今回のエントリは、第40話とあわせてマガジンに掲載された、大今先生と荻上チキ氏の対談をベースにまとめた記事になります。
この対談、「完全版」と称するものが
シノドスに掲載されているんですが、読み比べてみると、マガジン掲載の対談の内容とシノドスの内容、あんまりかぶっていないんですよね…。
両者がどういう関係なのか分かりにくいですが、今回のエントリの内容により近いのは、
マガジンに掲載されたほうの対談です。
さて、担任の竹内ですが、6年生の将也のクラスで、いじめを2件発生させてしまっています。
硝子へのいじめと、将也へのいじめです。
いじめの発生自体はどんなクラスでも起こりうることですが、この2つのいじめで、竹内は適切に対応をしている(問題を小さくする方向の働きかけができている)か、不適切に対応をしている(問題を大きくしている)のか、どちらかのでしょうか?
荻上氏は対談で、
竹内の対応は「問題を大きくする」、つまりいじめの発生を促進する方向に働いてしまっている、と指摘しています。
それは、
竹内が「マーキング」という行為を行ってしまっているからです。
マーキングとは、「こいつはいじめてもいい対象だ(こいつならいじめても大人は黙認する存在だ)」ということを暗に示してしまうことを指します。
そういう視点で第1巻を見直してみると、まず硝子いじめについては、竹内はまんがの中で2回、明確なマーキングを行っています。
1回目は、硝子の耳が聞こえない理由について話していて、将也が「お経書き忘れた」と冗談を言ったとき、竹内までが一緒に「ぶふっ」と吹き出したときです。

第1巻102ページ、第2話から。
2回目は、将也が硝子の補聴器を奪おうとして、耳を引きちぎって怪我をさせてしまったとき。竹内は、「お前の気持ちもわかるよ」と発言し、将也による硝子いじめを正当化してしまっています。

第1巻108ページ、第2話から。
これらの「マーキング」によって、将也の硝子いじめに対する罪悪感は薄くなり、「先生もわかっている」といった感覚で硝子いじめがエスカレートしていくことになります。
そして、硝子いじめの問題が校長に知られ、担任としての立場がまずくなった学級裁判では、今度は竹内は明確に将也をスケープゴートに仕立てあげ、クラスメートにも将也を断罪するように仕向けることで、
こんどは将也を「いじめてもいい存在」として明確に「マーキング」します。
それ以降については「将也視点」では見えませんが、島田や広瀬に対しては、「将也はいじめてもいい存在だ」という竹内のマーキングが繰り返し行われたことでしょう。
このように考えると、竹内は担任教師として、いじめ問題に対してはかなり間違った対応をとっていたことがわかります。
ある意味、「クラス内秩序を安定させる」ために、常にいじめてもいい存在をマーキングして、スクールカーストの構造を強い大人の立場から促進していた、と言えるでしょう。
将也が高校生になって再会した竹内は、当時のクラスを「運が悪かった」と回想していますが、運が悪かったのではなく、そういう不適切なクラス運営をした、その結果の現れが、いじめ問題が繰り返されたことだったのではないかと思います。