2014年06月05日

第39話「いつか報いは受けるんだな」は誰のセリフ?&スニーカーと人影の謎

第39話「所詮 他人」は久しぶりに衝撃的な回になりましたね。
前回、植野の活躍に期待を持たせておいてのこの展開。

39話にはいろいろ議論のポイントや謎(特に真柴まわり)があると思いますが、とりあえず1点だけにしぼってエントリ書きます。
なお、このエントリのコメントで第39話について自由に語っていただいてもOKですので、コメントをお待ちしています!

さて、今回とりあえず1点だけとりあげるのは、将也が橋メンバーに次々と暴言を浴びせたあと、真柴に殴られる前にはさまれているこのセリフ、


「いくら善人になったつもりでも いつか報いは受けるんだな」(第39話 13ページ)

は、誰が誰に対して言っているのか?という謎です。

かつ、このコマには、非常に不思議な場所にスニーカーが描かれています
さらに、誰かわからない人影が黒く描かれています
このスニーカーと人影はそれぞれ何を描いているのかというのも、「セリフを誰が言っているのか?」と連動する可能性のあるなぞだと思います。

これに対して、常識的に答えるとすると、

・セリフは真柴が言ったものだと考えるのが自然だろう。将也は、たぶん、自分がそもそも「善人ぶ」れていると思っていない。
・真柴だとすると、この「善人ぶっていても報いを受ける」が直接指しているのは、じつは川井(と植野)だと考えられる。二人とも友情崩壊と将也の暴言で報いを受けた。
・それに対して、いじめの主犯格と認識された将也はこの時点で真柴からみてまだ十分に「報い」を受けていないように見えていたはず。
・それを察した将也が「前 殴りたいって言ってただろ」と真柴を促し、真柴はそれに応え、将也は自ら「報い」を受けた。


といったあたりになると思います。
とりあえずこれを出発点にしてみましょう。

さて、では今度、スニーカーと人影はなんなんだ、ということになりますが、ここで橋に集まっているメンバーの足元をチェックして見ましょう。

まず、将也と永束は明らかにスニーカーではなくローファーをはいています。
微妙に制服っぽいので真柴もたぶん同じですね。
硝子は白い靴、佐原は黒いハイヒールの靴。川井は黒い靴で詳細不明ですがたぶんスニーカーではないでしょうし、このシーンよりかなり前に退場しています。
スニーカーをはいているのがはっきりわかるのは、植野と結絃です。

そして、スニーカーの向きが「下向き」なので、このスニーカーを「見ている」人物は、スニーカーを「はいている」人物とは別人です。

そして、人影は、橋の欄干のそばにあります。少し前のコマをみると、直前に欄干(と車止めポール)のそばに立っていたのは、植野と真柴です。結絃は、欄干よりも遊歩道寄り(トラックが停まっていない方)に立っています。
そして、シルエットしか見えませんが、このシルエットは髪型からして植野には見えません。


第39話、12ページから。遊歩道側の橋の欄干近くに真柴と植野がいます。

以上を矛盾なく説明するのは、以下のものだと思います。

・このコマの視点は「神の視点」。つまり誰のものでもない。無理して解釈すると「植野の視点」でもOKだが、すでに物語的に退場した後だし、そもそも植野は「視点」の与えられたキャラクターではない。
・スニーカーは、結絃のもの。「神の視点」は、ちょうど結絃の立っている位置の正面あたりにあるということ。
・人影は、欄干近くに立っていた真柴。


だとすると、真柴はこのコマのあと、将也に歩み寄っているということになります。
歩み寄ってきた真柴に将也が気づき、真柴が近づいてきた「意図」を将也がくんで、「殴りたいって」のせりふになった、と解釈することができますね。

というわけで、39話の橋のうえでの各メンバーの位置関係を一度整理しておきましょう。



カメラ(下手ですが)のアイコンが描いてある場所が、「いつか報いはうけるんだな」のコマの「神の視点カメラ」の位置です。
それにしてもスニーカーの位置と欄干(シルエット)の位置が不自然ですが、超広角カメラで上のほうから斜め下向きに撮ればこういう映像は撮れます。

ただ・・・です。
実は、人影とシルエットを上記のような組み合わせで読み取ると、このセリフを言ったのが誰なのか、について、もう1つの有力な解釈が出てきます。

このセリフ、吹き出しがスニーカーにまとわりつくように書かれていて、「人影」には全然まとわりついていないんですよ。
つまり、このセリフは「スニーカーをはいてる人物」が言っていると考えるのが、「まんがの表現」的には正しい可能性が高いです。

そうすると…

これは結絃のセリフだ!

ということに。
最初に「真柴と考えるのが自然」と書きましたが、スニーカーが結絃でシルエットが真柴だとすると(逆はありえない)、「真柴ではない」ということになるのです。(ただ、セリフを自分で言ってないだけで、それ以降の真柴の行動とその理由については基本最初に書いた通りでしょう)

でも、そう考える(これは結絃のセリフだ)と納得できることがいくつもあるんです。

つまり、このセリフは、4巻の24話や29話で結絃が筆談ノートを見ながら、「当時姉ちゃんをいじめていた人間は他にもいるんだろうか、そいつらはどうしてるんだろうか」と考えていたこと、まさにそのことに対して「答え」が出た、ということでの発言だということになります。
つまり、ここで「いくら善人になったつもりでも報いを」で言及されている対象は、植野と川井(硝子を当時いじめていた人間で、まだ決着がついていなかった人たち)になります。

ところが、そのセリフを聞いた真柴が将也に近づき、将也は「殴れ」と言った。
結絃からすると、将也は既に償いを終えていて、いまさら「報い」なんか受ける必要はないのに、言った。
しかもそれは、自分の発したセリフが明らかにきっかけになっている。

だから、そこで結絃は「真柴(さん)!」じゃなくて「石田!(何でそんなこと言うんだ!)」と叫んだわけです。
そもそもこのセリフも、ここだけ抜き出して見ると、なぜ真柴じゃなくて石田のほうを呼ぶんだ、という疑問があったところですが、こう考えると自然に思えます。
それでも容赦なく将也を殴った真柴に対して、「(いじめ当事者側で既に終わっていたことなのに、よく分かってない関係ないはずのお前が殴るなんて)何様だよお前」と真柴に詰め寄ったわけです。

…うん、自分的にはこの解釈はこの解釈で、きれいにすべてつながりました。
分かりにくくなったのでもう一度整理すると、

・橋の上の修羅場で、川井、植野いずれも硝子いじめに加担していてどっちもどっち、という姿が暴かれる。
・これにより川井も植野も、好きな異性(真柴、将也)の前で醜態を晒し、完全にそっぽを向かれる形になり、「過去の硝子へのいじめに対する報いを受けた」形になった。
・この顛末を見て、結絃は「いくら善人になったつもりでも いつか報いは受けるんだな」と発言。
・そのことばを聞いた真柴は、将也に接近。真柴からすると、将也はいじめの主犯格だったのにまだ「報い」を受けておらず、むしろ暴言を吐いて攻撃者になっていたから。
・将也はその真柴の意図をぼんやりと悟った。自分自身「罰が足りない」と感じている将也は「前 殴りたいって言ってただろ やりたきゃやれよ」と挑発。真柴は「え いいの?」と応じる。
・何が起こるかを察した結絃は、(自分の発言がきっかけだとも感じて)慌てて石田に声をかけるも…
・真柴のパンチが将也に炸裂。


かなり大胆な仮説になっていますが、十分ありうる解釈なんじゃないかと思っています。

そして、だとすると、この「橋」でのできごとは、結絃にとってもとてつもなく大きな意味を持っていることになります。
つまり、結絃がいつも考えていて、執念を燃やし、いつか実現しなければと腹に抱えていた、「姉ちゃんをいじめた奴への復讐」が、まさに「インガオーホー」という形で成就し完結した、ということになるわけです。

でも、その結果は、結絃にとって嬉しいものにはならなかった。
大切な姉、硝子と、いまや心の支えにすらなっている将也、二人の絶望と孤立。
結絃もこのとき、「自分が望んだ決着はこれだったのか?それで正しかったのか?」と激しく自問しているはずです。

このイベントは、おそらく硝子にとっても将也にとっても「過去との決別」の第一歩になることだと思いますが、それよりもはるかに深いところで、実は結絃にとっても「過去に執着することから卒業する」大きなきっかけになる可能性があり、何がきっかけになるかすら分からなかった「結絃が抱えるさまざまな問題を解決し、結絃が本当に成長するきっかけ」になっている可能性があるのです。

そして、もしこれが本当に「過去を切り離すきっかけ」になるのだとしたら、第28話6ページ、あるいは第29話8ページで描かれた、かつて「絶望」した硝子のエピソードがどんなものであったのかという「伏線」については、「あえて伏線を回収しない(忘れる)」という形で「回収」される可能性も出てきましたね。



ともあれ、たった18ページに、これだけの重く深く複雑で多層的な意味を込め、はるか以前の伏線をこっそりと回収している(ように読むこともできる)というのは、とんでもなくすごいことだと思います。
posted by sora at 22:09| Comment(19) | TrackBack(1) | 第5巻 | 更新情報をチェックする

2014年06月06日

第39話で回収された佐原の伏線とは?

第39話の話題を続けたいと思います。

第39話は非常にショッキングな内容ですが、同時に、物語としてはいろいろな伏線を回収したり新たに提示したりしている、非常に「忙しい」回でもあります。

そんななかで今回、佐原について注目してみたいと思います。
佐原は、今回とばっちりのような形で川井、植野、そして将也からも暴言を投げつけられ、かわいそうとしか言い様のない状況でしたが、この修羅場で、実はかなりの伏線が回収されています


(第39話10ページ)

それは一言で言えば、読者が漠然と抱いていた佐原への違和感の正体が明らかになった、ということです。一般的な意味で言えば伏線とも呼べないような伏線ですが、今回きっちりと回収されました。

まず、「違和感」のその1は、植野との和解と友情です。
26話で、植野は高校の服飾デザインのコンクール事件をきっかけに、佐原と「仲良くなれた」と言いました。
それと対応するように、第25話では「怖いかどうか乗ってから決めることにした」という佐原の発言がありました。
これまでの物語では、この2つの発言をベースに、シンプルに「佐原と植野は仲良くなった」という扱いがされてきましたが、その割に植野の佐原に対する発言はいまだに上から目線だし、佐原にしてもそんな簡単に怖さが消えるものなのか、といった「違和感」がありました。

この39話で、やはり植野は佐原を対等というよりは見下した目で見ていたこと(植野の語った「仲良くなれた」という物語は、植野フィルタにより都合よく歪められた部分があったこと)、佐原は「怖い」という感情を残しながらも「大人の対応」でそれを乗り越え友達関係を構築していたことが明らかになりました。
これまで描かれてきた二人の関係に対する「違和感」(それは、まさに植野が発した「友達ごっこ」という言葉がもっともぴったりくるでしょう)が伏線回収されたといえます。

もう1つの「違和感」は、小中学時代と高校になってからの佐原のキャラのあまりの変わり具合に対するものです。

植野グループからの、佐原へのいじめがそれほど熾烈だったり長期にわたっていたような描写はありません。
にも関わらず(かなりあっという間に)不登校になり、それが中学校まで続いていた、ということからすると、佐原はメンタル的に強くなく、ダメージを長く引っ張るキャラクターとして描かれています。

ところが、高校生で将也が再会した佐原は、後輩に慕われる頼もしい先輩となり、さばさばとして姉御風さえ吹かせている雰囲気です。トラウマの源であるはずの植野との関係修復に踏み込む勇気も兼ね備えていました。

あれ、これってキャラとして矛盾してるんじゃないの?という議論(違和感)はずっとあったわけですが、今回、川井と植野から追い込まれ、さらには将也からトラウマをえぐる決定的な一言を投げ込まれ、ついに佐原の深層に隠れていた「小学校時代の佐原」と同じ素顔があらわにされました。


(第39話12ページ)


(第1巻93ページ、第2話)

小学校のときとまったく同じ表情で、まったく同じ相手(硝子)に対してほとんど同じセリフをはきながら、同じように去っていく佐原。
やはり佐原は、(キャラ崩壊などではなく)小学校のときと同じ、あの佐原だった。
でも、その「弱さ」を必死に克服して、ほとんど以前の面影がなくなるくらいに「成長」した、それが高校生になった佐原だったわけです。

そう考えると、もう1つの違和感という名の伏線である、「佐原のハイヒール」の意味もわかってきます。
背がものすごく伸びた佐原が、なぜさらにその背の高さを強調するハイヒールのブーツをいつもはいているのか、というのもずっと議論されてきたことですが、これはやはり、自分の弱さを「克服」し強くなるための「道具」の1つであって、伸びた背をさらに強調することで、ある意味その部分から「誰にも負けない強さ」を得ようとしている、少し悪い言い方をすると、佐原の強がりの象徴だった、ということになります。

これらの佐原の問題は、いじめ加害者であった将也、植野、川井の問題とは違い、誰かから責められる類いのものではありません。
でもやはり、佐原自身にとっては乗り越えなければならない課題であることは間違いありません。

高校生になった佐原は、伸びた背をうまく自信の源にして「弱さ」を克服してきたといえますが、こんどは逆に、自分の「弱さ」を改めて直視し、その「弱さ」も受け入れて大人になっていかなければならない段階に入ってきたのだと思います。

この39話で、佐原に関するさまざまな「違和感」という名の伏線が回収されましたが、こんどは、このあと佐原がどう変わるか、ハイヒールは脱ぐのか、植野との関係は、そういったさまざまな伏線が新たに張られました

このあとも、佐原の成長に目が離せません。
ここ最近、たまに硝子や結絃とからむ以外は空気なキャラになってきていましたが、ここへきてまた物語的に「活躍」できる余地が生まれてきたように思います。
posted by sora at 21:34| Comment(7) | TrackBack(0) | 第5巻 | 更新情報をチェックする

2014年06月07日

第39話・将也はどこに消えた?

重い39話ネタの連投でだいぶ疲れてきた感じなので、同じ39話でもお気楽なコネタを1つ。

第39話、いつもの橋で川井、植野、佐原らがバトルを繰り広げているとき、なぜか将也の姿が見当たりません。

カメラの位置的に佐原の後ろかな、と思ったのですが、実は佐原の後ろはすぐ橋が終わってトラックが駐車している場所です。



で、こちらの位置チャートを作ってみた後で、改めてチェックしてみると…


(第39話8ページ)

いました。
ここに隠れていました。

もうこの時点で将也は放心した顔をしてしまっているはずですし、「動く」わけにもいかないですから、まんがの演出上、ここでは姿が見えにくい位置に「配置」されているといえますね。
posted by sora at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 第5巻 | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

第40話の舞台となった「養老天命反転地」とは?(写真あり)

さて、第40話「デートごっこ」は(も?)悲しい回でした。

でも、私にとっては少しうれしかったのが、「行ったことがある場所だ!」ということですね。
今回の舞台が岐阜県の養老駅から養老の滝、養老公園、養老天命反転地だというのはすでにスネーク班が特定済み(笑)ですが、ここは何度か行った事があります。(個人的にも大好きな場所です。)

特に、この中でも「養老天命反転地」というのは、非常に変わった公園で、硝子と将也が転んでしまうのも無理はない(笑)、傾斜だらけの危ない公園です。

ということで、今回の舞台とも関係ありそうな写真を何枚か貼っておきます。



養老の滝です。



KOEKATA_40_013.jpg
養老天命反転地の公園全景です。すり鉢状の公園が広がっています。なんというか、けっこうすごい迫力ですよ。ここもやっぱり傾斜が急で危ないし。(笑)


養老天命反転地のなかの建物の1つ「養老天命反転地記念館」です。




そしてこちらがもう1つの建物、「極限で似るものの家」です。
まんがのなかでも将也が硝子を誘っていましたね。この建物の中にガスコンロがあります。



これは「極限で似るものの家」を出てすぐのあたり。だから硝子と将也はこのあたりで転んだのではないでしょうか。ぶっちゃけ、超危ないです(笑)。


ところで、この公園は岐阜県にあってなかなか首都圏の人は行けないと思いますが、実はこの公園を作ったのと同じ人がデザインした住宅が、東京都三鷹市にあります。

三鷹天命反転住宅Naverまとめ記事

実際、コンセプトは非常によく似ていますね。
見学ツアーも定期的にやっているようですので、首都圏で「聖地巡礼気分」を味わうにはいいんじゃないでしょうか。
ラベル:第40話
posted by sora at 21:28| Comment(8) | TrackBack(0) | 第5巻 | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

なぜ40話の表紙に鯉がいるのか?

第40話、硝子が何を考えているのか、読み取りが非常に難しい話になっています。

そんななかで、なぜか表紙に、例の「鯉」が久しぶりに登場です。



以前もこの鯉についてはいろいろ考察したのですが、今回表紙に登場したのはなかなか意味深です。
というより、極めて不自然な形で表紙にわざわざ描かれるというのは余程のことだと言えるのではないでしょうか。

ここで、考察のためのベースとして、これまでに登場した「鯉」をすべて拾ってみます(漏れていたら教えてください。)

第1巻22ページ、第1話:川に飛び込んだ将也の周りに鯉。
第1巻23ページ、第1話:同じく、川に飛び込んだ将也の周りに鯉。

第2巻15ページ、第6話:将也の心象風景として、ローファーと一緒に。「罰が足りてない、死ぬための資格が」


第2巻25ページ、第7話:橋の下にいる現実の鯉、硝子がパンをあげている
第2巻26ページ、第7話:橋の下にいる現実の鯉、硝子「必要とされるのが嬉しい」

第2巻56ページ、第8話:将也の心象風景として。「やっぱり(硝子に)会いに行くべきじゃない…?」


第2巻85ページ、第9話:橋の下にいる現実の鯉、硝子と将也、二人でエサをあげている。「わざわざあいつとつるまなくても幸せになれるのに(結絃)」

第2巻96ページ、第10話:結絃がタモですくった鯉の死骸。
第2巻104ページ、第10話:ネット掲示板で高須さん「最近ここの鯉の元気がない」(文字のみ)

第2巻108ページ、第11話:入浴中の硝子が持つ鯉のおもちゃ
第2巻109ページ、第11話:入浴中の硝子が持つ鯉のおもちゃ、「石田が彼女つれてたぜ」でピギュー

第3巻63ページ、第18話:橋の下にいる現実の鯉、再開した佐原と硝子の二人でエサをあげている。「おー がっつくねー」

第24話13ページ、鯉は登場しないものの心象風景風の水面が登場。「やっぱあれって俺から逃げたのかな…」 すぐあとにいつもの橋が登場するので心象と現実の中間くらい?


第29話16ページ、現実の鯉が佐原のまくエサを食べに集まる音だけ「ビチビチ」
第29話17ページ、現実の鯉が佐原のまくエサを食べに集まる音だけ「ビチビチ」

第30話10ページ、結絃のデジカメに収められた鯉の死骸の写真。

第35話17ページ、鯉は登場しないものの、水門小学校の池に2つの水紋。

第40話のカラー表紙に、硝子と一緒に鯉。背景はデート先の滝(養老の滝)に見えるが、水泡も描かれているので同時に「水のなか」でもあり、これは明らかに「心象風景の鯉」のほうの描写になっている。


こうやって並べてみると、どうやら「現実の鯉」と「将也の心象風景の鯉」は別の意味を持っているように思われます。
「現実の鯉」のほうは、実はけっこうベタで「鯉にエサをあげて恋を育てる」程度の意味合いであるように思われます。
一方、「心象風景の鯉」のほうは、将也の、硝子に対する過去の罪の意識を象徴しているもののように思われます。(前回考察したときはこの2つを混同していたので、ちょっとピントがずれていたように(今となれば)思います。)

では、なぜ将也にとって鯉が「過去の罪」の象徴になっているのでしょうか?
これは、読みきり版で鯉が登場するシーンをチェックすると見えてきます。

読みきり版27ページ、投げ捨てられた筆談ノートを拾うために池に入った硝子の足元に鯉。
読みきり版28ページ、いったん池から拾った筆談ノートを硝子が絶望して落としてしまったとき、ノートの横に鯉。
KOE_NO_KATACHI_029b.jpg

読みきり版57ページ、再会時の回想で硝子が池で泣いているシーンの池の中に鯉。


つまり、将也の心象風景の鯉とは、水門小学校の池の鯉であり、その鯉が象徴しているのは「硝子に(何かを)諦めさせた罪」ということだと考えられるのではないでしょうか。
そういえば、結絃視点から見た、「硝子が最も絶望して、限界だった日」もまさに、筆談ノートが池に捨てられた日でした。
硝子が「諦めた瞬間」を鯉は見ていて、学級裁判の後に池に落とされた将也は、筆談ノートを拾うのと同時に、鯉から硝子への罪に対する呪いをかけられた、といった感じでしょうか。
この「諦めたもの」が何か、ということも改めて考察したいと思っていますが、端的にいえば「友達を作ろうとすること」(実際にはもう少し複雑だと思いますが)でしょう。

ところで、第2巻の終わりで、硝子や将也に対して「過去を忘れてしまいそうな笑顔」を見せます。
以降、将也に好意を抱いた硝子は、その笑顔を繰り返し将也に見せたことでしょう。
だから将也はつい過去の罪を忘れ、2巻の後半以降、しばらくこの心象風景の鯉はまったく登場していませんでした

ところがここへきて、過去の罪は硝子と関係のないところで暴露され、えぐられ、あらためて断罪されました。

そして今回の「デートごっこ」の表紙です。
今まで、「心象風景の鯉」はほんとうに将也の心のなかだけにぽつりと登場していたのですが、今回は現実の風景のなかに登場しています。しかも、他でもない硝子と一緒に

将也にとって、あらためて、これまでよりもはるかに強烈なレベルで、硝子の存在そのものが過去の罪の意識とつながってしまった、ということなのでしょう。

でも、今までは単に「忘れた(つもりだった)」だけでした。
このあとはきっと、忘れるのではなく受け止めて前に進む、そういう展開が待っているのだと期待したいです。
ラベル:第40話
posted by sora at 07:18| Comment(7) | TrackBack(0) | 第5巻 | 更新情報をチェックする
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