当ブログでは、いわゆる発売日前の「フライングのネタバレ」に関する話題は扱いません。フライングのネタバレとなるコメントはご遠慮ください。ご協力よろしくお願いします。(発売日後のネタバレはOKです。)

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2014年06月13日

第40話、硝子はなぜ「私と一緒にいたら不幸になる」と言ったのか?

第40話も、これまでの展開を引きつぐ暗い話でしたね。

そして硝子は将也に「私と一緒にいると不幸になる」と言いました。


第40話18ページ。

これだけを読むと、直近の橋事件にショックを受けて落ち込んで、ある意味将也に否定してもらいたくて甘えているような発言にも取れます。
まあ、そういう要素がゼロだとは言いませんが、実際には硝子は大真面目に、本気でそう思って言っていると私は思っています。

というより、ここまでの物語の展開からすると、いつか硝子がこの発言をするのは必然だったのではないでしょうか。
なぜなら、「硝子視点」から見ると、実際問題として自分の近くにいる者、自分に近づいてきた者は、ほとんど例外なく不幸になっているからです。

母親→自分のせいで離婚、苦労をかけ続ける
結絃→自分のせいでいっしょにいじめられ、自分のせいで社会を疎んじて不登校に
小学校のクラスメート全員→授業を止めて迷惑かけた、合唱コンクールを失敗させた
竹内、喜多:自分のせいでクラスにトラブルを起こして迷惑をかけた
佐原→自分のせいで不登校、高校で自信を取り戻したのに再会したらまた不幸な目に
植野→自分のせいで小学校時代傷つけた、今も自分が将也との関係を邪魔してる
将也→自分のせいでカースト転落、友達を失った。再会したらバカッター騒動で迷惑をかけ、さらにここへきてまた友達を失う
川井→自分のせいでトラブルに巻き込まれ、傷つけた
永束→自分のせいで映画撮影をつぶした


もちろん、どの件についても、硝子には悪意はなく、偶然なり周りの環境や偏見、差別などが結果的に引き起こした「不幸」であることは言うまでもありません。

でも、「自分の近くにいること」が、理由は何であれ、「不幸」をしばしば導いてしまう、そういう「自己認知」を硝子がもってしまうことはむしろ当然で、それは実はこれまでに何度も描かれていました。

第2巻第9話で、将也が「会っていいのかすら分からなかった、しょっちゅう昔のこと思い出すから会う資格ないと思っちゃうし」などと話したときに、硝子は「同じこと考えてた」と返しています。


第2巻84ページ、第9話。

なぜ、硝子は「昔のこと思い出すと会っていいのかすら分からなかった」と思ったのか。
それはまさに、「自分が将也を不幸にした」と考えていたからに他ならないのではないでしょうか。

さらに、佐原についても「自分のせいで傷つけた」と言っています。こちらも分かりやすいですね、同じ話だと思います。

再会して筆談ノートを拾いなおしたときに硝子が言った、「一度諦めた」ことというのも、この「誰かに近づくと不幸にしてしまう呪い」に打ち勝とうとすることだった、と深読みすることも不可能ではありません。

第39話で展開された橋事件は、硝子にとっては、いったんうまくいきかけていた「今度こそ、まわりのみんなを不幸にせずにいい関係が築けるかも」という期待を打ち砕き、「私のもつ呪いパワーふたたび」を痛感した、悪夢のような絶望的な事件だったに違いありません。

第40話の最後の笑顔の意味は今の時点ではわかりませんが、この深い深い硝子の自己嫌悪をどうやって乗り越えていくのか、これが残り少なくなってきた物語の重要なポイントになるのではないかと思います。
タグ:第09話 第40話
posted by sora at 21:27 | Comment(6) | TrackBack(0) | 第5巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

第40話、大事なことじゃないのに2度言った将也

さて、第40話も細かく見ていくと見所がたくさんありますが、読んでいて気づくのが、将也が同じセリフを2回言っているということです。


第40話11ページ。

あれ?西宮どこ行った?
西宮〜?
あ 呼んでもムダかな?



第40話12ページ。

西宮ー!西宮〜!
あ 呼んでもムダかな


なぜ将也は同じ「あ 呼んでもムダかな」というセリフを2回も言ったのでしょうか?

それは、この2つのセリフの間にはさまれているコマを見れば推理できそうです。
この2つのセリフの間には、将也のイメージの中の佐原が冷たい表情で「石田君に近づかない方がいいよ いじめっこだから」と言うコマがはさまれています。このときの将也の心を埋め尽くしている、自己否定のことばです。

だから、この「呼んでもムダかな」というセリフ、1回目と2回目では意味が違っていて、

1回目:純粋に、耳が聞こえないから呼んでもムダかな、という意味。

2回目:自分はいじめっこで「近寄らない方がいい存在」だから、呼んでも誰も近づいてこないだろう(だから呼んでもムダ)、という意味。


ということになるだろうと思います。

第39話で、将也は西宮以外のすべての友人関係を切り捨て、自己嫌悪の沼に沈みました。
そして辛うじて残った硝子(と結絃)とのつながりですが、その繋がりにさえ、もはや将也は自信をまったく持てなくなっているということを、この「呼んでもムダかな」の連呼は示しているのだと思います。

…それにしても。

第2巻では結絃にここまでかっこよく反論していたのに。



第2巻147〜148ページ、第13話

あのころの将也はどこに。
40話の将也はもはやヘロヘロで倒れる寸前ですね。
タグ:第13話 第40話
posted by sora at 13:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第5巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月16日

第40話、ラストの硝子の心情を探る重要なコマとは?

第40話のラストの硝子の笑顔については、非常に分かりにくい描かれ方を(多分意図的に)されていることもあって、既に各方面で議論百出です。


(第40話、18ページ)

この謎、私は、ラストの硝子の心情を推理する上で重要になるのは、実はその1つ前のコマだと思っています。(ここでページが分けられているのにも多分意味があると思われます)


(第40話、17ページ。上のコマの直前のコマ)

1つ前のコマで、硝子は将也の腕をつかみ、うつむいています。その「タメ」の時間の後、次のコマで笑顔に変わるわけですが、この笑顔、過去の硝子の笑顔の描かれ方からすると、「意に反した作り笑い」ではなく、それより明らかにポジティブな笑顔です。
でも、だからといって100%の笑顔とは言いにくく、「心配事は残りつつも、吹っ切れた笑顔」とでもいうべき笑顔ですね。

それでは、笑顔になる前のコマで、硝子は何を「吹っ切れた」のでしょうか。
ここが40話の硝子の笑顔を読みとく最大のポイントだと思います。

というわけで、以下は私の解釈です。

改めて読み直してみると、この「将也転落事件」は、実は39話の「橋事件」をバーチャルに再現したもののように見えます。
つまり、将也が硝子を助けようとして転倒して「身体的に傷ついてしまった」ことと、将也が硝子のためにいろいろ奮闘した結果、「橋事件」で将也のトラウマがえぐられ「精神的に傷ついてしまった」ことは、(このまんがでしばしば見られる)同じことのリフレインだと考えられるわけです。

そして、硝子が転倒した将也に対して起こしたアクションと「その結果」は、硝子が「橋事件で傷ついた将也」の傷をいやすためにどういうアクションをとるべきかの答えを暗に示している、と考えられます。

硝子はここで4つのアクションをとっています。

1)足を滑らせた将也に手をさしのべる→失敗
2)「私といると不幸になる」と謝罪→聞き入れてもらえない
3)改めて手をさしのべる→将也につかんでもらえず、また転倒しそうに
4)思わずとっさに将也の腕をつかむ→将也の転倒を防ぎ、立ち上がることもできた


この4つのアクションのうち、「将也を助ける」ことに成功したのは4)だけでした。
そして、この4)のあと、硝子はしばらくうつむいて「何かを悟り」、「吹っ切れた笑顔」を見せるわけです。
つまりこれは、「橋事件」に対しても、4)の対応を取ろう、と硝子が決意して吹っ切れた、ということを意味しているのではないでしょうか。

以下、もう少し詳しく考察してみます。(長くなってしまったので、こういう考察が好きな方だけどうぞ。)

硝子は、「デートごっこ」の間じゅう、将也のことが好きだという感情に対して、a)その感情に素直にしたがって将也を助けたい、という思いと、b)自分が関わるともっと不幸にさせてしまう、好きだからこそ離れなきゃいけない、という思いとの間で板挟みになっていたのでしょう。

そんななか、デート中に転倒する将也。
1)手を伸ばしても届かず、ケガをさせてしまったことは、硝子にとって、「橋事件」で状況が分からずおろおろするだけで、傷つく将也の助けになれなかったこととオーバーラップしたことでしょう。

さらに、デートを断らなかったことでまた将也を傷つけてしまったわけで、この瞬間、硝子のなかで完全にb)の思いがまさったと思います。だからこそここで硝子は2)「私といると不幸になる」と告げた、のです。

ここで将也が「その通りだ」と言って硝子のもとを去っていったなら、それはそれでb)の方向での解決になるわけですが、当然ながら将也は否定します。
そうすると、今度は硝子の方から去らなくてはいけなくなります。3)立ち上がるために手を差し出した、のは、自分のせいで転倒した将也に立ち上がってもらってこれからは一人で歩いてもらう(そして自分は去る)ための、最低限の(かつ最後の)サポートのつもりだったと考えられます。

ところが、将也はそれをつかもうとせず、自分で立ち上がろうとして、また転倒しかけます。
その瞬間、4)将也の腕を思わずつかんだ硝子ですが、このとき、この瞬間だけは、硝子の頭のなかからb)の論理は完全に消え、将也を助けたい、というa)の感情がむき出しになったのではないでしょうか。
そしてこの4)のアクションだけが、将也の更なるケガを防ぎ、将也を立ち上がらせることに成功し、硝子は将也の「役に立つ」ことができました。

ここでうつむいた硝子の心のなかに沸き上がってきたものは、次のようなものでしょう。

・b)の論理で押さえつけていたけれど、とっさの出来事により、やっぱり自分は心から将也のことが好きなんだという恋愛感情を改めて自覚した。

・b)の理屈ではなくa)の感情に基づく行動こそが、いまの将也を救う力になる。それも、手をさしのべて待っているんじゃなくて、自分から腕をつかむくらいの積極的な行動が必要。

・b)の理屈でいま去っていったら、将也は立ち上がることができず壊れてしまう。

・b)について将也に正直に伝えたけれども、将也は自分のもとを去っていこうとしなかった。むしろそれであっても自分は必要とされている。


これらはすべて、(少なくとも現時点で)硝子にとって、b)の論理を捨ててa)の感情にしたがって行動することを正当化します

だから、硝子がここで「吹っ切れた」のは「b)の論理」(を捨てること)であり、それを捨てて「a)の感情」、つまり将也のことが好きだから助けたいという気持ちに素直に従えるようになったからこそ「あの笑顔」が出せた、私はそう考えます。

ただ、まだ残っている謎として、硝子は本当にb)の論理を完全に捨てたのか保留しただけなのか、ということがあります。
もしかすると、いまは将也が一人で立ち上がれないからa)の感情に従って積極的に支えるけど、将也が自分で立てるようになったら、b)の論理に従って去っていくつもり、という可能性も残されています

また、いまの将也は硝子との狭い関係に依存することで心のダメージから逃げようとしています。
ここで硝子が「好きだから将也をそのまま受け入れて支える」という行動原理に従った場合、あまり健全でない共依存の関係に陥っていくという問題もあるでしょう。
なんというか、それは「友達ごっこ」ならぬ「恋人ごっこ」のようなものになってしまいます。

このあたりがどう描かれ、どうのりこえられていくのかも、今後の見所なんだと思います。
タグ:第40話
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第40話「デートごっこ」の舞台訪問まとめが登場!

さて、私も昔の「養老天命反転地」の写真をあげたりしましたが、本格的に第40話の「デートごっこ」コースを聖地巡礼された方が登場されたようなので、リンクをはらせていただきます。

http://togetter.com/li/680772
聲の形 舞台訪問
第40話「デートごっこ」の聖地巡礼です

以下、いくつかツイートをピックアップしました。
Togetterにはもっと多くの写真がありますので、ぜひそちらもご覧ください。







将也が転倒した場所は、「そのものずばり」の場所があったんですね。
タグ:第40話
posted by sora at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第5巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

第41話にして初めて使われた技法とは?

第40話から41話は、硝子の謎対応が読者を混乱させる展開ですが、今回、まんがの表現方法として、この連載の中でたぶん初めて使われた技法があります。

それは、

神の視点での描写

です。

花火が上がっているのを、第39話でバラバラになってしまったかつての橋メンバーがそれぞれ眺めて(眺めてない人が約1名いますが)いるところが描写されていますが、このようなシーンが同時に見える、というのは、「神の目」からでしかありえない話です。


(第41話、16ページ)

あえて別の言い方をするなら、「花火からの視点」とはいえるかもしれませんが…。

もともと、「聲の形」の連載版では、作者自身がインタビューで語っているとおり、視点をあえて将也からのものに絞り込むことで「他人の気持ちがいかに分からないか」という側面を強調しています。

「クロノ・トリガー」のマンガを描いていました「週刊少年マガジン」で新連載『聲の形』大今良時に聞く2
───『聲の形』の連載にあたり、読切と何か大きく変えたところはありますか。
大今  読切ではとにかく必要最低限の要素──それぞれの登場人物の感情がどう動き、何がどうなったという“情報”を作品の時間軸に合わせてひとつひとつ描きこんだり、コンパクトに情報を伝えるために、聴覚障害者の西宮硝子視点のシーンも描かなければならなかった。連載では視点をなるべく主人公の石田将也にしぼって、理解できない相手との間でどうやって理解を深めていくかということに焦点を当てるつもりです。“読み味”は読切と少し違うかもしれません。

───視点を固定した狙いはなんでしょう。
大今  これまで読んでいない人をどう引き入れるかということを考えた結果です。読切で描き上げたものを連載にするというのも、リメイクといえばリメイクですし、同じことを描きながら、いままで興味を持ってもらえなかった人を引き込みたい。それでいて読切で知ってくれたたくさんの読者にもオトク感というか、新鮮な印象で読んでもらえたらいいですね。


とはいえ、これでは硝子サイドの物語が十分に語りきれない、ということで、結絃だけは「(まんがのメタレベルでの)特権キャラ」として扱われ、結絃視点の描写がときどきはさまれていたのですが、それでもこの2人以外の視点から何かが描かれるということはこれまでは原則ありませんでした。
(そのやり方でかなり無理が出たのが「葬式編」でした。ここは手紙を使った文字での説明のオンパレードで、西宮祖母視点や母視点が使えない苦しさがにじみ出ていましたね。)

ところがここへきて、突然の「神の視点」。
将也、結絃以外の人物の視点どころか、超人的視点がいきなり登場しました。

作者の意図は分かりませんが、この1ページで一気に将也の存在が(第一人称的な存在から)第三人称化、相対化されたように感じます。
つまり読者には、「その花火大会の場に島田がいるぞ」とか「真柴は花火見てないぞ」とか「もしかすると植野に遭遇するぞ」みたいな「世界のこと」が分かってしまって、その「世界」のなかに、将也もたくさんの人の一人として存在している(だけ)、という見え方になってしまっているわけです。

これで、例えば次の41話で植野か島田に出会った将也がびっくりしても、読者は「神の視点」を既に得ているためにびっくりしないわけで、今回の「神の視点描写」のインパクトは結構大きいように個人的には感じますね。
タグ:第41話
posted by sora at 21:29 | Comment(4) | TrackBack(0) | 第5巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする