前回、植野の活躍に期待を持たせておいてのこの展開。
39話にはいろいろ議論のポイントや謎(特に真柴まわり)があると思いますが、とりあえず1点だけにしぼってエントリ書きます。
なお、このエントリのコメントで第39話について自由に語っていただいてもOKですので、コメントをお待ちしています!
さて、今回とりあえず1点だけとりあげるのは、将也が橋メンバーに次々と暴言を浴びせたあと、真柴に殴られる前にはさまれているこのセリフ、

「いくら善人になったつもりでも いつか報いは受けるんだな」(第39話 13ページ)
は、誰が誰に対して言っているのか?という謎です。
かつ、このコマには、非常に不思議な場所にスニーカーが描かれています。
さらに、誰かわからない人影が黒く描かれています。
このスニーカーと人影はそれぞれ何を描いているのかというのも、「セリフを誰が言っているのか?」と連動する可能性のあるなぞだと思います。
これに対して、常識的に答えるとすると、
・セリフは真柴が言ったものだと考えるのが自然だろう。将也は、たぶん、自分がそもそも「善人ぶ」れていると思っていない。
・真柴だとすると、この「善人ぶっていても報いを受ける」が直接指しているのは、じつは川井(と植野)だと考えられる。二人とも友情崩壊と将也の暴言で報いを受けた。
・それに対して、いじめの主犯格と認識された将也はこの時点で真柴からみてまだ十分に「報い」を受けていないように見えていたはず。
・それを察した将也が「前 殴りたいって言ってただろ」と真柴を促し、真柴はそれに応え、将也は自ら「報い」を受けた。
といったあたりになると思います。
とりあえずこれを出発点にしてみましょう。
さて、では今度、スニーカーと人影はなんなんだ、ということになりますが、ここで橋に集まっているメンバーの足元をチェックして見ましょう。
まず、将也と永束は明らかにスニーカーではなくローファーをはいています。
微妙に制服っぽいので真柴もたぶん同じですね。
硝子は白い靴、佐原は黒いハイヒールの靴。川井は黒い靴で詳細不明ですがたぶんスニーカーではないでしょうし、このシーンよりかなり前に退場しています。
スニーカーをはいているのがはっきりわかるのは、植野と結絃です。
そして、スニーカーの向きが「下向き」なので、このスニーカーを「見ている」人物は、スニーカーを「はいている」人物とは別人です。
そして、人影は、橋の欄干のそばにあります。少し前のコマをみると、直前に欄干(と車止めポール)のそばに立っていたのは、植野と真柴です。結絃は、欄干よりも遊歩道寄り(トラックが停まっていない方)に立っています。
そして、シルエットしか見えませんが、このシルエットは髪型からして植野には見えません。

第39話、12ページから。遊歩道側の橋の欄干近くに真柴と植野がいます。
以上を矛盾なく説明するのは、以下のものだと思います。
・このコマの視点は「神の視点」。つまり誰のものでもない。無理して解釈すると「植野の視点」でもOKだが、すでに物語的に退場した後だし、そもそも植野は「視点」の与えられたキャラクターではない。
・スニーカーは、結絃のもの。「神の視点」は、ちょうど結絃の立っている位置の正面あたりにあるということ。
・人影は、欄干近くに立っていた真柴。
だとすると、真柴はこのコマのあと、将也に歩み寄っているということになります。
歩み寄ってきた真柴に将也が気づき、真柴が近づいてきた「意図」を将也がくんで、「殴りたいって」のせりふになった、と解釈することができますね。
というわけで、39話の橋のうえでの各メンバーの位置関係を一度整理しておきましょう。

カメラ(下手ですが)のアイコンが描いてある場所が、「いつか報いはうけるんだな」のコマの「神の視点カメラ」の位置です。
それにしてもスニーカーの位置と欄干(シルエット)の位置が不自然ですが、超広角カメラで上のほうから斜め下向きに撮ればこういう映像は撮れます。
ただ・・・です。
実は、人影とシルエットを上記のような組み合わせで読み取ると、このセリフを言ったのが誰なのか、について、もう1つの有力な解釈が出てきます。
このセリフ、吹き出しがスニーカーにまとわりつくように書かれていて、「人影」には全然まとわりついていないんですよ。
つまり、このセリフは「スニーカーをはいてる人物」が言っていると考えるのが、「まんがの表現」的には正しい可能性が高いです。
そうすると…
これは結絃のセリフだ!
ということに。
最初に「真柴と考えるのが自然」と書きましたが、スニーカーが結絃でシルエットが真柴だとすると(逆はありえない)、「真柴ではない」ということになるのです。(ただ、セリフを自分で言ってないだけで、それ以降の真柴の行動とその理由については基本最初に書いた通りでしょう)
でも、そう考える(これは結絃のセリフだ)と納得できることがいくつもあるんです。
つまり、このセリフは、4巻の24話や29話で結絃が筆談ノートを見ながら、「当時姉ちゃんをいじめていた人間は他にもいるんだろうか、そいつらはどうしてるんだろうか」と考えていたこと、まさにそのことに対して「答え」が出た、ということでの発言だということになります。
つまり、ここで「いくら善人になったつもりでも報いを」で言及されている対象は、植野と川井(硝子を当時いじめていた人間で、まだ決着がついていなかった人たち)になります。
ところが、そのセリフを聞いた真柴が将也に近づき、将也は「殴れ」と言った。
結絃からすると、将也は既に償いを終えていて、いまさら「報い」なんか受ける必要はないのに、言った。
しかもそれは、自分の発したセリフが明らかにきっかけになっている。
だから、そこで結絃は「真柴(さん)!」じゃなくて「石田!(何でそんなこと言うんだ!)」と叫んだわけです。
そもそもこのセリフも、ここだけ抜き出して見ると、なぜ真柴じゃなくて石田のほうを呼ぶんだ、という疑問があったところですが、こう考えると自然に思えます。
それでも容赦なく将也を殴った真柴に対して、「(いじめ当事者側で既に終わっていたことなのに、よく分かってない関係ないはずのお前が殴るなんて)何様だよお前」と真柴に詰め寄ったわけです。
…うん、自分的にはこの解釈はこの解釈で、きれいにすべてつながりました。
分かりにくくなったのでもう一度整理すると、
・橋の上の修羅場で、川井、植野いずれも硝子いじめに加担していてどっちもどっち、という姿が暴かれる。
・これにより川井も植野も、好きな異性(真柴、将也)の前で醜態を晒し、完全にそっぽを向かれる形になり、「過去の硝子へのいじめに対する報いを受けた」形になった。
・この顛末を見て、結絃は「いくら善人になったつもりでも いつか報いは受けるんだな」と発言。
・そのことばを聞いた真柴は、将也に接近。真柴からすると、将也はいじめの主犯格だったのにまだ「報い」を受けておらず、むしろ暴言を吐いて攻撃者になっていたから。
・将也はその真柴の意図をぼんやりと悟った。自分自身「罰が足りない」と感じている将也は「前 殴りたいって言ってただろ やりたきゃやれよ」と挑発。真柴は「え いいの?」と応じる。
・何が起こるかを察した結絃は、(自分の発言がきっかけだとも感じて)慌てて石田に声をかけるも…
・真柴のパンチが将也に炸裂。
かなり大胆な仮説になっていますが、十分ありうる解釈なんじゃないかと思っています。
そして、だとすると、この「橋」でのできごとは、結絃にとってもとてつもなく大きな意味を持っていることになります。
つまり、結絃がいつも考えていて、執念を燃やし、いつか実現しなければと腹に抱えていた、「姉ちゃんをいじめた奴への復讐」が、まさに「インガオーホー」という形で成就し完結した、ということになるわけです。
でも、その結果は、結絃にとって嬉しいものにはならなかった。
大切な姉、硝子と、いまや心の支えにすらなっている将也、二人の絶望と孤立。
結絃もこのとき、「自分が望んだ決着はこれだったのか?それで正しかったのか?」と激しく自問しているはずです。
このイベントは、おそらく硝子にとっても将也にとっても「過去との決別」の第一歩になることだと思いますが、それよりもはるかに深いところで、実は結絃にとっても「過去に執着することから卒業する」大きなきっかけになる可能性があり、何がきっかけになるかすら分からなかった「結絃が抱えるさまざまな問題を解決し、結絃が本当に成長するきっかけ」になっている可能性があるのです。
そして、もしこれが本当に「過去を切り離すきっかけ」になるのだとしたら、第28話6ページ、あるいは第29話8ページで描かれた、かつて「絶望」した硝子のエピソードがどんなものであったのかという「伏線」については、「あえて伏線を回収しない(忘れる)」という形で「回収」される可能性も出てきましたね。

ともあれ、たった18ページに、これだけの重く深く複雑で多層的な意味を込め、はるか以前の伏線をこっそりと回収している(ように読むこともできる)というのは、とんでもなくすごいことだと思います。