この物語で、たまにしか登場しないけれども、妙に重みを持って印象に残るキーワードがあります。
それが、「因果応報」です。
私が記憶している限りでは、このことばは現時点(35話)までで、2回登場しています。
1回目は、第1巻144ページ、第3話で、島田らにいじめられて倒れている将也を見かけた川井が言ったこのときのことばです。

川井「ねえ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」
2回目は、第4巻収録予定の第32話5ページ、硝子の母親に対してなぜ硝子に障害が出たかを問い詰める義母のことばです。

西宮母の義母
「硝子がこんなふうに生まれたのには ちゃんと理由があるはずだ
ほら 言うじゃないか
因果応報…硝子が前世で何か悪いことをしたせいなんだよ
あるいは あんたが…」
どちらも、主人公・ヒロインサイドに向けた非常に厳しいひと言で、強く印象に残ります。
ちなみに、因果応報というのは、ネットの国語辞典をみると、こういう意味だそうです。
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。さて、この「聲の形」、例えば将也がいじめたら(結果として)いじめられた、とか、硝子がいじめにめげずに将也の机を拭いていたらそれに感動した将也が5年後に恩返しにきたとか、いろいろ「因果応報」っぽいイベントが発生していますが、それでは、この物語は「因果応報の物語」として描かれているのでしょうか?
私は、必ずしもそうではない、と思っています。
なぜなら、この「因果応報」のせりふを言っているのがどちらも物語の中でネガティブなポジションを設定されているキャラクターだからです。
川井は、この物語の中では「優等生キャラクターを演じる、要領のよい常識人」として描かれており、偽善者の側面ももっています。
この「インガオーホー」は、川井にしては珍しく厳しい言葉ですが、恐らく、硝子いじめへの、ということに限らず、学級裁判で自分に罪をかぶせようとしたという「罪」に対する「インガオーホー」である、という意味で言っていると思われます。
一方、西宮母の義母の「因果応報」も、硝子が障害を持って生まれた「責任」は、硝子自身もしくは西宮母にある(逆にいえば西宮父側の家族にはない)、という理屈として使われていることばになります。
つまり、どちらの発言も、発言者の勝手な「自己正当化」の口実として、この「因果応報」ということばが使われているに過ぎない、ということになります。
このような、ある種論理が歪んだ場面でばかり、この「因果応報」ということばが使われていることには、恐らく作者の意図があるんじゃないか、と思っています。
つまり、この物語は「因果応報」という視点で読んでは
ダメなのだ、という…
私は、「聲の形」というのは、将也がいじめられっ子に転落したのは硝子をいじめたことのばちが当たったから、とか、将也をいじめた島田には天罰が下るべき、とか、竹内転落しろ、みたいな価値観とは一線を画した物語だと思っています。
「勧善懲悪の話にするつもりはない」みたいなことを、インタビューで大今先生自身もおっしゃっていたんじゃないかな、と思います。