義だ」といった批判です。
これと連なる批判として「将也は植野とか島田に報復し、植野や島田らは自分の過ちを後悔し反省・謝罪すべきだ(そういう展開にならなかったのはおかしい)」といったものもあると思います。

確かに、作品を振り返ってみたとき、たとえば「いじめ」という行為ひとつをとってみても、作品内で「いじめ」を行なっていたといえる登場人物はけっこうたくさんいます。

・将也(硝子に対して)
・島田(将也に対して)
・広瀬(将也に対して)
・植野(佐原、硝子に対して)
・真柴のクラスメート(真柴に対して)


でも、このなかで、その「いじめ」という行為に対してはっきりとした罰が下っているのは将也だけです。
将也だけがひたすら贖罪を続け、それでもあまり報われずに生命の危機にすらさらされることになります。
しかも、それだけの罰を受け、贖罪を続けながら、将也だけが硝子に「謝罪」しています。

一方で、執拗さと期間の長さからすれば将也の硝子いじめを上回ると考えてもおかしくない、島田による将也いじめや、佐原を不登校に、そして硝子を転校に追い込んだ植野は、少なくとも「いじめ」を直接の理由とする罰は受けていないと言ってもいいでしょう。
特に島田・広瀬については、島田は「のうのうと」音楽に生活をささげてフランス留学まで決めていますし、広瀬も「のうのうと」彼女を作って結婚、子どもを作って幸せそうに生きています。そういえば、真柴をいじめていたクラスメートの男女も同じような感じでした。

また、小学校の学級裁判で将也をスケープゴートにして自らの地位保全をはかった竹内や、硝子の障害をあしざまに罵って西宮母を絶望させ、さっさと離婚して逃げてしまった西宮父とその家族なども、やったことは相当ひどいにも関わらず罰らしい罰は下っておらず、やはり「のうのうと」生きているのだろうと思われます。

これらの「将也以外の加害側」と呼べる人たちのうち、後悔や謝罪が描かれているのは植野だけで(それにしても謝罪は部分的で、将也昏睡中のモロモロとかは隠してしまっていますし)、島田を初めとするその他の人たちはみな後悔も反省もなく生きています
むしろ、そういった人たちを将也のほうが「許して」いるようにさえ見えるわけです。

このように、聲の形という作品では、将也とそれ以外の人間を並べて比較した場合、「罪」と「罰」のバランスがまったく取れていません
それは間違いのない事実で、将也だけが罪に対して過重なまでの罰を負い、逆に将也以外は罪がいくら重くてもあまりそれに見合った罰が与えられていないのです。

リアルであれ虚構であれ、ある世界のなかで、善と悪が公正に裁かれることを期待する立場からは、「聲の形」というのは、実に不正義、不公正な物語の展開をしているように映るのだろうと思います。

でも、それは「物語の構成が下手でバランス感覚が悪いから」そうなっているのでしょうか?

私は、そうではなくこれは「意図的なものだ」と考えています。

将也は、この作品の中で、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。
将也は、この作品の中で、ある意味「ただ一人」、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。


一方、

各登場人物には、この作品の中で、最終的に救いがもたらされます。
各登場人物には、この作品の中で、最終的に「ほとんど全員に」、救いがもたらされます(あるいは、最初から「罪」などなかったかのように生きることが「赦されて」います)。


ここに、対応関係があることがわかるでしょうか?

罪を負い、それを償うのは、将也ひとり。
罪を負ったけれども、その罪が赦され、救済が与えられるのは、登場人物みんな。


この対応関係を解釈する方法は、2つあります。
1つは、

この「こえかたワールド」は非常に不公正、不正義な世界であって、将也はささいなことで罰を受けまくってひどい目にばかり会うのに対して、将也以外はひどいことをやっても最初から許されて、罰を受けることもなくのうのうと生きていけるようにできている。

という考え方。
これに対して、もう1つの解釈とは、

この「こえかたワールド」では、本来は、すべての人の罪に対して同じように罰が与えられ、その罪を償うことが求められる公正性のバランスのとれた世界である。
でもそこに「将也」が現れ、他の人の罪までひとりで引き受けて、まとめて罰を受け罪を償って、他の人の罪まで救済してしまった。
将也以外の人は、そんな「将也」の救済に気づかず、自分は罪もなくのうのうと生きていられるのだと錯覚している。


となります。

聲の形の世界において「将也ばかりが罰を受けている」という認識を、宗教的な1つの世界観によって視点を変えて、「将也がみんなの罰を代わりに受けている」ととらえると、その世界が変わって見えてきます

なお、このエントリは、このあたりから非常に宗教的、観念的な議論に入っていきます。
別エントリの「インガオーホー」論は、あえていうならば「聲の形」の世界観の仏教的側面にスポットライトを当てて読み解いたものでしたが、こちらのエントリでの議論は、「聲の形」の世界観のキリスト教的側面に注目したものになる、と言ってもいいかもしれません。

私自身は、リアル社会の価値観としては、必ずしもこういった宗教的価値観に共感するものではありませんが、作品の「読み解き」としては、ここは外すことができないと考えています。
なぜなら「聲の形」には、さまざまな宗教的世界観・価値観が間違いなく流れていて、それは実は作品全体を貫く「裏テーマ」ですらあるのではないかと感じるからです。
ですので以下のエントリでも、作品全体を流れるこういった宗教的世界観について、しっかり掘り下げて考えていきたいと思います。

さて、通常の倫理観からすると、ある人の罪は、当然にその人当人に責任があり、それによって受ける罰はその当人が引き受け、そして自ら罪を償わなければならない、ということになります。

でも、この世の中では、誰もがそれができるほど強いわけではなく、自らの「罪」にちゃんと向き合って、そしてしっかり罰を受けながら罪を償っていける人ばかりではないでしょう。
そんな「弱い人」があふれる世界は、誰もが自らの罪を直視できず逃げ惑い、そしてなすすべもなく罰を受け続ける、救いのない世界だと言えるのではないでしょうか。

そんな「救い」のない世界に、「救い」をあまねく届けるための「答え」の1つ。
それは、自ら罪に向き合うことができず、その罪を償う強さを持たない者たちの罪を一身に背負い、受け止め、そしてそれらの者たちに代わって罰を受け、それらの者たちに代わって彼らの罪を償い、それによって「弱き者たち」に救いを届ける、そんな存在が現れることです。

そういう人物のことを、人は「救世主」と呼ぶでしょう。

つまり、前エントリでいうところの「後者の解釈」で聲の形の世界を読み解くとするなら、将也はこの世界の中で、自分自身のみならず、周囲にいるさまざまな人たちの罪を背負い、罰を受け、そしてその罪を当人に代わって償い、救いをもたらす、宗教的救世主として描かれている、ということになるのではないか?と考えられるわけです。

将也が「他人の罪まで背負ってそれを償い、救済を与える救世主」である、と読み解くとき、その「救い」が与えられたもっとも典型的な登場人物といえば、

西宮母

でしょう


西宮母については、硝子が障害をもって生まれてしまった事情や、そこから発生した夫との確執、離婚については同情を禁じえませんが、それ以降に彼女がとった「行動の選択」からは、先に述べたような意味に近い、問題を直視できない「弱さ」を感じざるを得ませんし、さらにそのような弱さの結果として新たな「罪」を重ね、罰を受け続ける負のスパイラルに入ってしまっていることも明らかです。

西宮母が硝子を育てるにあたってとった子育ての方針とは、硝子がもって生まれた障害を「否定・否認」し、「障害を乗り越えて普通になることができれば認めてあげる」という「条件付き承認」を硝子に提示することでした。
そしてそういった子育てに否定的な西宮祖母や結絃といった家族の意見をすべて無視し、硝子のことを自分がすべて決める、という方針のもと、障害の重さからすれば相当に困難が予想される「普通級への就学」にもこだわり続けました。


第1巻65ページ、番外編。

一般的にいえば、西宮母は「障害に無理解な親」の典型例の1つといえます。

その結果、硝子は学校でいじめを受け続け、常に自己を否定し自殺念慮をもつような極めて自己肯定感の低い子どもに育ってしまいましたし、結絃は母親とのコミュニケーションを拒絶して不登校となりました。
西宮母自身も、家庭にも学校にもプライベートにも、どこにも味方がいないような環境に自らを追い込んでしまっていました。
もしもあのまま西宮家が将也と関わっていなければ、結絃は不登校のまま中卒後は行き場を失い、西宮祖母の死去を受け止める余裕もなく、硝子もまた、結絃や家族の人生を不幸にしてしまったことへの責任感から結局自殺していたのではないかと思わずにはいられません。

高校編スタート時までに起こっていた西宮家のさまざまな不幸は、遡れば夫からの理不尽な離婚とその際の暴言が出発点にはなっているかもしれませんが、直接的な「元凶」はやはり、西宮母自身のその後の行動選択にあった、と言わざるを得ません
それは、繰り返しになりますが、西宮母が、自らの「弱さ」ゆえに重ねてしまったさまざまな「罪」(誤った行動選択)と、その結果としての「罰」(不幸な出来事の発生)の無限連鎖なのだと言えるでしょう。

このような流れを見ると、本来であれば西宮母が「弱さ」ゆえに犯してしまったさまざまな罪によって、西宮家は最終的に「一家崩壊」という最悪の罰を受けてもおかしくない状況にあったわけです。
そして実際、すべてのできごとはその方向に向かっていたように見えます。
しかも、西宮家の誰一人として、その流れを止めることができない状況にありました


でも、そんな西宮母と西宮家の運命に、小さな、でも決定的な転機が訪れたのは、硝子を水門小の「普通クラス」に転校させるという西宮母の選択の結果、硝子が将也と出会った瞬間でした


第1巻54-55ページ、第1話。

この「水門小普通クラスへの転校」という選択自体は、他の選択と同じく、障害を否定しようとする西宮母の強引な意思によるものであり、そういう意味では本来は事態を好転させるものではありませんでした。
実際、硝子は水門小でもクラスに溶け込めず、将也や植野からひどいいじめを受け、硝子は絶望し、最後は追い出されるように学校を出ていったわけです。

でも、そこに将也がいて、将也と硝子との間に「つながり」が生まれたことが、硝子、西宮母、そして西宮家全体の運命を、5年後に大きく変えることになります

結果的に、「将也と出会った」西宮家の運命は、劇的に好転しました。
西宮母自身は「問題解決をする動きをしていないのに」、将也とかかわったことによって、最後はとても幸せな環境を取り戻すことに成功しています。


第55話、9ページ。
ここでの西宮母のこのせりふは、本考察をふまえると非常に本質を突いています。
「あなたがどんなにあがいても…」のせりふもそうでしたが、西宮母は本作品の宗教的側面について、かなり自覚的なキャラクターだといっていいでしょう。


そしてそれは、硝子にしても結絃にしても同じでしょう。
西宮家の家族は、全員が長い間にいろいろなことをこじらせていて、お互いがお互いに対して悪い影響を与えるような状態になってしまっていました。
もはや、誰がどんな罪を背負っていて、誰がどんな罰をいま受けていて、それらをどうやって償っていけば、もつれた罪と罰の糸を解きほぐして「救い」にいたるのか、まったく分からないような状態だったと言えるのではないでしょうか。

それが、将也がやってきて、それぞれが将也と関わったことで、なぜか全部解きほぐされて、全部解決してしまったわけです。

そしてそのプロセスで「罰」を背負い、贖罪に命を尽くしたのはほとんど将也だけでした
逆に将也はその過程で、結絃にも(バカッター事件等)西宮母にも(ビンタ攻撃)いろいろひどい目に合わされていますが、怒ることも非難することもやり返すこともなく、ただただ淡々とそれらをすべて受け止めていきます。

そして、「西宮家全員の救い」という「結果」を、たったひとりで出しているわけです。

将也は、確かに他の登場人物と比べても極めてバランス悪く、ひとりでものすごい重さの罪を背負わされ、次々と不幸と苦難に見舞われています。

でもそれは、将也の罪だけが重く設定されているというよりはむしろ、

将也が、将也以外の罪まで引き受けて、そしてそれを贖って、将也以外の人間まで救済しているのだ。

と考えたほうが、よほどすっきりとこの物語を理解できるように思う
のです。

では、将也が実際に「あらゆる人の罪を引き受け、その罪を償った瞬間」とは、いつだったのでしょうか?

それは、私は、

第43話で、硝子の身代わりになって川に転落した瞬間

だったと思います。


第6巻17ページ、第43話。

将也が物語の中で救世主的存在として描かれていると考えると、第43話で描かれた「度胸試し」、硝子の身代わりとなって将也が転落したことの意味は、違って見えてきます。

つまり、将也はこの場面で「転落しなければいけなかった」し、将也は転落によって「大いなる贖罪を遂に成し遂げた」ということになるのです。

以前も一度考察しましたが、このときの将也の行いは、キリストの「最後の晩餐」を思い起こさせるものになっています

硝子は、自分の周りの人間が不幸になるのはすべて自分の呪いであるという考えをもち、映画メンバーも家族も含め、あらゆる人の罪と不幸を一身に背負い、それらを償おうとして飛び降りたのだ、といえるでしょう。
だとすれば、そんな硝子を受け止め救出して、代わって自らが身を投じた将也は、硝子の背負っていた「罪」を、さらに硝子に代わって引き受けて転落した、と考えることができるのではないでしょうか。

硝子は「すべての関係者の罪」を背負って飛び降りようとしたわけですから、その硝子の身代わりとなって転落し、硝子が抱えようとしていた罪も代わりに引き受けた将也は、「硝子の罪」に加えて、硝子を通じて間接的に「すべての関係者の罪」を引き受けて、身を投じたことになったと言えるでしょう。

みんなの罪
  ↓
  ↓ 背負う
  ↓
硝子]+硝子の罪
    ↓
    ↓ 背負う
    ↓
  [将也]+将也の罪
      ↓
      ↓ 償う
      ↓
    [池の鯉


このとき、転落した川の中には、鯉がいました。


第43話、17ページ。

別のエントリでも考察しましたが、この物語のなかで、鯉は「インガオーホー」の理(ことわり)を司り、罪ある者に罰を与え、それを贖った者に奇跡を起こす超越的存在として描かれている、と思っています。

将也は、そんな鯉のいる川の中に身を投じましたが、それは「鯉」に対して自らの肉体と血を捧げる(実際、将也は第43話の見開きで血を流しています)ことであり、これまでの罪をつぐなう最大級の行為であったと思います。
ちょうどキリストが最後の晩餐でパンとワインを「これはわたしのからだと血である」と言って分け与え、そして処刑され、その処刑により人々の罪が贖われ誰もが救済されたと信じられているように。

将也が硝子の身代わりとなって、鯉のいる川に身を投じて「罪」を償おうとしたとき、将也が背負っていたのは、

・将也自身の罪

だけでなく、

・自殺という過ちを犯した、硝子の罪

も一緒に背負っていた、と言えます。
そしてさらに、硝子自身が引き受けようとしていた、

・将也、硝子がかかわってきた、すべての人々の罪

も、硝子から引き継いで、一緒に背負っていた、と考えられるでしょう。

つまり将也は、この行為によって、自分自身のみならず「硝子を含む、すべての関係者の罪」を、彼ら・彼女らに代わって引き受け、そして償ったのだ、と考えられます。

そしてこの「贖罪」は、川にいた「鯉」によって受け入れられ、贖罪を認めた鯉は1つの「奇跡」を起こします。
将也転落の際に、島田と広瀬が「偶然近くにいた」という状況を作り出し、彼らに転落直後に将也を救出させることによって、将也は水没による呼吸停止で脳や心臓に致命的なダメージを受けることなく、純粋な「落下の衝撃」だけのダメージに留まってとりあえず一命をとりとめました。


第6巻152ページ、第51話。

これは偶然にしてはあまりにもできすぎていることからも、物語の中でも単なる100%の偶然ではなく、何らかの大いなる意思の働いた「奇跡」である、ということが示唆されているようにも思われます

ただし鯉はここで、将也をすぐに完全復活させることはありませんでした。
将也が与えようとしている「救済」について、それを「与えられる側」にその準備はできているのかを、しばらくじっと見守っていたのです。(それに加えて、将也が償うことができなかった「罪」が1つ残っていた、ということもあります。これについてはあとで説明します)

第6巻の各自視点回(さらには、結絃視点の最初のほうの回も)を改めて読むと、どの回も、その登場人物と将也がどのようなかかわりをもち、そしてそれによって、自分自身がどのように(将也の影響を受けて)変わっていったのかが描かれていることが分かります。


第6巻81ページ、第47話。

誰もが、将也との出会い、関わりによって自己を省みていろいろなことを考え、少しずつ前へ、「いい方向へ」進んでいることが、各自視点回では示されました。
その事実をもって、将也の救いが「成る」機は熟していきました。

そして、最後に残ったのが硝子です。
硝子は、こと将也の身代わり転落に関してだけいえば、最も重い「罪」を背負っていることは明らかです。

将也は、硝子についても、転落時にほとんどの罰を引き受けてくれていたはずでしたが、最後の最後に犯された「罪」だけは(時間軸的にも)引き受けることができませんでした。

硝子が犯した最後の「罪」と、それがゆえに硝子に残された「罰」。
それは、自分の肉体を軽んじて、自殺という過ちを犯してしまった」という「罪」に対する、「代わりに大切な人の肉体が痛めつけられ、自分は生き残ってしまって、その一部始終を見届けなければならない」という「罰」です。


第6巻149ページ、第51話。

硝子については、この「罪」を自覚し、償うことができるかどうかが、将也の「救済」を受けるための前提条件になったと考えられます。

そんな硝子の1つめの「贖罪」は、「映画を再開する」という行為によってなされました。
橋崩壊事件以後、ばらばらになってしまった映画メンバーのつながりを、自らの行動によって修復し、そして映画撮影の再開にまでこぎつけることができました。

これによって「贖罪」の第一段階は成った、と判断した「鯉」は、いよいよ硝子が将也の「救い」を与えられる「準備」ができているのかどうかを試そうとします。

鯉は硝子の夢枕に将也を登場させ、「将也と出会わず、友達とうまくやれていればすべてが丸く収まっていたんじゃないか? そういう運命を選んでいたほうが良かったんじゃないか?」という謎を、硝子にかけます。


第6巻163ページ、第51話。

これも別エントリで考察しましたが、これを「硝子の側」から解釈すれば、「私に障害がなかったら、という理想の世界のほうに行くこと」と、「私が障害を持っていて、いじめを受けたりする現実の世界にそれでも残ること」のどちらを選ぶんだ、という選択が提示された、ということです。

硝子はここで、「将也と出会ったこの現実の世界こそが、辛いこともたくさんあるけれども一番大切なんだ、私が選ぶのは、いまここの現実の世界だ」という「答え」を見出します。
そして、その「答え」を噛み締めたとき、改めて、自殺という過ちを犯し、将也を傷つけてしまった「罪」の重さを再認識し、硝子は深く深く後悔し、涙を流します。


第6巻181ページ、第52話。

硝子は「正しい答え」にたどり着いたのです。

その涙は、川のなかにいる「鯉」にしっかりと届きました。
これをもって、硝子の「贖罪」も完了し、そして硝子を含むすべての人間が、将也による「救い」を与えられる「準備」もすべて成ったということになります。

そして鯉は、最後の大いなる奇跡を起こします。

硝子が橋の上から落とした涙を受け止め、将也による救いを受け入れる「準備」が硝子を含めてすべて正しく整ったことを確認した川の中の鯉は、最後の大いなる奇跡を起こします。

それはもちろん、

将也の復活

です。


第6巻183ページ、第52話。

実際には、将也の復活から、それに続く「橋の上の奇跡」までが、このとき鯉が起こした、物語中最後の奇跡だったと言っていいでしょう。
この「奇跡」が発動中の第53話では、将也が遠視能力を発揮して病床から橋の上の硝子を見つける描写まであります。


第53話、4ページ。

しかもこのとき、将也が夢に見た硝子の姿は、将也が一度も見たことがないはずの、腕を吊るサポーターをつけたものでした。
これもまた、この展開が超常的な「奇跡」であることをあえて明示する描写だったのだろうと思わずにはいられません。

ところで、この「奇跡」の場面でも、将也が自分以外の人間にまで「救い」を与える力をもった、救世主としての特別な存在であることを示唆する描写があります

それは、

将也が復活した「日」

です。

この「将也が復活した日」が、キリスト教において、キリスト処刑後に「キリストが復活した日」とつながりを持たされているように思われるのです。

キリストは、処刑から「3日後」に復活したと言われます。
連載の将也転落の頃から、「将也=キリスト、と扱われているのではないか?」という仮説をもっていた私は、将也も、このキリストの逸話と同様、川に転落してから3日後にきっと復活するだろうと予想していましたが、その予想はあっさりと外れました。
将也が実際に復活したのは、転落からおよそ2週間ほどもたった後でした。

連載中は、「転落後3日」を過ぎてもまったく将也が復活する様子がみられないことから、「将也=キリスト」説は、いったん説得力を失って徐々にフェードアウトしていったかのように見えていました。

ところが、実は将也とキリストの「つながり」は消えていなかったのです。

第52話から第53話において将也が復活したことを受けて、改めて日付関係を確認・整理してみた私は、驚くべきことに気づきました。

将也は、転落してから目覚めるまで、2週間も眠り続けていました。
でも、それと同時に、将也はちゃんとキリストの逸話と同様、「3日で」復活してもいたのです。

それは、将也が復活した日がいつなのか、カレンダー分析を行うと見えてきます。

実は、「聲の形」のなかで、日付がはっきり示されている日はそう多くありません。
高校編では、初めて将也と硝子が再会した「4月15日」、橋崩壊事件のあった「8月5日」、そして映画再開にこぎつけて水門小ロケが行われた「9月2日」、この3日しかないのです。

ただ、ここから「将也復活の日」については明確に確定させることができます。
硝子が橋に向かって家を飛び出したのは「もうすぐ火曜日が終わる」9月2日火曜日の深夜です。デジタルクロックに、日付と時間がはっきりと表示されています。


第6巻166ページ、第51話。

そして、橋について涙を流している場面で時計台が映り、そこではっきり夜中の0時を過ぎていることが描かれています。


第6巻181ページ、第52話。

つまり、このとき日付はすでに変わり、「9月3日」になっていることが分かります。
(ちなみにこのシーン、たった1コマのなかに「9月3日であることのエビデンス」と「鯉」と「硝子の涙」、この3つがまとめて描かれていることは、非常に重要です。)

そしてそのあと、どうなったでしょうか?

そうです。
ここで、将也は目覚めるのです。
つまり、「将也復活」は9月「3日に」実現しているのです!

物語の展開上、将也を転落から3日後に目覚めさせることはできませんでしたが、それでも作者は、将也の復活をキリストの復活になぞらえたかったのではないか、と思います。
そこで、「3日」という日付にこだわって、9月3日に将也を復活させたのではないか、と私は想像します。

将也の復活が9月「3日」となっているのが偶然ではなく、作者が意図的にこだわっているのではないか、と推測できるポイントとして、以下の3つほどをあげることができます。

1.将也が復活した9月「3日」という日付が強調されていること。

2.水門小ロケの日程に不自然さがあること。

3.将也が復活した曜日が、火曜日ではなく水曜日であること。


順に見ていきたいと思います。

まず1つめとして、将也が復活したのが、この「9月3日」である、ということが、誰にでもはっきりわかるように非常に丁寧な描写をしている点が挙げられます。

まずデジタルクロックで「9月2日」という日付を明示し、さらにその後で深夜0時を過ぎている時計台を映して「日付が変わった(=9月3日になった)」ということをはっきりと示しているわけです。

ここまで丁寧に「日付」を描写しているのは、作者がその日付に意味を持たせているからと考えるほかありません

2つめは、ロケのタイミングの不自然さです。
つまり、なぜわざわざ水門小のロケを、学校が始まってしまったあとの9月2日に行なう設定にしたのか?という疑問です。
もともと(橋崩壊前に)真柴と将也でロケの許可をもらいにいったとき、真柴は「夏休み中に撮りたい」と言っていました。常識的に考えれば、9月に入って新学期が始まり、生徒が学校にくるようになってしまった後では、ロケの許可なんて普通はおりないでしょう。

もちろん、橋崩壊→映画撮影中止という事件があって、当初考えていたよりもロケのタイミングが大幅に遅れたということはあるわけですが、それにしても、物語のカレンダーを調整して、夏休みの終わりぎりぎりくらいに水門小ロケを持ってくることは、それほど無理をしなくても可能です。

にもかかわらず、「あえて」水門小ロケは新学期が始まったあとの「9月2日」になっているわけです。
これは、「映画再開・水門小ロケ→その日の夜に硝子が夢を見る→日付が変わって将也復活」という流れが最初から想定されていて、しかも「将也復活」が9月「3日」に固定されていたために、必然的に(多少不自然であっても)水門小ロケを9月2日とせざるを得なかったのだ、と考えるほかありません。

3つめは、将也の復活を火曜日ではなく「水曜日」にしている点です。
将也は、硝子の夢枕で「もうすぐ火曜日が終わる」と言って去っていこうとしているわけですから、それを硝子が引きとめて、そしてその願いがかなって将也が復活する、という展開を考えるならば、やはり火曜日中に将也が復活し、再会できたほうが美しいでしょう。そうすることで、「火曜日」というのをよりいっそう特別な曜日として位置づけることができるわけですから。

でも、実際には日付が変わってしまって、「水曜日」に将也は復活し、橋の上の奇跡につながっていきます。
なぜ「9月2日・火曜日」ではなく、「9月3日・水曜日」に将也が復活したのでしょうか。
それは、「火曜日に再会する」という「曜日」の展開の美しさよりも、「復活するのが3日である」という「日付」のほうが作者として重要度が高かったから、と考えるほかありません。

これらのポイントを見ると、多少の強引・不自然な展開を許してでも、将也の復活を「3日」にしたかったのだ、という作者の意図がはっきりと伝わってくるように感じます。
そしてその理由は、将也の復活を9月「3日」とすることで、将也の転落をキリストの処刑に、「3日」の将也の復活を、「3日後」のキリストの復活になぞらえたかったからなのではないかと思います。

そして、すべての「準備」が整い、「3日に」将也は復活します。

将也が復活したあとの世界は、将也による「救い」によって、将也や硝子をとりまくあらゆる登場人物に対して、それぞれ「救い」が与えられる世界に変わっていました。

さて、第7巻です。
将也は復活し、将也の贖罪によって将也と硝子をとりまくあらゆる人物の罪は救済されました

硝子は障害をありのままに受け入れて自分を認めて生きていけるようになり、自分が周囲を不幸にするという「呪い」からも解放されました。

結絃は登校を再会して高校にも合格し、西宮母は子どもが全員立ち直ったうえに自らも飲み友達ができ、外にも中にも味方がいる安定した環境を手に入れました。

石田家にはペドロが戻り、新しい子どもも生まれ、将也の進路選択の結果、家業の後継問題もなんら心配がなくなりました。

佐原は植野と和解し、自らを高める努力が実って東京行きが決まり、自らファッションブランドを立ち上げて20歳で社長になってしまう勢いです。

植野も過去へのとらわれから解放され、東京で成功する道を切り開いて家庭の貧困から脱出するチャンスを得ました。

永束はずっと渇望していた確かな「友情」を手に入れて信じられるようになり、
川井は矛盾が生じてきていた優等生キャラをスムーズに卒業し、人間関係を維持したままより自然に振舞えるようになり、
真柴は過去のいじめ経験のトラウマを解消して前向きに将来を考えられるようになり、人間も丸くなりました。


これらは、もちろん個々の登場人物の成長としてとらえることもできますが、「将也=救世主」論をとおしてみたときには、全員の罪をつぐなったあとで復活した将也が見た、「すべてが救済された世界」でもあった、と思うのです。

そして、肝心の将也自身ですが。

将也の進路自体は実家の家業を継ぐ、という、率直にいえば「地味な」ものになりましたが、「未来への希望」という、かけがえのない大きなものを手に入れました。

それに、将也は2度も命を救われているんですよね。
1度目は、最初に硝子と再会したとき、「友達になれるか?」の手を硝子が握り返してくれたことによって。
2度目は、転落し、昏睡して生死の境にいた将也の「手を引っぱって」、目を覚まさせてくれたことによって(こちらで「手を引っぱった」のも、硝子(の心)だった、と考えられそうです)。


第53話、3ページ。

命を救われ、未来に希望を得て、はっきりした進路が見つかったこと(さらには硝子を人生のパートナーとして得たこと)、これらを総合的に考えるならば、実は最も大きな「救い」が将也に与えられていると私は思います。

佐原や植野、島田が外の世界に羽ばたき、真柴や川井が大学に進学していくなど、これらのメンバーが「大きな成功」を手に入れているように見える一方で、将也が地元で「くすぶっている」ことに、やはり不公正感(罰を受けていない植野や島田がのうのうと成功して、罰を受けまくりの将也が地元で先の見えた将来なんておかしい)を感じるむきもあるかもしれませんが、作者はあえて意図的にそれをやっているように思います。

登場人物の成功とか勝ち負けを、本人の進路の可能性みたいなもので測るとするならば、進学校に行ったにもかかわらず大学に進まず、実家の理髪店を継ぐことを決めた将也は、大学に進学したクラスメートや、東京で実業家になりそうな佐原・植野や、フランスに羽ばたいている島田らと比べてずいぶん小さくまとまってしまったように見えます。

でも、これまで見てきたとおり、この物語の中での将也の存在の大きさ、重さというのは、将也自身の進路がどうこうということではなく、将也とかかわった周囲の人たちがどのくらい人生を好転させたか、その「総量」で測られるべきなのではないか、と思うのです。

そういう意味では、将也は「救世主」的存在でもあり、また見方を変えると「触媒」的な存在でもあったと思います。
将也との再会がなければ、佐原と植野が親友になり、東京で一緒に実業家になるなんていう未来はなかったでしょう。永束は孤独なままで、真柴は過去にとらわれて歪んだ進路を選択し、川井は自身の「気持ち悪さ」に無自覚なまま、どこかで人間関係の破綻を招いていたと思いますし、結絃は不登校のまま、そして硝子も西宮母も不幸なままだったと思います。

そんな将也のまわりの人たちが、将也と関わったことで、誰もが人生を好転させていくわけです。
もちろんそれを「将也のおかげ」と考えるのはずいぶん勝手な考え方でもあるのですが、また一方で、物語として「そういう目に見えない力が働いたからこそ、事態が好転したんだ」と考える「見方」もできると思うのです。

そう考えれば、地元で「散髪屋のオヤジ」になる道を選んだ将也が、本当は「とてつもなく多くのことを達成し、多くの人の人生を変えた偉大な存在」として、聲の形のキャラクターのなかでもひときわ輝いて見えてくるのではないでしょうか

このように、将也を救世主ととらえて「聲の形」を読み解くなら、第5巻から第7巻はそれぞれ、以下のような意味のある巻としてきれいに分けられていることになります。

第5巻:将也がすべての「罪」を一身に背負って「処刑」を受ける直前まで(最後の晩餐)。
第6巻:「罪」を背負った将也の処刑(転落)による贖罪の成就と、将也の復活。
第7巻:あらゆる「罪」を償った将也による「救済」の実現。



さて、最後にまとめ的な話を。

この「聲の形」の物語で、将也ひとりがたくさんの罪を受けているのは、「将也だけがひどいめにあうひどい話」だからなのではなくて、「将也があらゆる罪を背負って償い、あらゆる人の成功・成長を触媒して救いを達成する話」だからなのだ、と私は思います。

そして結果的に、将也自身はささやかで平凡な幸せを手に入れるだけだけれども、逆に将也のまわりの人間は将也が存在したおかげで救われ、将也のおかげで大きな幸せを手に入れていて、そんな「実は将也ってのはすごい存在なんだ」ということを、読者だけがメタの視点で知っている、そういう物語なんだろう、と思っているわけです。

(了)
posted by sora at 08:34| Comment(5) | TrackBack(0) | 再構成版・物語全体 | 更新情報をチェックする
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