いつかこの方向性のエントリを書きたいと思っていて、ようやく書けそうな感じになってきました。
私は連載初期、というか読み切りを読んだ頃から、西宮硝子が「天使のような」存在である、という評価はしてきませんでした。
それを言うなら、「天使のように見える」存在だろう、と。
硝子は、将也から小学校時代に言われ、連載では植野や結絃からも遊園地編で言われたように、「腹の底にある気持ちを言わない」で笑顔でごまかして生きてきているし、その「腹の底の気持ち」ゆえに、なぜか悲惨な環境でも周囲に献身的な「天使のようなふるまい」をするのです。
私はこれまで、硝子が「天使のように見える」振る舞いをする理由は、(母親が望むように)健常者社会に適応して生きていくために、処世術としてそういう「善良で誠実で反抗しない障害者」を演じていたから、という、まあ障害者問題をリアルにとらえた場合に常識的に考えられる理由を想定していました。
そしてそれは、必ずしも間違っていないと今でも思っています。
でも、当初は作者は否定していると思っていた(仏教的概念である)「因果応報論」がここへきて将也を押し潰すくらい強くなってきていることや、石田家に「マリア」「ペテロ(ペドロ)」がいて、キリスト教的モチーフが取り入れられていることに気づいたことから、ここには単なる障害者についての社会的問題を超えた、フィクションとしての、より重い(ある意味宗教的な)意味づけがなされていそうだ、と考えるようになりました。
では、硝子は「天使」ではなくて、何なのか。
「天使のように見える」振る舞いの下に隠されていた実像とは、どんなものなのか。
それは、
生まれながらに呪いをかけられ、その呪いを解く力が自分にはないという無力感に絶望し、その呪いによる周囲の不幸への贖罪だけに人生を捧げている「運命に見捨てられた無力な人間」。
それが、フィクションとしてのこの物語における、硝子の実像なのではないでしょうか。
ここでいう「呪い」とは、「周囲にいる人間、自分が近づいた人間を不幸にする」という呪いです。
硝子というキャラクターに対する否定的意見として、「
(硝子と)深く関わった人間ほど不幸になり、さっさと見限って切り捨てた人間ほど平和な人生を送っている」というものがあります。
現実社会で特定の個人に対してこれを言ったらヘイトスピーチですし、本人の悪意のないところに起こる問題を本人の「責任」にするのはナンセンスです。
でも、フィクションであるこの物語の場合、実際問題として「硝子に深く関わった近しい人間は皆不幸な目にあってしまう」ように描かれており、硝子が物語の神(あえて大今先生とは言わないでおきましょう(笑))から、そのような運命を背負わされていることは否定できません。
そして、少なくとも現時点では、
この呪いは、何人たりとも絶対に逃げられない、逆らうことも抗うこともできない、という絶対的な強さをもって物語を覆っています。その呪いに10何年もの間さいなまれ続けてきた硝子には、その呪いに対して、もはや無力感と絶望以外なにもないのは当然のことでしょう。
その運命(呪い)のあまりの重さに、硝子は周囲から受け続けるさまざまないじめも「自らのもつ呪いへの罰」として受け止め、怒ることもなく、またそれだけの仕打ちを受けていても「まだ贖罪が足りない」という認識から、周囲への献身的行動をとっていた、そう考えると、硝子の「天使のような」振る舞いの理由がうまく説明できるのではないでしょうか。
そんな、無力感からすべてを諦めていた硝子のもとに突然現れたのが将也です。
再会後の将也が単行本2巻から5巻前半にかけてやっていたことは、端的に「硝子にかけられている呪いを解こうともがく」行為だったと整理できます。
そこに希望を見いだし、同時にそこに将也への好意をも見いだしていた中での「橋事件」。
事件の原因と経緯を結絃から聞いた硝子は、「やはり、呪いのなかで戦ってくれた将也も、最後は自分の呪いに勝てなかったのだ」と、更なる絶望にとらわれたことでしょう。
そして、その呪いで大好きな将也をこれ以上滅ぼしてしまう前に、自分が消えることを選んだ、という流れが見えてきます。
ところが、
この硝子にかけられた「呪い」は、やはりそんな硝子の行動を軽く超越する強さをもっていて、硝子が死のうとしたら代わりに将也が転落してしまう、という形で、またもやその邪悪な力を見せつけてしまいます。
そういう意味で、将也は将也自身ではなく、むしろ硝子の運命に試されている、ということができます。
残り2巻のなかで、硝子について展開される最大のテーマは、この「呪い」をどうやって解くのか、これに尽きると思います。
ここまでひたすら、この呪いが「自分ひとりではどうにもならない」ということが示されてきたわけですから、この呪いを解くプロセスのなかでは、将也の存在が非常に大きなものになっていくことでしょう。
単に恋愛関係になる、というよりも(それはそれであっていいですが)、もっと濃密な二人の物語があって、そのなかでこの「呪い」が劇的に解かれていく、そういう展開をぜひ期待したいと思います。
ちなみに、この視点で植野を見るとなかなか興味深いです。
植野のいう「西宮さんがこなければみんなハッピーだった」は「物語の神」がやっていることをふまえれば真理であり、本質を見抜いている部分があります(リアルで言ったらヘイトですが)。
そして、将也が「硝子の呪い」に取り込まれて滅んでいくのを、何とか自力で救おうとしているのも植野であり、ここもある意味「将也のためを思って『この物語』のなかで奮闘する行動原理」としては本質をとらえています。
でも、植野が将也に対してやろうとすることは、すべて失敗に終わります。
それはなぜかというと、
植野が所詮「神(による呪い)に逆らう(ただの)人間」という位置付けだから。
硝子が自ら「呪い」を解くことができない無力な存在であるのとまったく同じ意味で、植野もまた、いちどかけられた将也への「呪い」を解くことができない、無力な「人間」として描かれているわけです。
そして、「人間としての将也」もまた、橋事件が示すように、「硝子を中心に回る呪い」を司る神の力の前に無力でした。
第43話の時点で、物語は「イマココ」です。
もしここから、硝子の身代わりとなって転落し、自らの「からだ」と「血」を捧げた将也が復活してきたとすれば、ある意味「呪いと戦って生還した」ことになるのではないでしょうか。
だとすれば、こんどこそ、物語全体を暗く包むこの「呪い」を解くための道が示されていくのかもしれません。