2014年08月04日

聲の形の最終話の掲載号が確定!

つい先ほど、ツイッターで、「聲の形」の編集に関わられている @betsumaga さんが、以下のツイートをされました。




これまで、7巻完結、という話はありましたが、終了号まで明言されたのはこれが初めてです。

51号ですかー。

今回の「佐原回」の第47話が載ってるのが35号なんですよね。
そうすると、単純計算だと51-35=16、再来週が合併号なので1回マイナス、休載が0~1回程度と考えてあと14~15話、たしかにちょうど7巻分のボリュームが埋まるくらいの計算ですね。

51号ということは、11月くらいでしょうか。
なんかもうあっという間に来てしまいそうで寂しいですね。
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2014年09月05日

将也が記憶喪失になった場合の第7巻の展開は?

さて、次回予想として「将也は目覚めるが記憶喪失になっていた」が当たったとすると、第7巻の展開がうっすらと見えてきそうな気がするのですが、どうでしょうか。

それはつまり、

映画によって、将也の「記憶が失われた時間」を作り直す。

という展開です。

この映画、まだ細かい内容がほとんど明かされていませんが、

1)将也(に相当するビッグフレンド)の登場」から始まって、

2)「いじめられっ子がいじめっ子に復讐する」といういじめの復讐劇がストーリーの骨格としてあり、

3)妖精などが登場するファンタジー要素が込められている、


ということは分かっています。

これ、「将也の人生のやり直し」ととらえると、うってつけの展開になっているのではないか、と思うのです。

「ビッグフレンドの登場」はもちろん、将也が映画の舞台に登場することを示しています。まだ第51話では永束の買収小学生を使って「小学校時代」を撮っているだけのようですし、これから「成長したあとの復讐劇」のほうを橋メンバーで撮るとすれば、今から主役を将也に入れ換えてもOKということになります。(あるいは、主役は真柴のままでも、真柴がバーチャル将也を演じることで将也の「生き直し」を実現できるかもしれませんし、そのほうが真柴が光るかもしれません)

そして、「いじめられっ子がいじめっ子に復讐する」というのは、まさに硝子と将也の関係とシンクロさせることが可能ですから、二人の「かつての日々」のやり直しとして描くことが可能になります。


第4巻49ページ、第26話。さすがにここからはストーリーは変わるでしょう。

そしてそこには当然、将也と硝子だけでなく、まわりの人間が何を考え、どんな風にかかわっていくかも描かれることになるので、これはまさに「小学校時代の人生のやり直し」そのものになるように思います。
映画撮影に参加しているメンバーの多くも、かつての小学生時代のクラスメートですからね。

さらに、「妖精が登場する」というのも、隠れたキーポイントです


第4巻48ページ、第26話。

実際の将也と硝子の関係においては、硝子が聴覚障害者であることからコミュニケーション不全が発生し、お互いに不幸な結果に終わりました。
これは、2人の関係のみならず、硝子と他のクラスメートの関係においても同じだったでしょう。

でもここに、「妖精」とかファンタジーの要素を入れることができれば、硝子の思いを自由に伝える(別に妖精が伝えてもいいし、超能力とか魔法を想定してもいい)ことができるようになるので、硝子が本当に伝えたかった事を、ファンタジーの文法のなかで、しっかりと伝えていくことができることになります。
その役回り=硝子が伝えたかった「こえ」を伝える役回りとして、結絃ほど適任な人間はいないでしょう。

そして、将也にとって「硝子と最初に会ってからいままでの時間」というのは、「記憶が失われた時間」でもあるかもしれませんが、そもそも「将也自身の失われた人生の時間」でもありました。
それは実は、硝子にとってもそうですし、植野や佐原、真柴についてもそうだった、と言えます。

ですから、将也の「記憶が失われた時間」を取り戻す映画撮影の過程は、同時に、将也・硝子を含む、ほとんどの映画撮影メンバーにとって「失われた人生の時間を取り戻す過程」にもなるはずなのです。

そんな、とても重要な意味を込めた「映画撮影」によるメンバー全員の再生物語

もしも第6巻のラストが「将也の記憶喪失状態での目覚め」となった場合に考えられる、第7巻の展開は、そんなものになるのではないでしょうか。
タグ:第51話
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2014年09月17日

聲の形の「オカルト的展開」をどう読むか、という話

これ、エントリとして書くかどうか迷ったのですが、たぶん第51話から53話くらいの展開について議論していく際に、この部分について私がどう考えてエントリを書いているのかを示しておかないと、個々のエントリごとに微妙に火種がくすぶりそうなので、独立エントリとして自分なりの立ち位置を示しておくことにしました。

端的にいって、第53話で、

1)将也が硝子と同じ夢を見たこと。
2)将也が橋で泣いている硝子を夢で「透視した」こと。
3)その泣いている硝子の服装が、将也が見ていないはずのものだったこと。


などは、どれも「超能力的」であるように見えます。

こういった展開をみると、聲の形はオカルトまんがになってしまったのか、だとすればなんでもありだから「考察」しても仕方ないんじゃないか、といった意見も、まああると思います。

一方、これらの一見オカルト的な展開も、さまざまな考察を重ねることで、(多少強引になるでしょうが)オカルト的な前提をおかずに、「リアル路線+偶然」で説明することも不可能ではないと思います。
でも、そういった態度は、「オカルト的展開を無理に否定してリアル路線で読むという苦しい態度」に見えるということもあると思います。

ただ、この点について、私のポジションははっきりしています。

フィクションなんだからまずは全肯定。
オカルト要素があってもなくても構わないし、それも含め純粋に「作品の要素」として楽しみたい。
そのうえで、最終的にはそれによって表現されたものに対する「好き嫌い」の問題。(ただし「読み解き」は好き嫌いとは別)


少し前から書いていましたが、もともと、このまんがでは「リアル路線」とはちょっと違うセカイが描かれている、と思ってきました
具体的には、ものすごく少ない人数で物語が回っていき(将也転落を救出したのが島田と広瀬、とか)、「偶然の出来事」が割と当たり前に発生する、私たちが生きている世界とは微妙に違うパラレルワールドが舞台の物語だという認識です。(ゴールデンウィークもありませんでしたし、まだ肌寒い春でも平気で川に飛び込んだりもしていました)

ですから、ある場面で超能力っぽい展開が出てきたとして、それをそのまま「超能力」として受け止めてもいいですし、そうではなく「偶然の出来事が当たり前に起こるパラレルワールドで、また素晴らしい偶然が起こった」と読んでも、どちらでもいい、と思っています。

考察についても、

1)オカルトを前提として素直に読む。
2)オカルトは前提にしないが、「偶然の出来事がよく起こる」という「聲の形的パラレルワールド世界観」を前提にして深読みする。
3)あえてリアル世界観を前提にして「こんなこと起こらねーよ」と笑い飛ばす。


上記の1)から3)を組み合わせたり使い分けたりして、考察という営みそのものを楽しんでいきたい、というのが当ブログでの私の考え方です。
つまり、「この場面をオカルト的に読むなら素直に○○だけど、理屈をつけて読むなら××と考えれば説明がつけられる、でもまあどっちも強引だよなあ(笑)」みたいな読み方をするのが、私なりのこの作品の「オカルト的展開」の楽しみかたになります。

オカルト的展開を否定することもしませんし、オカルト的に見える場面にあえて理屈をつける、という読み解きを楽しむことも否定しません。「さすがにここでオカルトになっちゃうのは強引だ」と笑うこともしますが、それは作品叩きとしてではなく、しっかり「読み解き」をやった後でのツッコミとして語りたいと思います。

ちなみに第53話についてですが、大今先生は基本的に「オカルトでない前提でも読みきれる」ラインをぎりぎり走っているように見えますし、むしろそれを楽しんでいるように見えます
そもそも将也自身に「グーゼン会えるなんて出来過ぎだし?」とかまんがの中なのにメタ的なことを言わせてますし、硝子を何話も使って「ユーレイ風」に演出し、将也を白装束で登場させて二人を会わせる、なんてのも、オカルトオチを嗤うギャグにしか見えません。


第53話、15ページ。

また、今回の展開は、ふたりの出会いをドラマチックかつスピーディ(かつコミカル)に演出するために選択されており、翌朝普通に病室で出会うという(合理的だけれども恐らく退屈な)展開と、本質的には何も変わらないものでもあると思います。

ですから、第53話についていえば、納得できる形で「奇跡」が演出された、そう素直に思っています。

なお、このブログは、「読み解き」をメインとしてやっている「ファン」ブログです。(読み解き=作者がそれぞれの場面で何を表現しているのかを、作品内の情報から推理していくことです)
作品の好き嫌いの議論を否定するものではありませんが、例えばオカルト的であることを理由とする「作品叩き」「作者叩き」「キャラクター叩き」は、当ブログではご遠慮いただいていますので、ご了解いただいたうえで、楽しく皆さんと議論していければと思っています。

よろしくお願いします。
タグ:第53話
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やはり聲の形は「鯉の形」だった?(あるいは第53話のオカルト展開をどう読むか)(1)

先ほどのオカルト展開エントリの続き的なエントリです。
さっそく、第53話でのオカルト的展開をがっつり楽しみつつ読み解いていきたいと思います。

第51話あたりから、将也と硝子の物理的距離を超えたコミュニケーションが少しずつ出てきて、物語がややオカルト的要素を帯びてきていましたが、第53話ではっきりと「超能力」としか読めない(あるいはそう読むのが最も自然な)展開が出てきました。

それは、

硝子が橋で泣いているシーンを将也が夢に見た際の硝子の服装が、将也転落後に硝子がはじめて着た、将也の知らない服装だった。

という点です。


第53話、4ページ。

他の場面はなんとか偶然で説明することもできそうなのですが、このシーンだけは「将也が転落して昏睡したあとの硝子の服装」を知っていなければありえない描写になっているため、偶然だけで説明するのは厳しそうです(あえていうなら、記憶の錯乱によって、実際の再会時に見た硝子の服装を、夢でも見たかのように「夢の記憶の後付けの修正」が行われた、と考えるくらいですが、まあちょっと無理があります)。

簡単にいえば、将也はこの場面で、「透視能力」という超能力を発揮していま橋で泣いている硝子を「見た」、そう考えるのがもっとも自然な読み解きでしょう。

でも、それにしてもこのシーンには少し不思議なところがあります。

このシーン、もしも硝子の姿を無難に「将也の知っている服装」にしておけば、偶然の一致かオカルトか微妙なラインを走ることができたはずだからです。
実際、このシーンで将也のほうは病院着ではなく4月15日の制服姿をしています。
つまり、作者もこの「服装問題」を意識して描いていることは間違いありません。
この場面で硝子も同じく制服の冬服にすることで第51話の夢枕シーンっぽく見せることも可能だったはずで、そう描けば「オカルトか偶然か」の微妙なラインを維持することもできたはずです。

でも、そうはなっていません。

つまり、この場面では、作者はあえてはっきりと「この場面では超能力が発揮されたんです」と表現しようとしている、そう考えたほうがよさそうだ、ということになります。

だとすると、他の場面ではオカルトか偶然か分からないように描いているのと比較して、この場面には「奇跡」がおこる必然的な背景、状況がある(と作者が考えている)ことになります。
それは、何でしょうか?

…と考えていて、「答え」らしきものにいきつきました。

「鯉」です。

次のエントリに続きます。
タグ:第53話
posted by sora at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

やはり聲の形は「鯉の形」だった?(あるいは第53話のオカルト展開をどう読むか)(2)

第53話で、将也が橋で泣いている硝子を「透視」する場面、なぜこの場面だけ露骨に超能力っぽい展開になっているのか、と考えたときに、

これは、「鯉」が起こしている奇跡ではないのか?

という仮説にいきあたりました。

これまでも、聲の形ワールドにおいて、「鯉」は実はインガオーホーの理を司る「神」のような存在なのではないか、と考えていたのですが、今回、その思いがさらに強まりました。

つまり、

「聲の形」の物語のなかで、「鯉」は神のような存在であって、これまでもさまざまな奇跡やインガオーホーの理に基づく罰を与えたりしているが、今回もその「奇跡」の1つとして、昏睡したまま息を引き取ろうとしていた将也を死の淵から引き上げ、さらに将也をして橋で泣いている硝子を「透視」させた。

ということですね。
別の言い方をすると、「聲の形」ワールドの全員が超能力を使えるわけでも、「聲の形」ワールド全体がオカルトで動いているわけでもなく、ただ1つ、「鯉」だけがオカルト的存在として超常的能力を発揮して物語を動かしている、という風に考えるわけです。

そう考えるならば、第52話から第53話で起こった「奇跡」も、スムーズに整理できるように思います。
つまり、将也に心から会いたい、生きて戻ってきてほしいと願って硝子が落とした涙を、橋の下の川にいた鯉が受け止め、その想いを認めた鯉が「その瞬間に」奇跡を起こして、昏睡していた将也を死の淵から引き上げ、さらにいま橋で泣いている硝子の姿を透視させて、硝子の願いをかなえさせた、ということになります。


第52話、15ページ。

考えてみると、聲の形のなかで大きな「奇跡」が起こっている場所には、常に「鯉」がいます

将也が転落したときに「たまたま」島田がいてすぐに引き上げられて一命をとりとめたのも、「そこにいた鯉がこっそり奇跡を起こしていた」と解釈することも可能ですし、第52話で硝子が向かったのが病院ではなく橋だったのも、単に病院に将也を見舞っただけでは希望はかなわなかった(会えなかったでしょうし、恐らく死んでいた)のに対して、橋に行って(結果的に)鯉に祈りを捧げたおかげで、将也は生還し、しかも会うことができた、と考えれば「正しい選択だった」と考えることができます。

さらに遡ると、そもそもこの物語がただの「小学校の頃のいじめ」で終わらず、これだけのドラマに発展したのも、あの「筆談ノート」が校庭の池を介して硝子から将也の手にわたったことが出発点ですが、それもまた、あの池にいた鯉によって運命付けられた「奇跡」だった、と考えることも可能ですね。(そして、そういう展開が訪れた原因は、もしかすると硝子がパン係になって鯉に餌を与え続けたからかもしれません。)

そう考えていくと、この「聲の形」の物語というのは、単純にオカルト要素のあるドラマとして考えるよりも、「障害者いじめが起こってそのまま時が過ぎていくだけの平凡で残酷なリアルなセカイ」に、「インガオーホーを司り、運命を弄び、奇跡を起こす鯉」を登場させ、介入させることで、「こんなドラマがあったらいいな」という物語を私たちに見せてくれている、そんな構造をしているんだ、と考えることができるように思われるのです。
タグ:第53話
posted by sora at 07:24| Comment(7) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする