2014年05月06日

Akinatorは硝子と将也を当てられるか?

だいぶ昔に流行った、頭にイメージした人物をいくつかの質問で当てる、「Akinator」で西宮硝子を当てさせた、というネタをTwitterで見かけたので、私もやってみました。

http://jp.akinator.com/
akinator The Web Genie!

まず、西宮硝子を思い浮かべて…



おお、ちゃんと出た!

次に、石田将也を思い浮かべて…



ワロタ。こっちもちゃんと出ましたよ。

Akinatorなかなか優秀ですね。

ちなみに実際の質問と答え(私がやったときのもの)は以下の通りです。

続きがあります…
posted by sora at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

2014年05月09日

大今先生の前作「マルドゥック・スクランブル」原作と聲の形の共通点とは?

聲の形の作者、大今先生は、オリジナル版「聲の形」で新人賞を受賞したものの、オリジナル版はすぐに日の目を見ることはありませんでした。
それに代わって「デビュー作」として用意されたのが、SF小説「マルドゥック・スクランブル」のコミカライズだったわけです。


マルドゥック・スクランブル
コミック 1-7巻セット
講談社コミックス
原作:冲方丁
画:大今良時

原作の濃密さと大今先生の作画力がいかんなく発揮された、新人漫画家のデビュー作とは思えない完成度を誇る作品になっていますが、ちょっと調べてみて、このマルドゥック・スクランブルの原作と「聲の形」に、いくつかの共通点が見つかって興味深いなと思ったので短いエントリを立ててみました。

まず、どちらの作品も賞を受賞していること。
マルドゥック・スクランブルは第24回日本SF大賞を受賞しており、「聲の形」は第80回週刊少年マガジン新人漫画賞で入選をはたしました。

また、同じ作品が何度かリメイクされていることも共通点ですね。
マルドゥック・スクランブルにはオリジナル版に加えて改訂新版(完全版)というリメイクバージョンがありますし、「聲の形」はオリジナル版、読みきり版、連載版と3つのバージョンがあります。

最後に、物語の中のヒロインが「こえ」についての困難を抱えているという点も共通しています。
マルドゥック・スクランブルのヒロイン・バロットは物語冒頭で事実上殺されて喉をつぶされています。聲の形のヒロイン・硝子は聴覚障害者です。


マルドゥック・スクランブル 完全版
ハヤカワ文庫


マルドゥック・スクランブル
Blu-Ray Disc

posted by sora at 07:55| Comment(8) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

2014年05月10日

聲の形の物語は「因果応報」なのか?

この物語で、たまにしか登場しないけれども、妙に重みを持って印象に残るキーワードがあります。

それが、「因果応報」です。

私が記憶している限りでは、このことばは現時点(35話)までで、2回登場しています。

1回目は、第1巻144ページ、第3話で、島田らにいじめられて倒れている将也を見かけた川井が言ったこのときのことばです。


川井「ねえ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」

2回目は、第4巻収録予定の第32話5ページ、硝子の母親に対してなぜ硝子に障害が出たかを問い詰める義母のことばです。


西宮母の義母
 「硝子がこんなふうに生まれたのには ちゃんと理由があるはずだ
  ほら 言うじゃないか
  因果応報…硝子が前世で何か悪いことをしたせいなんだよ
  あるいは あんたが…」

どちらも、主人公・ヒロインサイドに向けた非常に厳しいひと言で、強く印象に残ります。

ちなみに、因果応報というのは、ネットの国語辞典をみると、こういう意味だそうです。

人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。

さて、この「聲の形」、例えば将也がいじめたら(結果として)いじめられた、とか、硝子がいじめにめげずに将也の机を拭いていたらそれに感動した将也が5年後に恩返しにきたとか、いろいろ「因果応報」っぽいイベントが発生していますが、それでは、この物語は「因果応報の物語」として描かれているのでしょうか?

私は、必ずしもそうではない、と思っています。

なぜなら、この「因果応報」のせりふを言っているのがどちらも物語の中でネガティブなポジションを設定されているキャラクターだからです。

川井は、この物語の中では「優等生キャラクターを演じる、要領のよい常識人」として描かれており、偽善者の側面ももっています。
この「インガオーホー」は、川井にしては珍しく厳しい言葉ですが、恐らく、硝子いじめへの、ということに限らず、学級裁判で自分に罪をかぶせようとしたという「罪」に対する「インガオーホー」である、という意味で言っていると思われます。

一方、西宮母の義母の「因果応報」も、硝子が障害を持って生まれた「責任」は、硝子自身もしくは西宮母にある(逆にいえば西宮父側の家族にはない)、という理屈として使われていることばになります。

つまり、どちらの発言も、発言者の勝手な「自己正当化」の口実として、この「因果応報」ということばが使われているに過ぎない、ということになります。

このような、ある種論理が歪んだ場面でばかり、この「因果応報」ということばが使われていることには、恐らく作者の意図があるんじゃないか、と思っています。

つまり、この物語は「因果応報」という視点で読んではダメなのだ、という…

私は、「聲の形」というのは、将也がいじめられっ子に転落したのは硝子をいじめたことのばちが当たったから、とか、将也をいじめた島田には天罰が下るべき、とか、竹内転落しろ、みたいな価値観とは一線を画した物語だと思っています。
「勧善懲悪の話にするつもりはない」みたいなことを、インタビューで大今先生自身もおっしゃっていたんじゃないかな、と思います。
ラベル:第03話 第32話
posted by sora at 09:46| Comment(2) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

「聲の形」は父親不在の物語なのか?

これは、ある意味とても不思議な事実です。

「聲の形」では、「父親」なるものがほとんど意味のある存在として登場しません。

端的に、主人公である将也、ヒロインである硝子、いずれの家庭も母子家庭で父親がいません。
硝子の父親は、硝子に障害が発覚したことを理由に離婚したことが、第32話で明かされています。
また、硝子の母親についても、「父親」の存在がまったく示されておらず、もしかすると母子家庭であった可能性が残っています。

さらに、将也の姉は、ペドロというブラジル人との間に女の子(マリア)をもうけましたが、ペドロは「父親」になったとたん、このまんがから姿を消してしまいました(ペドロは、第1巻42ページ、第1話で登場します。)。
そして、将也の姉が母親として、マリアを育てていることが描写されています。つまり、将也の姉も「母子家庭」になっているわけです。



なぜここまで、ことごとく父親不在の家庭ばかりが描かれるのでしょうか?
また、たまに登場する「父親だったはずの人間」が、ここまでみな無責任に家庭を捨てるひどい男として描かれているのでしょうか?(ペドロはどこに行ったのか現時点ではよくわかりませんが)

これについては、具体的なソースはありませんが、作者である大今先生自体、母親の話しかしないあたりから、もしかすると作者自身が母子家庭で育ったのではないか、という説もあるようですね。

いずれにせよ、なぜか理由は分かりませんが、「聲の形」の世界には基本的に「母親」しか登場しないという不思議な構造をしていることは間違いありません。

理由については、「父親を登場させると父性原理に基づく強いリーダーシップでいろいろな問題がけっこう解決してしまうから」といった意見もあるようですが、そんなことはないんじゃないかな、と思います。
別に父親がいたからといって、それほどこの「世界」に大きな変化が現れるようには思われません。
まあ、将也の家庭は父親不在によってフリーダムと化していますし、硝子の家庭は母親が父親代わりをつとめているようには見えますから、もし両家に父親がいたら、将也と姉はもう少し子どものころから厳しくしつけられて、硝子の家庭は母親がもっと丸くなっていた、といったことはあるかもしれませんね。(笑)
ラベル:第01話 第32話
posted by sora at 17:39| Comment(14) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

単行本表紙に隠された二人の謎とは?

これもよく言われていることですが、いちおうネタとして投下しておきます。

「聲の形」の単行本は現在3巻まで出ていますが、その3巻を並べたときによく言われることがあります。

それは、「将也と硝子、二人の距離がだんだん近づいている」、ということです。

ちょっと確認してみましょう。

以下、Amazonの画像を使いますのでモバイルの方はうまく見えないかもしれません。

まず、1巻。



続いて2巻。



そして3巻です。



表紙について少し触れると、それぞれ将也と硝子の2人の画像になっており、まんがのなかのシーンと連動しています。
第1巻は小学校の教室、第2巻は再会の舞台となった橋、第3巻は佐原を探しに行くときの駅のホームだと思われます。

さて、こうやって並べてみると、2人の間の「物理的な距離」は、実はそれほど変わっていないようにも見えます(若干短くなっているかな、程度)。
でも、それとは別に、3巻を通じて少しずつ変わっているところがいくつか見つかります。

まず、「将也の目線がだんだん硝子のほうを向いてきている」ということ。
1巻ではそっぽを向いていたのが、2巻では正面になり、3巻では硝子のほうを向いています。

そして、「硝子がだんだん笑顔になってきている」ということにも気づきます。
1巻ではぼんやりした微笑だったのが2巻でははっきりと微笑んでおり、3巻ではもう少しで歯が見えそうなくらいの笑顔になっています。

さらに、持ち物にも発見が。
第1巻表紙では硝子が持っている筆談ノートですが、第2巻の表紙では将也が持っています。5年の歳月をへて、将也が「忘れ物」を届けに来たシーンを象徴している表紙だということがわかります。
(このパラグラフについては、いただいたコメントを元に追記しました。)


さて、6月17日には待望の第4巻が登場します。
それより少し前には表紙も公開されると思います。
まんがのなかのどの場面が使われるか(遊園地回?)、二人の距離と表情がどうなっているのか、注目ですね。


posted by sora at 07:32| Comment(18) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。