そんななかで、硝子がらみ以外で植野が発した印象的なことばがありました。第26話・10ページの植野のこの一言です。

「あんたと私って似てるよね」
この第26話、サブタイトルも「似たもの同士」となっています。
さて、将也はこの場では植野のこの発言を否定しますが、心の奥ではその点について、植野と非常に近い認識を共有している点が随所に見られます。
その最たるものが、この発言の直前にある「こいつ!俺と同じことをしやがる!」ですね。(第26話・5ページ)

こいつ!俺と同じことをしやがる!
俺が 西宮に佐原や植野を会わせようとしていた時みたいに…
「聲の形」では、違う人が違う立場で似たようなことをする、といった「相似形」が物語の随所で効果的に使われているわけですが、植野もまさに、「将也と同じことを違う立場でやる(ところがその結果、違うことが起こる)」という役回りで登場していることが、よく読んでいくと分かります。
具体的にいうなら、
・将也は、失われた硝子の楽しかったはずの小学生時代を取り戻すために行動している。植野は、失われた将也の楽しかったはずの小学生時代を取り戻すために行動している。
・将也は、硝子に対してのかつての自身の行動を今になって本人に謝罪しにきて、「友達になろう」と言った。植野は、将也に対してのかつての自身の行動を今になって本人に謝罪しにきて、復縁を求めた。
・将也は、壊れてしまった硝子の小学生時代の友人関係を復活させようと、佐原と再会させた。植野は、壊れてしまった将也の小学生時代の友人関係を復活させようと、島田と再開させた。
こうやって書くと、実は「将也→硝子」で将也が考えていること・やろうとしていることと、「植野→将也」で植野が考えていること・やろうとしていることは、実はほとんどそっくりで、まさに「似た者同士」と呼んでも差し支えないような関係になっていることがわかります。
ところが、その働きかけの結果は、将也は成功を繰り返しているのに対して、植野は失敗を繰り返していて、ほとんど真逆と言ってもいいくらいです。
(さらに追加するなら、将也は小学生時代に硝子に対して「腹の底の気持ちを言え」と言ってケンカをし、植野は高校時代に硝子に対して「すぐ弁解して逃げる」と言ってビンタをしました。ここもある種の「対称形」になっています。)
どこで差がついたのか。慢心、環境の違い。
まあ、真面目に考えると、将也は過去の過ちの原因を「自分自身」だと受け止め、購罪のためにこれらをやっているのに対して、植野は過去の問題の原因を自分ではなく「硝子」にあると考え、また自分自身の恋愛を成就させるために行動している、そういった違いが、行動の結果を大きく異なったものにしている、と言えるのかもしれません。
(まあ、硝子絶対主義者となっている将也を前に、悪いのは硝子だというポジションで攻めこんでいっている時点で、植野に勝算はほとんどないわけですが、そういった「空気を読まない」ところは、逆に植野のある種の純粋さを示しているとも言えるのかなと思います。)
ラベル:第26話