2014年06月15日

植野がもつ隠れた最大の強みとは?

猫耳で華々しく?登場し、第39話で華々しく散った?ものの、まだまだ役割が終わったとは思えない、ある意味硝子とのダブルヒロインといっても過言ではない植野ですが、そもそもなぜ植野はこんなに「活躍」できるのか、実は植野だけがもっている隠された「強み」があるのです。



それは、

「知っている情報量が誰よりも多い」

ということです。

「聲の形」は、登場人物はそんなに多くありませんが、その人物ごとに、「知っていること」と「知らないこと」が大きく異なります。
そんななかで、植野は例外的に、物語において重要なことをほとんど知っているという稀有な存在になっているのです。

実際、物語の重要要素を誰が知っていて誰が知らないか、第40話の時点で簡単にまとめてみましょう。


ちなみに、第38話~39話の暴露大会の前の状態も参考までに作ってみました。


これをみると、植野だけが突出して知っている情報が多く、「将也をとりまく状況」の全体像を、ほぼ唯一把握しています。
特に、中学時代まで続いた将也へのいじめと、現在の将也のメンタルの壊れ具合を知っているのは植野だけで、だからこそ植野だけがいまの将也に対して「弱っている人間に対する接し方」で接することができているわけです。

これは硝子すらかなわない、圧倒的な優位性といえるでしょう。

…それだけの優位性がありながら、ぜんぶ裏目に出る失敗を繰り返して39話で撃沈してしまったのが、植野らしいといえば植野らしいわけですが。
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2014年07月04日

マガジン今週号、原稿持ち込み歓迎の挿し絵に使われているのは?

本編とは関係のないコネタです。

聲の形43話が掲載されている今週のマガジンについてのネタです。
週刊少年マガジンの巻末(目次のページ)にはいつも、新人の原稿持ち込み歓迎という告知が入っているのですが、今週(2014年31号)の告知の挿し絵に使われているカットが笑えます。

KOEKATA_43_020.jpg
週刊少年マガジン2014年31号巻末。

節子、それ告知に使ったらあかんやつや。

それは硝子の渾身のフェイクスマイル。言っていることと本心で考えていることがまったく異なることを美しく隠した笑顔です。

この笑顔で、「マガジン編集部は意欲に満ちた新しい作品を待ち望んでいます!」と言われてしまうと…。
聲の形ファンとしては、思わず「ほんとはどう思ってるんでしょう?」と考えてしまいそうですね。(笑)
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硝子は「天使」ではないのか(あるいは、硝子をどう理解すればいいのか)?

いつかこの方向性のエントリを書きたいと思っていて、ようやく書けそうな感じになってきました。

私は連載初期、というか読み切りを読んだ頃から、西宮硝子が「天使のような」存在である、という評価はしてきませんでした。
それを言うなら、「天使のように見える」存在だろう、と。
硝子は、将也から小学校時代に言われ、連載では植野や結絃からも遊園地編で言われたように、「腹の底にある気持ちを言わない」で笑顔でごまかして生きてきているし、その「腹の底の気持ち」ゆえに、なぜか悲惨な環境でも周囲に献身的な「天使のようなふるまい」をするのです。

私はこれまで、硝子が「天使のように見える」振る舞いをする理由は、(母親が望むように)健常者社会に適応して生きていくために、処世術としてそういう「善良で誠実で反抗しない障害者」を演じていたから、という、まあ障害者問題をリアルにとらえた場合に常識的に考えられる理由を想定していました。
そしてそれは、必ずしも間違っていないと今でも思っています。

でも、当初は作者は否定していると思っていた(仏教的概念である)「因果応報論」がここへきて将也を押し潰すくらい強くなってきていることや、石田家に「マリア」「ペテロ(ペドロ)」がいて、キリスト教的モチーフが取り入れられていることに気づいたことから、ここには単なる障害者についての社会的問題を超えた、フィクションとしての、より重い(ある意味宗教的な)意味づけがなされていそうだ、と考えるようになりました。

では、硝子は「天使」ではなくて、何なのか。
「天使のように見える」振る舞いの下に隠されていた実像とは、どんなものなのか。

それは、生まれながらに呪いをかけられ、その呪いを解く力が自分にはないという無力感に絶望し、その呪いによる周囲の不幸への贖罪だけに人生を捧げている「運命に見捨てられた無力な人間」
それが、フィクションとしてのこの物語における、硝子の実像なのではないでしょうか。

ここでいう「呪い」とは、「周囲にいる人間、自分が近づいた人間を不幸にする」という呪いです。
硝子というキャラクターに対する否定的意見として、「(硝子と)深く関わった人間ほど不幸になり、さっさと見限って切り捨てた人間ほど平和な人生を送っている」というものがあります。
現実社会で特定の個人に対してこれを言ったらヘイトスピーチですし、本人の悪意のないところに起こる問題を本人の「責任」にするのはナンセンスです。
でも、フィクションであるこの物語の場合、実際問題として「硝子に深く関わった近しい人間は皆不幸な目にあってしまう」ように描かれており、硝子が物語の神(あえて大今先生とは言わないでおきましょう(笑))から、そのような運命を背負わされていることは否定できません。

そして、少なくとも現時点では、この呪いは、何人たりとも絶対に逃げられない、逆らうことも抗うこともできない、という絶対的な強さをもって物語を覆っています。その呪いに10何年もの間さいなまれ続けてきた硝子には、その呪いに対して、もはや無力感と絶望以外なにもないのは当然のことでしょう。

その運命(呪い)のあまりの重さに、硝子は周囲から受け続けるさまざまないじめも「自らのもつ呪いへの罰」として受け止め、怒ることもなく、またそれだけの仕打ちを受けていても「まだ贖罪が足りない」という認識から、周囲への献身的行動をとっていた、そう考えると、硝子の「天使のような」振る舞いの理由がうまく説明できるのではないでしょうか。

そんな、無力感からすべてを諦めていた硝子のもとに突然現れたのが将也です。
再会後の将也が単行本2巻から5巻前半にかけてやっていたことは、端的に「硝子にかけられている呪いを解こうともがく」行為だったと整理できます。
そこに希望を見いだし、同時にそこに将也への好意をも見いだしていた中での「橋事件」。
事件の原因と経緯を結絃から聞いた硝子は、「やはり、呪いのなかで戦ってくれた将也も、最後は自分の呪いに勝てなかったのだ」と、更なる絶望にとらわれたことでしょう。
そして、その呪いで大好きな将也をこれ以上滅ぼしてしまう前に、自分が消えることを選んだ、という流れが見えてきます。
ところが、この硝子にかけられた「呪い」は、やはりそんな硝子の行動を軽く超越する強さをもっていて、硝子が死のうとしたら代わりに将也が転落してしまう、という形で、またもやその邪悪な力を見せつけてしまいます

そういう意味で、将也は将也自身ではなく、むしろ硝子の運命に試されている、ということができます。
残り2巻のなかで、硝子について展開される最大のテーマは、この「呪い」をどうやって解くのか、これに尽きると思います。
ここまでひたすら、この呪いが「自分ひとりではどうにもならない」ということが示されてきたわけですから、この呪いを解くプロセスのなかでは、将也の存在が非常に大きなものになっていくことでしょう。
単に恋愛関係になる、というよりも(それはそれであっていいですが)、もっと濃密な二人の物語があって、そのなかでこの「呪い」が劇的に解かれていく、そういう展開をぜひ期待したいと思います。

ちなみに、この視点で植野を見るとなかなか興味深いです。
植野のいう「西宮さんがこなければみんなハッピーだった」は「物語の神」がやっていることをふまえれば真理であり、本質を見抜いている部分があります(リアルで言ったらヘイトですが)。
そして、将也が「硝子の呪い」に取り込まれて滅んでいくのを、何とか自力で救おうとしているのも植野であり、ここもある意味「将也のためを思って『この物語』のなかで奮闘する行動原理」としては本質をとらえています。
でも、植野が将也に対してやろうとすることは、すべて失敗に終わります。
それはなぜかというと、植野が所詮「神(による呪い)に逆らう(ただの)人間」という位置付けだから
硝子が自ら「呪い」を解くことができない無力な存在であるのとまったく同じ意味で、植野もまた、いちどかけられた将也への「呪い」を解くことができない、無力な「人間」として描かれているわけです。
そして、「人間としての将也」もまた、橋事件が示すように、「硝子を中心に回る呪い」を司る神の力の前に無力でした。

第43話の時点で、物語は「イマココ」です。
もしここから、硝子の身代わりとなって転落し、自らの「からだ」と「血」を捧げた将也が復活してきたとすれば、ある意味「呪いと戦って生還した」ことになるのではないでしょうか。
だとすれば、こんどこそ、物語全体を暗く包むこの「呪い」を解くための道が示されていくのかもしれません。
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2014年07月05日

次回サブタイ煽りはわざと間違えている?

今回、「第43話」が「度胸試し」で、第1話での度胸試しが「第42回」できっちり終わっていることから、作者が想像以上にこの作品のストーリーを1話単位で細かく事前に決めていることが判明しました。

そうなってくると不思議なのが、「なぜ第43話のサブタイ煽りは間違えたのか?」ということです。

前回42話のラストに記載された「次回サブタイ」は「西宮硝子の話」でした。


第42話最終ページ(16ページ)。

ところが実際は、あくまで将也視点の救出劇ででした。
しかも、既に触れたとおり、第43話がこういう内容になることは、既に第1話の時点でほぼ決まっていたはずで、少なくとも42話に「サブタイ煽り」を入れるタイミングでは、100%分かっていたはずです。

つまり、

サブタイ煽りはわざと間違えている。

ということがほぼ確実になりました。

ここで、これまでのサブタイ煽りと実際のサブタイを比較してみましょう。
サブタイにはなっておらず、「次回、○○」といった「次回の内容煽り」もありますので、それも拾ってあります。

第5話 次号煽り「再会」→ 再会した ○
第7話 次号煽り「5年ぶりの2人きり」→2人きりになった ○
第9話 次号煽り「硝子と永束が接触!?」→2コマだけ接触 △
第22話 次号煽り「最高に気まずい火曜日」→そもそも行かなかった ×
第35話 次号煽り「トラウマとの再会」→竹内と再会 ○

第11話 サブタイ煽り「それでも前へ」→実際「そんな顔」 △
第17話 サブタイ煽り「もう一人の同級生・植野」→実際「意味のある存在」(佐原カラオケ回) ×
第27話 サブタイ煽り「観覧者」→実際「嫌い」 ほぼ○
第29話 サブタイ煽り「西宮家のこと」→実際「ばーちゃん」 ほぼ○
第38話 サブタイ煽り「教室の王様」→実際「疑心暗鬼」 △
第39話 サブタイ煽り「友達の橋」→実際「所詮 他人」 ×
第40話 サブタイ煽り「2人きりの夏休み」→実際「デートごっこ」 △
第41話 サブタイ煽り「一番静かな夏」→実際「みんな」 ×
第43話 サブタイ煽り「西宮硝子の話」→実際「度胸試し」 ×


とりあえず、サブタイ煽りのサブタイそのものはぜんぶ間違ってます
なので、内容の比較で考えて、内容が煽りと合っていれば(サブタイが違っていても)○、多少合っていれば△、違っていれば×を、各行の終わりにつけてみました。

こうやってみると、あることが分かります。

サブタイ煽りは、ここ最近(特に第5巻相当分以降)になって急に増えている。
しかも、その煽りが「外す」確率がどんどんあがっている。


連載初期は、基本的にサブタイ煽りではなく内容の煽りがときどきあり、内容的にはだいたい合っていました。
それが最初に大きく狂ったのが、第17話のサブタイ煽り「もう一人の同級生・植野」のときでしょう。
実際には植野はまったく登場せず、佐原・西宮・永束・将也でのカラオケ回になりました。
そして実際に植野が出てきたのは、その次の18話となりました。

さすがに、植野が出ると言って出さず、すぐ次の回で出てきたところは、「当初の内容に変更があった」とみるべきでしょう
当初のプロットでは、佐原が出た次週にすぐに植野が出てくる流れだったところを、佐原との関係をしっかり見せるために、1話消費したということだと思います。(実際、17話がなくても話がつながります)

でも、この17話のケースはむしろ例外で、それ以外のサブタイ煽りは、わざと間違えているのではないかと思います。
たとえば「西宮家のこと」というのは、仮に「ばーちゃん」を出してしまうと先に内容が予想されてしまいますし、今回の「度胸試し」なんてのは、まあ絶対に事前に見せちゃいけない情報ですね。

そして、最近、サブタイ煽りが増えているのは、サブタイによって読者が盛り上がるということを編集が学習してしまったからだと思います(笑)。

加えて、各話が出るたびに盛り上がる次回予測がことごとく外れるのも、実はサブタイ煽りにミスリードさせられている部分も少なくない(今回の「西宮硝子の話」煽りも、こりゃ絶対しばらく硝子視点の回想で宙吊り状態が続くんだな、という予想が全体の半分以上を占めていたんじゃないかと思います(私もそう予想してしまいました))のではないかと気づいてきました。

というわけで、サブタイ煽りが合っている確率はこれまで0%、ここ最近でいうと内容が合っている確率も0%(多少方向性が合っている程度でも20-40%)ですから、サブタイ煽りは信じてはいけないということですね(笑)。
posted by sora at 10:12| Comment(5) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

(ネタ)もし聲の形が途中打ち切りになっていたら?

聲の形は、当初から綿密なプロットが練られ、全7巻構成という構想でスタートしています。



すでに第6巻相当に突入するところまで物語が進み、単行本は第4巻までで100万部、初週売り上げも安定して10万部を超えているところから、無事完結まで当初構想通りリリースされることは確実な情勢ですが、各巻の終わり方を見ると、どうやらこの作品は途中で打ち切りになってもそれなりにつじつまを合わせて終われるよう配慮されていたことがうかがえます。

ここでは、ある種の「ネタ」として、もし連載の聲の形が途中で打ち切りになっていたとしたら、大今先生はどんな終わり方に仕上げてきたか(笑)を勝手に妄想してみたいと思います。

1)1巻で打ち切りだった場合
 読みきりを引き伸ばしただけ(笑)。
 高校時代の硝子と再会して「友だちになれるか?」で手を握ってハッピーエンド。

2)2巻で打ち切りだった場合
 結絃と和解し、硝子が最高の笑顔を見せたことで、何となく将也の過去が清算されたことになり、これから恋人になっていきそうな雰囲気をかもし出してハッピーエンド。

3)3巻で打ち切りだった場合
 硝子の「うきぃ」告白を将也が聞き逃さずに受け止め、将也も驚きながらも自分の気持ちに気づき、「友達ごっこ」から「恋人」になっていく、という、3巻リリース時に誰もが期待したとおりの流れでハッピーエンド。

4)4巻で打ち切りだった場合
 祖母を失った西宮家の空白を思った将也がいきなり積極的に。3巻の「うきぃ」に対応するような形で将也が告白し、両思いになるハッピーエンド。

5)5巻で打ちきりだった場合
 ここで終わっていたら、やはりアンハッピーエンドでしょうか…。
 硝子の身投げを止めようとした将也は、勢い余って一緒に転落。地面に叩きつけられる間に将也の心にこれまでのことが走馬灯のように流れ、「本当は俺は硝子のことが好きだったんだ…」と気づいた瞬間に地面に叩きつけられるアンハッピーエンド。
 もしくは、転落直前に硝子を引きとめ、感極まった将也は思わず告白。デートごっこからの不穏な雰囲気はろくに清算されず、何となく硝子も将也の気持ちを受け入れて「2人だけで前を向いて生きよう」的なよくわからないハッピー?エンド。

まあ、どこで終わっても、せっかく大量にばらまかれた魅力的な伏線がほとんど回収されず、将也と硝子の関係も掘り下げられずに終わってしまう消化不良の話になっていたところですね(^^;)。
ちゃんと最後まで出そうで本当によかったです。
posted by sora at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする
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