聲の形 公式ファンブック
KCデラックス 週刊少年マガジン
大今 良時 (著)
これについては、一つには、これまでも大今先生がインタビュー等で語っていた「『聲の形』を恋愛物としてとらえてほしくない」というこだわりであったり、「いじめた相手に謝ったら恋愛関係になるなんて」といった安易な「感動ポルノ批判」の文脈に乗せたくない、といった配慮が働いているように思います。インタビューで語ると文字で残ってしまうので、そういった妙な批判の対象になってしまうような言質をとられるのを避けている印象はありますね。
ただ、そんなことよりもっとはっきりしているのは、大今先生が、「恋愛感情」「恋愛関係」というのを、非常に狭い意味で使っているようだ、ということです。
以下、「考察」ではあるものの、私の個人的な恋愛観にかかる話になっている点についてはご容赦ください。
ただ、そもそもこのブログでこれまで「恋愛」と私が呼んでいたものがどこまでの範囲を指すものかについては、ちゃんと書いておきたいと思いました。
1.恋愛「感情」について
たとえばファンブックのQ&AのQ65で、橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」のシーンで、大今先生は「将也の側に恋愛感情は絡んでいません」と答えていますが、ここで大今先生のいう「恋愛感情がある」というのは、「自分が恋愛感情を持っているということを自認している」という意味だと思われます。
原作を振り返れば、結絃を彼氏と勘違いしてパンを落とし、硝子の入浴シーンを想像して焦ったり、硝子の電話番号を知ろうとどぎまぎしたり、ポニーテールや水着写真に盛り上がったり、「デートごっこ」に誘ったり、マンションから落ちるときに「俺のことどう思ってるのかな」と思ったり、その他もろもろ、どう見ても、将也は硝子に対して、ただの友達になりたいというのを超えて、恋愛の対象としての言動を取り続けているのは明らかです。
でもおそらく、将也は長らく自分自身のなかにある硝子に対する感情を「恋愛感情だ」とは認識できなかったんだろうと思います。
それは第2巻で雨の中を結絃と一緒に硝子を探すときのやりとりにも現れていたように、将也にとって、硝子のための行動の行動原理は贖罪でなければならず、恋愛感情など「あってはならない」ものとして、見えないように封印していたということです。
これは、第7巻の中盤にいたるまで、将也は自分自身の「こえ」さえ聞けていなかった、ということでもあります。
将也は「無意識」のうちには物語初頭から(下手したら手話サークルで硝子を発見するよりも前から)硝子に恋愛感情に近いものをもち、硝子と出会ってからはそれをどんどん育てていったと思いますが、将也自身が「意識」している世界のなかでは、文化祭で「こえが聞ける」状態になるまで、自分自身の「無意識のこえ」としての恋愛感情には気づけなかった、ということが言えるのではないかと思います。
これが、大今先生がいうところの「(将也には)恋愛感情がない」といった語りの正体なんじゃないかな、と思っています。
※加えて、この「生きるのを手伝ってほしい」に、将也はそもそもことさらに「恋愛」感情を込めてはいないだろう、というのはそのとおりだと思います。これは「色恋」にかかる感情の表明ではなく、「パートナーシップの約束」にかかることばだからです。それについては次の項で。
2.恋愛「関係」について
次に、大今先生がいうところの「恋愛『関係』」について。
私は、公式ファンブックを読んだ今でも、橋の上での「生きるのを手伝ってほしい」はプロポーズだと思っていますし、最終話どころか将也復活後はずっと二人は「恋愛関係」だと思っていますし、原作でもそう描かれていると思っています。
これは、大今先生が語っていることと矛盾しているように見えますが、私はそうは思っていないんですね。
これもまた、大今先生が「恋愛『関係』」というのを、非常に狭い意味で使っていることによるものだと思っています。
なぜかというと、私のなかで「恋愛関係」というのは究極的には「パートナーシップ」だと考えているからです。
恋愛とか恋愛関係、というものを構成する要素はいろいろあります。
燃えるような恋愛感情をお互いに確認しあって、「告白」をして、デートをして、キスをして云々といった、恋愛のなかでも特に「色恋」に相当する部分、というのが、まず1つありますね。言うまでもなくここには性愛の要素も含まれます。
それから、つきあう相手を特定の一人に限定して「浮気」はしない=他の相手を口説いたり関係をもったりしないということをお互いに約束しあうという、「排他的・独占的なコミットメント」というのも、「恋愛関係」の1つの要素です。
そしてもうひとつ重要なのが、「パートナーシップ」という要素です。
これは、いわゆる恋愛感情のような激しく不安定な感情ではなく、相手を深く信頼し、一生寄り添っていく、ずっと味方でいる、困ったときにはお互いに必ず助け合っていく、そういう「ずっと揺るがない大切なパートナーである」という意識をお互いに持ち続けるという、平穏で安定的で長期的に続く相手への感情とコミットメントのことです。
そして、どうやら大今先生の場合は、最初の2つが成立している状態のことを「恋愛関係」と呼んでいるように思えるのです。
逆の言い方をすれば、最初の2つが成立していなければ「恋愛関係ではない」と呼んでいるように見えるんですね。
端的にいえば「『告白』のようなイベントも経過して、目に見える形で『恋人』になり、デートも頻繁にやって、キスやそれ以上の性愛的な関係もある」という、そういう関係のことです。
この定義をとるならば、確かに最終巻の成人式の場面でも二人は「恋人関係」にはない、ということになるでしょう。
将也は硝子への恋愛感情はすでに自認しつつも、それをストレートに硝子に伝えきれていないという描写が随所にありますし、硝子も、かつて「好き」と伝えようとした恋愛感情が完全に消えているはずはなくても、いまはまだ東京で手に職をつけることを優先している状況だといえます。
たまに遠距離デートくらいはやってるかもしれませんが、「恋人らしい」進展はなかなかない、そんな感じだろうと思います。
これは当時の最終話のエントリでも書いたとおりですが、大今先生のコメントのニュアンスからすると、当時想像していた以上に、成人式時点でも二人の物理的な(色恋的な意味での)進展はなさそうだ、とは思います。
でも私は、「恋愛関係」というのは究極的には、先の3つの分類の最後の「パートナーシップ」に尽きる、と思っているのです。
「恋愛感情」は不安定なもので、いつか醒めていくものです。
でも関係を続けていく中で、しっかりとした「パートナーシップ」が育まれれば、二人の関係は、情熱的(でも不安定)な「色恋の相手」という関係から、長く安定的に続く「パートナー」に昇華していくはずです。
そして、一生をともに生きていくという意味での「婚姻関係」を続けていくために必要なのは、狭い意味での「色恋」ではなく、この「パートナーシップ」なのです。
ですから、「恋愛関係」の究極形は「パートナーシップ」だと思っていますし、当然、パートナーシップというのは「恋愛関係」の(とても理想的な)1つの形だと考えています。
そして、将也と硝子の関係が非常にユニークなのは、硝子の想いは伝わらず、また将也の想いは無意識の下に抑圧されたことで、最初に経過すべき「色恋」の関係はすっとばして、いきなり橋の上の「生きるのを手伝ってほしい」で「パートナーシップ」の関係を成立させてしまったことにあります。言い換えると、若者らしいカップルの関係を経ることなく、縁側でお茶をすする老年夫婦のような関係を先に作ってしまった、といったようなイメージでしょうか。
そして、この安定的なパートナーシップの関係は、当然に文化祭の場面でも、その後の時間も、そして成人式の場面でも、ずっと二人のあいだに続いています。
おそらく「告白」もなく、ベタベタした恋人っぽい関係も(まだ)ない二人ですが、相手を信頼し「生きるのを手伝っていきたい」という想いは、一点の曇りもなくお互いが持っていて、ずっと続いているはずです。
これは、私からみると、「恋愛関係」以外のなにものでもないですね。
そして、「生きるのを手伝ってほしい」は「パートナーシップの約束」であり、その意味において、それは紛れもないプロポーズです。
一方で、たぶんこの関係は、大今先生的には「恋愛関係ではない」でしょうし、だからこそ「生きるのを手伝ってほしい」も、(恋愛関係じゃないのだから)当然「プロポーズではない」ということになるのでしょう。
私は、そういうことだと理解しています。
これが、公式ファンブックで「恋愛(関係)じゃない」と言われたから慌てて付け焼き刃的に新しい理屈をこじつけたということでもないことは、これまでのエントリでの表現を読んでいただければ、以前から「パートナーシップとしての恋愛関係」という話をしていることがお分かりいただけるかと思います。
私が長文投稿しても読む人が疲れるだけでしょうから、作者の公式見解に対する私なりの見方だけ書きます。
途中の過程がどうであれ、
いじめられた者が、
いじめた相手に対して恋愛感情を持ち、
その2人の「恋愛」が成就した、
という形で物語がクローズした、
と公式に作者が宣言することの社会的影響を考慮して
作者はネガティブな発言をしたんじゃないか?
と私は穿っています。
つまらん見方かも知れませんが、
案外そんだけ、なのではないかと。
管理人さんの説が、
作者の「恋愛」の定義として当たっているなら、
それは日本政府の憲法9条の「戦力」解釈のように
非常に苦労の上に技巧化された定義なんだろうと、
そう思うので、
なおさら上記のように自分は感じます。
だから「二人に〝恋愛”が無いなんて!」と
そんなにガッカリしなくても良い気がしております。
あれを何と名づけるかは知らんけど、
あれは、
ああゆうふうに描かれたとおりの感情なんでしょう。
aikoさんのオフィシャルHPに、主題歌に関するインタビューが載っているのを見つけました。
「大切な相手に対して、なんの私利私欲もない、純粋に心の底で強く想う気持ちだけで繋がっている瞬間があったらいい」というaikoさんのコメントは、soraさんの「パートナーシップとしての恋愛関係」に通じていると思います。それが理想であり、究極であり、一番大事ですよね。
そのaikoさんが、原作を意識しすぎないことを心がけつつ、「初めても最後も今もずっとあなたに感謝しているっていう曲を今回は書きたかった」という気持ちで作った主題歌を、私が勝手に自分の中で原作の様々なシーンと結び付けて痺れているのは、至極当然な気がします。
大今先生が恋愛関係を否定する真意は私には測りかねますが、私の感覚は、silverさんの「案外そんだけ」に近いです。
それが将也と硝子の場合は男女の関係ではなかったというだけの話です。
近づけば近づくほど傷つき死にたくなる
↓
生きるのを手伝ってほしい
↓
だから別々に生きましょう
とくに不自然な流れではありませんよね。
たとえ別々に生きていても2人が友情も恋愛も越えた絆を手にし間違いないと思いますけど。
植野とくっつけたい人が一部にいるということは公式でも大今先生がおっしゃってることですから周知のことです。
また、「近づけば近づくほど傷つき死にたくなる」を鬼の首をとったように繰り返していらっしゃいますが、これは硝子の自殺未遂までのことであって、その呪いは「橋の上の奇跡」によって消し去られ、最終回(以降)に至る、という物語の構成をもし本当に理解されていないのだとしたら、やや驚いてしまうところです。
soraさんのブログを連載当時からずっと読んでいる者として、このエントリで述べられている恋愛観や考察が、付け焼き刃的なものではない事は分かります。
また、「大今先生が恋愛関係を否定するのは定義の認識が違うから」という説は、ファンブックを読んでショックを受けたものの、作品と作者両方のファンであり続けたいと思う私にとって、救いだと思います。
soraさんの説は、「パートナーシップ」が成立していても、「色恋」、「排他的・独占的なコミットメント」という過程を経ていないと、大今先生は「恋愛関係」とは思わない、ということでしょうか。
そうなのかも知れませんが、私には今ひとつ確信が持てず、大今先生が恋愛関係を否定する理由は、「感動ポルノ的な批判の文脈に乗せたくない、といった配慮が働いている」という「案外そんだけ」の方かなと思ってしまいます。
私は、聲の形(原作)は素晴らしい作品だと思います。
恋愛がテーマの中心ではないことや、イジメの加害者と被害者が安易に和解するというストーリーでないことは、マジメに読めば誰でもわかると思います。
普通なら有り得ないだろう将也と硝子の和解や恋愛感情への発展は、そうなる理由や過程もキチンと描かれていると思います。
かわいそうだけど、そこに植野が割り込む余地がないことも、読めば理解できます。
確かに、1から10まで全部は作品内で語られていない部分はあるけれど、自分で考えるなりsoraさんのブログを読むなり、理解する方法はいくらでもあります。
大今先生は、ネットで作品の感想を読んでいるそうですね。
私も気になって、作品を批判している人たちの掲示板を読んだことがあります。
彼らの意見には、「そういう見方もあるのだな」と思えるものもありましたが、大部分は単に作品を理解しようとしていないか、彼らが望むストーリー展開(植野と将也をくっつけたい)にならないことの不満を言っているだけの様に思えました。
そういう彼らに配慮してコメントするのは大今先生の優しさなのかも知れませんが、そのコメントで、マジメに読んでいる人たちが困惑する結果にもなっていることを、大今先生には知って頂きたいと思います。
現に私は、ファンブックを読んでショックを受け、これが「公式」なコメントである以上、「私はもうファンじゃない」と(1~2日だけですが)思ってしまいました。
こんなことを言う資格は無いかも知れないですが、大今先生には作品にもっと自信を持って頂きたいと、1人のファンとして思う次第です。
数年前に週刊マガジンを手に取りぱらぱらとめくったときに
硝子をしょうこではなく、ガラスと読みまちがえて
ガラスのハートを持つ障碍をもつ少女が飛び降り自殺を図ったという認識で本を閉じた記憶がよみがえりました。
映画で一番印象に残ったのは、×がすべてとれたときのこと。
光と融合する
一つの光の在り方を観たという印象でした。
このマンガ題材が題材ですし、ネットでいわゆる
「荒れやすい」ところが多いマンガです。
恋愛関連なんてもっとも発言に注意しなければならないところで、私が作者さんでも似たような発言をする
のではないか?と。
正直、描写とあまりに違う答えだな~と思ったことも
ありましたが。
まあ、上の方がおっしゃっていましたが憲法9条と
自衛隊の国会答弁みたいなものですよ(笑)
正直、このマンガの面白いところは省略描写で読者にいろいろ想像させるところでもあったわけで、ここまであからさま、詳細にタネ明かししちゃうのもどうなのか?とも思いました。
作者先生よりはこんな本企画する出版社側の問題かな?と。
まあ、読み切り目当てに買ってついつい読んじゃった
私も悪いんですが・・(笑)
「付き合っていない」とどうしてガッカリするのだろう?と考えてみました。
冷静に考えれば別に二人の間の恋愛感情までは否定されてないし(そりゃあれだけいろいろ描写されれば今さら否定はしづらいだろうけど)、別に関係そのものは過去のしがらみや呪いから解放されて、ガーデンピックの話すら
できない…状態から脱却したわけで、それほど悪い話でもないのにも関わらず。
まあ、平たく言えば「俺たちの戦い(恋愛)はこれからだ」ラストでそんな作品、これだけではないし、ライバル?の「君の名は」もそうなんですけどね。
考えられる理由としては…
1.演出があまりに劇的すぎる
硝子の自殺未遂から石田の身代わり転落、そして「君の名は。」もビックリの超常現象と奇跡の復活。
そして橋の上での、誰もが「プロポーズ?」と「誤認」してしまう「君に生きるのを手伝ってほしい」「はい」のやりとり。
「ここまでやって」まだ付き合ってない?
「ええ?」となる。これが自殺未遂ではなく
硝子失踪で石田が必死に探しだし…で「超常現象」抜きくらいの展開なら「恋愛感情」抜きでもそれほど違和感はなかったかも?
もっともマンガとして面白いのかどうか?の
問題がありますが…。
2.最終回が成人式で2年ものタイムスキップ
そんなに時間があって、何もないんじゃ普通に脈なしだろ?て現実的に考えてしまう。
もちろんブログ主さん他の方の考察のような
色恋を超えたパートナーシップみたいな関係ということなんでしょうが、やはり20歳そこそこの男女の関係としては不自然に感じてしまいます。
これが高校卒業時の硝子東京行きで、普通に
お別れの「握手」であれば変な「誤認」
などしないし、「恋愛関係なし」でも別に違和感ないんですが。
しかし、成人式である背景を見なければ、まるで「結婚式?」と錯覚しそうなあのシチュエーションと演出でああいう手繋ぎすれば
よほどひねていない限り「ああ、そういう関係なんかな?」と期待と誤解が膨らむんじゃないかな~と(笑)。
そう意味では変な「誤解」をしない映画版の
方がベストかも?
それにしても映画のPVはどうみても「硝子の
恋物語」に見えるし、関連グッズに描かれる硝子と石田くんはどうみてもリア充のカップルにしか見えず「恋愛映画」と思われそうですがいいんですかね?(笑)
そういえば大今先生の発言の中にこのようなものがありますね。
「(ネット上で)話題にされること自体は嬉しいですけど、読者のいち考察が、いつのまにか「公式」になる現象は嫌です。」
映画では、橋での再会時の硝子の手話が原作の「分かりました」から「約束します」に変わっていますが、これは「もう決して死のうとしません」という意味と、「今後、将也が生きるのを助けて行くことを誓います」という意味が込められていると、解釈しました。
後者の意味は、soraさんのおっしゃる「パートナーシップの成立」以外の何物でもないと思ってます。原作より映画の方が、強力になっていますね。
主題歌は、公式HPのインタビューを見て、作詞にあたりaikoさんは意識しない様に注意したつもりだったけど、結果的には硝子の気持ちが歌われてしまったと解釈して痺れてます。
ファンブックで大今先生が恋愛関係を否定している理由は、既出の諸説プラスαで、「映画の宣伝や主題歌の方向に、実は大今先生は心の底では100%同意しておらず、恋愛が作品の中心ではないことを公式ファンブックで強調しておきたかった」という説も有り得る様な気がします。
ウフコックという輩は荒らし認定していいと思いますよ管理人さん
ROMってても不愉快です貴方の戯れ言は
俺の言うことを聞かないやつらはこうだと言っているにすぎない
原作は連載時も飛び飛びで読んでいたのですが、映画にハマって単行本を揃えた口です。こちらのブログを見て、ファンブックもAmazonで注文しました。
将也と硝子の恋愛感情の有無については、7巻で植野さんが将也と講演で会話するシーンで明らかだと思うんですけどねぇ。管理人様のおっしゃる事が自然な気がします。
ところで、お尋ねしたいのですが『聲の形』のウィキペディアを見ると『なお、島田視点では、植野に告白するが、植野は石田に片想いであったため、石田潰し(いじめ)を実行し、石田潰しには成功したが、植野の石田に対する想いを消すことはできなかった。』とありますが、この様な描写は見当たらない様に思えます。
ネットで検索すると、この質問の回答として
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13164378268
『連載時の大今良時のインタビュー記事では、植野が島田の告白を断ったので島田は石田を狙っていたし、いじめ続けた、石田を想う植野は西宮に嫉妬して、西宮をいじめ続けた』とあるのですが、こちらのインタビューについて管理人様はご存じでしょうか?
管理人様の記事
http://koenokatachi.seesaa.net/article/409401161.html
を拝読する限りでは、特にその様な言及は無い様ですし、他にその様なインタビューは存在するのでしょうか。ご存じでしたらお教えください。
コメントありがとうございます。
まず、エントリの内容と関係なく、同じ主張を繰り返されている方についてですが、エントリの内容と関係ないので公開を見送ろうかと思いましたが、とりあえずは誹謗中傷の内容ではなかったので公開という扱いにしました。
ただ、この方の場合、まさに自分で語るになんとかというか、かつては「植野の恋は必ず報われる、植野と将也をくっつけたい」という思いが強いあまりに、そしてそれが連載の過程(特に6巻後半あたりから)で否定されていくと、今度は「硝子と将也がくっつくのだけは受け入れられない」という思いが強いあまりに、硝子叩き、将硝について語る読者叩き、さらには気に食わない展開を描く大今先生叩きにまで発展していったので、「誹謗中傷は削除」というポリシーに基づき、一定期間のほとんどの投稿を削除させていただいていた経緯があります。
公式ファンブックで、「植野にもワンチャンある」と「公式」に書いてもらったわけですから、それで「勝利宣言」して、それで終わったと思ってもらえればそれでいいと思っていたのですが。
(まあ、その程度の「ワンチャン」は川井や佐原にだってありそうなレベルですし、万一「硝子ルート」がなくなったとしても、次に本命になるのは、どう考えても結絃だと私は思っていますが。「公式」にも、植野の恋心は植野の幻想だという趣旨のことが書いてありますし)
ともあれ、今後もエントリと無関係の自分の主張を繰り返されるようであれば、今後は公開を見送ることもあるかと思います。
また、きこりさんのご質問ですが、これは誤りですね。
島田が、植野に惚れていたとか告白したといったことは、連載当時に妄想として語られたことは多々ありましたが、それが実際に物語として、あるいはインタビューとして語られたことはないです(少なくとも私が知る限りでは)。
それに、そんな設定では明らかに物語がゆがみますよね。
お答えありがとうございます。
>それに、そんな設定では明らかに物語がゆがみますよね。
ですよね~。ようやくスッキリしました!
一体何なんでしょう、ウィキペに有りもしない事を書いちゃうの。自分みたいに戸惑う人、きっと出てくるハズ……。
(※要出展、とでも追記しちゃおうかな……)
個人的に、ifの想像で楽しむのもいいけど、公式なものと信じられ易い媒体に持ち込むのはカンベンして欲しいもんですね。
たしかに大今先生は厳密に、「恋愛感情」と「恋愛関係」という言葉を使い分けられてますね。
また植野さんにもワンチャンあるかも、的な事を言って様々なファンに対して想像の余地を残してあげている様な感じを受けました。
たぶんあの同窓会に参加する事で、あの二人にには何かしらの化学変化が起こるのでしょう。
個人的には、川井みきというキャラに対する大今先生のコメントに驚きました。映画番の監督がパンフレットやライブビューイングの会場で「生まれながらのシスター」と川井を評していて、違和感を覚えたのですが。
この場合の「シスター」ってあまり良い意味では無さそうな。
連載時には実らない恋の予感を漂わせていたように思われただけに意外の感があります。
エドと申します。
kindle版を購入させていただきました。
すべては読めていませんが、私なりの今回のファンブックも絡めた聲の形の考察を書かせていただきます。
今回の映画にあたり、鑑賞後、持っていた全7巻をしっかり読みました。
将也と硝子・植野の恋愛面に関する考察です。
所詮、妄想の類ですので、あまり叩かないでください。
個人的に気に入っている妄想なので(笑)。
長文になります。よろしければ永らくおつきあいください。
最初に結論を申しますと、将也と結ばれる確率は、
9割 硝子
1割 植野 だと思います。
私は硝子派ですが、
植野のワンチャンスはあると思います。
その推察に至った理由を述べるには、まず
「何故、硝子は東京に行くという気持ちになることができたのか?」
という根本から考える必要があります。
私の好きなアニメ作品にクラナドという今回劇場アニメ化をされた京都アニメーションの作品があります。(もとは美少女ゲームですが)
このなかで、主人公が引っ込み思案なヒロインを元気づけたり、しかったりするなかで前へと進ませるという展開があります。
主人公の親友が主人公にこのように言います。
「ヒロインが自信を持って前にすすめるのは、お前がいるからだ」と。
この部分が、何か聲の形と似ているなと思いました。
つまり、硝子が自信を持って自分を認めてもらった東京に向かうことができたのは、
「将也は、どんな時も、私が困ったとき、駆けつけて助けてくれる」
「私(硝子)は、将也が困ったとき、駆けつけて、助けてあげられる」
「そして、二人は応援し、応援され、生きていく」
硝子は、管理人さんの言うところのパートナーシップを築き(築く過程は将也が硝子を助ける~硝子の映画の復活への手助けによる二人の成長)、それができると約束と確信をしたからこそ、自分の夢(立派な理容師)に向かって進めたのではないか。
つまりこの時点の関係は、完全なパートナーシップという事になります。
その絆は相手を応援し、応援され、互いに助け合い生きるという約束。
そして、彼ら自身の恋愛の気持ち。
だと思います。
ただし、その恋愛の気持ちを、将也と硝子は、無意識のうちに隠したと思います。
なぜなら、もし愛の告白をして、万が一振られてしまったら、
自分の自信の根拠であるパートナーシップそのものも崩壊するからです。
そうなってしまえば、二人は立ち直れません。
ある意味、昔からいる幼馴染の二人が、お互いを思いあっているのに今の関係を壊したくないから、告白ができないというラブコメです(笑)
その様子が、61話の後半の、将也と硝子の、ぎこちない会話だと思います。
そう考えていくと、二人が恋愛状態でないのはわかります。
最終話でもキスをしていないのは、当然です。
東京に行った後、長い間、二人は互いの誕生日に会いに行き、
正月や盆には石田家・西宮家で二人の母・結弦と一緒に楽しんでいる。
パートナーシップを基にした、家族ぐるみの付き合いを想像します。
その間、二人は他の誰かに恋することは無いでしょう。
あの高校三年生の二人の出会い~約束をするまでは、普通では味わえない人生最大のドキドキですから。
そうなると、結論としては9割、硝子ということになります。
彼らは結婚適齢期になるまで、その関係が続き、
やがて、二人の母親に説得され、結婚に向かう。
パートナーシップを壊したくないという想いが結婚に向かわせる。
「あの……結婚する?」
と不安な気持ちを持ちながら、お互いが一緒に手話をするほどに。
実は、互いが無意識な恋愛的な思いを持っているのを気づかずに(笑)
(↑いや、そういう事もあるかも……)
まあ、その後は、子供が生まれ、その子を育てる役目を石田家が背負い、硝子は東京でまだまだ仕事する。そして、石田母の引退と共に、硝子は戻ってきて、ようやく二人は一つの店で仕事する……そんな私は妄想をします。
個人的には、こんな感じの漫画が見たかったです。
では、
硝子の確率が9割なら、植野の1割は何か?
それは、
この将也と硝子の絆と植野の小学生時代の罪を、
植野が認めることがスタートラインだと思います。
ファンブックのなかで作者がおっしゃってますが、
植野は硝子の最大の理解者です。
それと共に、まだ硝子を許せていません。
ですが、植野が恋する将也は、硝子を大切にしています。
仮に植野が将也と結ばれても、将也は硝子の危機に植野を置いて、駆けつけるでしょう。そんな結ばれ方は植野自身も傷つき、ハッピーではありません。
なら、どういう状態ならあり得るか?
それは、植野が将也と共に、硝子と嘘偽りの無い友情(パートナーシップ)を結ぶしかありません。硝子の危機には、将也と植野の二人で駆けつけるのです。
そうなれるには、植野にはたくさんの課題があるでしょう。
それをクリアして、植野と硝子は、友であると共に恋のライバルとなると思います。
植野は硝子に正々堂々と恋のライバル宣言をして、勝ち取ることで、ようやく将也と結ばれるでしょう。
植野はそのような状態に、将也と硝子の結婚適齢期を迎えるまでになれるか?
その確率を1割くらいと私は考えました。
以上が私の考察です。
個人的には、将也と硝子のパートナーシップが、硝子に自信を与えて前に進ませるという私自身の妄想に、願望がたくさん入っているなと思います。
この漫画は本当に色々なものを私に与えてくれました。
管理人様、ありがとうございました。
恋愛の話題は、もう少し続けても問題なさそうなので、もう一本、書かせてください。
前に「原画展でもらった、硝子が将也にバレンタインのチョコをあげようとしているイラスト見て、硝子から将也へどこかで告白をやり直したのだろうと思っていた」とコメントさせて頂きました。
この週末、家の整理をしていたところ、原画展で購入したクリアファイルの中に、そのイラストが保管されていたのを、1年半ぶりに見つけました。
イラストの詳細は、うろ覚えだったのですが、改めて見るとこんな感じです。
2人は高校の冬服を着ている。
硝子は少し背伸びしながら右手で将也の左手の袖をつかみ、左手でハート型のチョコを背中に隠している。
2人は視線を交わしており、将也は少し驚いた様な顔をしている。
硝子は顔を赤らめ、口元が「変な顔」になっている。
すごく良い絵だと思います。
皆さんにも見て頂きたくて、ネットにUpされていないかと探してみましたが、クリアな画像は見つかりませんした。
原画展の会場だったGofaがyoutubeにupしている動画では、大今先生がこのイラストを描いている様子が見れますが、完成品は映っていません。
硝子は、伝わらなかった「ちゅき」をやり直そうとしているのでしょう。
そして、自分の恋愛感情に気づきながらも硝子の気持ちを知らない将也は驚いている、という場面だと思います。
この後どうなったのかは分かりませんが。
このイラストが制服姿だったことには、少し驚きました。
私は、すっかり忘れて、もっと後のことだと思っていました。
これを見ると、橋での再会時にパートナーシップが成立した2人の間に、高校卒業の前から「色恋」の要素も芽生え始めている様に思えます。
時期的には「私も同じ事を考えていた、一緒に頑張ろう」と硝子が言ってから、東京に旅立つ間ですね。
将也はチョコが嫌いなはずだけど、硝子からもらえたら、さぞ嬉しいでしょう。
コミック本編にはない絵ですし、原画展の時期が2015年のバレンタインの頃だったので、大今先生はファンサービスをしてくれたのでしょう。
ファンブックのコメントからすると、この様なイラストが描かれることは二度とないのかと思うと、やっぱりさみしい気がします。
コメントありがとうございます。
キャラ愛にあふれた考察、興味深く読ませていただきました。
おっしゃるとおりで、私も原作最終巻でようやく「過去の将也」ではなく「現在の将也」を好きになれた植野は、初めて「現在の将也」との深い関係を構築できるかもしれないスタートラインに立てたのだと思っています。
将也の、硝子とのパートナーシップというのは、それこそ二人が文字通り命をかけて築き上げたもので、行動原理が単純な植野がそれを見事に乗り越えて将也と結ばれる、というのは、自分がアナザーストーリーを考えてみようとしてもそう簡単には思いつかないレベルですが、むしろ将也と硝子がいったん恋人として付き合い始めて、何らかのトラブルでお互いが信じられなくなったときの将也の心の隙間に植野が入ってくる、という展開のほうが、「色恋もの」としてはありえるストーリーであるように思えますね。(でもその場合、植野の恋は最終的に将也と硝子の間の『パートナーシップ』に負けてしまう、というのがお約束の展開になりそうですが)
加えて、もしも将也の隣が指定席だったはずの硝子が何らかの理由でいなくなる展開があったとすれば、その隣の席に誰よりも座る可能性が高そうなのは、私は植野よりも結絃なんじゃないかとも思っています。(特に、色恋じゃなくてパートナーシップ側の議論をするならば)
当ブログとしても、特定のキャラ叩きやブログの利用者叩き、作者叩きといったことをしないのであれば、キャラとキャラの恋愛をいろいろ妄想する楽しみを否定するものではまったくありません。
acros1546さん、
コメントありがとうございます。
確かに、大今先生は原作完結当時は今よりも(公式ファンブックの見解よりも?)ずっと、将硝の将来の恋愛模様についてはポジティブな立場をとっていたようにも思います。
原画展のイラストは、原作7巻で語られなかった色恋の物語と考えるよりは、パラレルストーリーの1場面ととらえるほうがしっくりくるかなと個人的には思いますが、それでも、そういうちょっと同人っぽいようなものを大今先生自身が描けてしまうといった自由さが当時は今よりはあったような印象もあります。
ただ、原作完結から映画の話題が盛り上がるまでの期間、ネットにあるほとんどのこえかた関連の掲示板は荒れ放題だったように記憶しています。
そこでは、硝子と大今先生が汚い言葉で叩かれ、なぜか植野ばかりが持ち上げられるような謎の書き込みがあふれ、誰も真面目な議論をしなくなってしまっていたように思います。
(現在でも、公式ファンブックを恣意的に「将硝の恋愛模様はなく、植野とくっつく」みたいに抜き出して「公式の見解」みたいに紹介しているコピペ記事をいくつか見かけましたが、みんな同じ人なのでしょうかね。そういえばこのブログのコメントでも似たようなことをされた方がいらっしゃいました。)
ともあれ、そういったものが、公式ファンブックをもってして「余計な炎上を起こさないように語る」というポジションを作ってしまったのかもしれない、と想像したりもします。
あとは、これは超希望的観測ですが、もしかしてもしかすると続編の可能性がゼロではなく、続編を描くときに将硝の関係があまり固まってしまうと話が展開しなくなってしまうので、二人の恋愛模様の温度感を下げる方向で「新たに設定調整」したのかもしれない、とも思います。
もしこの可能性がリアルだとすれば、植野にはワンチャンどころか、間違いなく「一度は将也とつきあう」という展開が用意されると思います。そのうえで、硝子は、結絃は、永束は、そして恐らく出てくるであろう「将也の恋のライバル(硝子を奪い合う)」はどうするか、といった「青春群像劇」が描かれるのかもしれませんね。
そんな風に考えれば、公式ファンブックの「あれ、ちょっと言ってること変わってるんじゃない?」という違和感も、ポジティブに受け止められるんじゃないかと思っています。
公式ファンブックで大今先生が恋愛関係を否定した事に関する私のもやもや感は、soraさんが提示してくれた2つの説(特に超希望的観測の方)で、完全に解消されました。有難うございます。
もやもや感の解消と並んで、もうひとつ嬉しかったのは、soraさんのブログで今回初めて議論に参加できたことです。
原作が連載されていた頃、このブログでsoraさんの深い考察と、沢山の常連さん達がコメントして議論が進む様子を、毎日楽しみに読んでいました。
当時は、記事の内容やコメントに感心するばかりで、自分が議論に参加することなど想像も出来ませんでした。
佐原じゃないけど、少し成長したのかな、と思うと嬉しいです。
なので、私のちょっと言い過ぎてしまったコメントに、ユーモアたっぷりの挨拶を返してくれた先輩も含め、この記事と、その前身にあたる「聲の形公式ファンブック、本日発売!」にコメント下さった全ての皆さんに感謝したいと思います。
ここ数日、時間があるとき、将也と硝子のことについて考えを巡らせていました。
自分の妄想力(笑)をすべて使い、この二人が幸せになる物語を構築してみたのですが、
どうも越さなければならない壁は、パートナーシップを結んだあとでも、かなり多いのではないか。
そんな考えに至りました。
その壁は2つです。
1将也の自己評価の低さ
ファンブックを見ている限り、将也はまだ自分を好きになれていないという問題が残っているようです。これをどう解決するか?
裏設定を見ると、本編の途中まで、自分のことを知ろうとしない将也像が、シャツのタグを使って表されています。
将也が自分を知り、自分を好きになるエピソードを考え付けば、この問題は解決するように思えます。
2硝子の実は強い上昇志向
東京にわざわざ向かうのは、それが強いのではないかと思いました。ファンブック内でも、「新しい自分に変われない」という呪いについての言及があります。裏返せば、まだまだ人に認められたいという欲求が強いのではないか? 実は佐原と同じ業を硝子も持っているのではないか?
そのような疑いがあります。
このような部分が実は解決されずに、物語は終幕した、私はそのように思っています。
管理人様は、彼らにはまだどのような課題が残っていると思いますか?
もし、時間がございましたら、お聞かせください。
なお
一応、自分では、それを解決するプロットを組み立てることができました。
いつか、同人小説でも作ってみようかと思います。(ただ、同人発表をしたことが無い為、どう発表すればいいかわかりませんが)
コメントありがとうございます。
いただいたご意見2つですが、2については、まず「橋の上の奇跡」以後自身の障害を受け入れた硝子が、ありのままの自分がどこまでできるかについて前向きに挑戦しているというのが東京行き以後の実情だと思います。
ですから、東京で一人前の理容師になり、自分でお金を稼ぐことができるくらいになれば、いったんはクリアできるんじゃないかと思っています。
1については、これはもうおっしゃるとおり、何らかのイベントの一押しで解決できると思います。
「将也と硝子は同じ」という作者コメントからすれば、硝子が映画再開を通じて自分を認めることができたように、将也も同じように、何らかの課題を乗り越えることで自分を認めることができるようになれると思います。
で、そういった「課題」をクリアして、二人の距離を一気に縮めるためにどうしたらいいかと妄想するなら、これはもう物語の定番としては「旅行デート」しか考えられないですね(笑)。
日帰りのつもりで旅行デートをしたら、トラブルが起こって泊りがけになってしまって、そこでいろいろな問題をクリアしながら夜を明かし、お互いにとって相手がかけがえのない存在であることを確信する(そこから距離が一気に縮まる)、そういうコテコテのストーリーなら、割と簡単に作れるような予感がします。(あくまで予感です。笑)
二次創作の小説ですが、私もそういうのを公開したことがないので詳しくは分かりませんが、キャラ絵などを流用したりせず文章のみで、キャラクターのセリフのコピペなども乱用しないものであれば、おそらく著作権上は特段の問題はないと思われます(いくつかネットの意見なども見てみました)。
だとすれば、小説が公開できるあらゆる場所で、公開することができると思います。Pixivとかなろうとか、あるいは有償にするならKindleとかが考えられますね。
Kindleについては私も公開しているのでアドバイスはできますが、ぶっちゃけ小説の場合は有償にすると読んでもらえる人が極端に少なくなるので、無料公開のほうがいいかな、とは思いますね。
中々時間がかかりそうな物語になりそうなので、
ゆっくりと書いてみようと思います。
所詮、妄想の類ですので、
無料公開でやりたいです。
まぁ、だいぶ先の話になりますので、
この話は忘れてください。
もし出来上がったときは、このページで
コメントしようと思います。
いくつかの疑問に答えて頂きありがとうございました!
エド
聲の形のライバル?でアニメ映画の枠のみならず今年の邦画最大のヒット作「君の名は。」と聲の形って共通点が意外とあったように見えましたね。
別に恋愛ものであることを隠していない?「君の名は。」と「聲の形」って主人公とヒロインの関係だけみれば、ほぼ同じ展開なんですよね。
会いたいけど会えない(君の名は)、会っているんだけど気持ちがすれ違う(聲の形)、ヒロインを救う為に奔走する主人公とか夢で出会うとか・・・。
クライマックスから数年のちにようやく出会える(君の名は)、二年後にようやく本当に気持ちが通じ合う(聲の形)で、両方とも俺たちの戦い(恋愛)はこれからだエンド・・などなど。
昔の東映マンガ祭りのデビルマン対マジンガーZじゃないけれども、瀧と三葉、将也と硝子の二組のカップルが絡むアニメ、二次創作などなどを見てみたいくらい(笑)
昭和の昔のラブコメ・・というか恋愛マンガのヒット作に「翔んだカップル」というマンガがありまして。
(若き日の薬師丸ひろ子主演で映画化されました、そしてこれも少年マガジン掲載!)
色付き髪のカワイイ系美少女(硝子に相当)と黒髪ロングのスリム系美少女(植野に相当)が絡んでとか主人公の性格とかキャラがなんとなく石田っぽかったり(連載当初はヤンチャ、後に下ると考え込むメンドくさい性格)、ちょっぴり聲の形っぽいところもあったりするマンガだったんですが、大人気を博した本編終了後に作者先生は何を思ったのか、数年後に続編を描くんですね。
こちらは注目を集めませんでしたが、結構シビアで、当初は順調に交際をする主人公とヒロインでしたが、いろいろあって結局は別れて、それぞれ全く別の伴侶と・・という結末。
さらにその続編ではさらに年月を経たあとその伴侶と死別して、結局主人公は本編の黒髪ロング(植野相当)と再婚・・というコエカタでいうところの植野エンド・・という読者の予想と期待?を裏切りまくる結末をやってくれました。
聲の形のギャグや番外ではなく、本格的な続編が仮に実現したとして作者先生が一体どんな話を展開させるのか?読みたくはありますが、作者先生が本当に恋愛漫画視を忌避していたら、そういった読者を一掃すべくとんでもない展開をやりそうで怖くもあります(笑)。あと、植野にもチャンスありってどういうケースなのか?も知りたくもありますね。
それにしても、色付き髪のカワイイ系の美少女と黒髪ロングの正統派美人・・という組み合わせは日本の少年漫画の主人公に絡む女性のテンプレなんでしょうか?「翔んだカップル」以外にも「美味しんぼ」とか
ハイスコアガールとかいくつも浮かんできますが、単に漫画家さんが描きわけやすいから・・というだけなのかもしれません。
あ、聲の形は恋愛マンガなどではない!というお叱りとツッコミはどうかご容赦ねがいますね。
今回の考察は特に共感しました。
「パートナーシップ」、この言葉が石田と西宮の関係を的確に表現した言葉だと思います。告白のあとに西宮が東京に行きたいことを言って、石田が一旦は自分の願望とともに否定しますが、冷静になって考えて応援してあげるところなどデートごっこのときのような独占的な「依存」から抜け出し成長したところはまさにこのパートナーシップの関係になったからだと感じました。
ただ、個人的には二人で結ばれてほしいんですが、ファンブックや作者の考えからも、恋愛の要素ではなく、パートナーシップとはまた別の「生涯の友」というところにあたる気もしています。(日々草の件も含めて)
つまり、石田と西宮がそれぞれ別の人と付き合ったり結婚したりする可能性は充分にあるということです。
仮にそうなってもお互いがお互いに尊重するでしょうし、その後も友達として交流し続けるでしょう。
ただ、植野ファンの皆さんには申し訳ないんですが、植野と結ばれることはないと個人的にないと思います。
作者も反響から可能性を持たせる発言をしていますが、彼女自身まだ石田に対する「依存」を抜け出していません。好きになるのに理由はいらないとか、意識がない石田にキスしたりとか、本当に石田のことを理解して好きでいるようには感じられないですし、学生にありがちな恋愛のようなものだと感じます。
付き合う程度は今後あるかもしれませんが、むしろそれで熱が冷めて植野自身が自分から離れていくのが自然だと思います。
今後、彼女を真に救ってあげれるような人が現れてくれることを祈っています。
成人式終わって、再び会うイベントがあるなら、わたしは技能五輪がいいなぁ。理容師の部東京代表と岐阜県代表として技能対決。23歳ギリギリの年度に急成長した石田君と既に技能五輪入賞経験もある理容室のらねこの若手エースの硝子ちゃんの日本一の座を争って競い合い、認め合い、依存を超えた対等な立場に立った証の露払いとして理容師の腕を競う。昨年愛知県で開かれた技能五輪全国大会を見る機会がありましたが、若い子が自分が置かれた場所で最大限の力を発揮して切磋琢磨し合うの、純粋にいいものだと思いましたので。
大今先生自身、聾の形がヒットして、今から一流作家になるか、なかなか脱皮できないまま聾の形を焼き直しながら書き続けていくだけの作家になるかの真剣勝負の時だけに、このようなインタビューになったのだと読み取れました。
レッド・バロンさん、
指摘されたようなポイントは、「物語」を構成する典型的で普遍的なものなんだ、ということなんだろうと思います。
会いたい相手と会えて、気持ちも伝わってしまったら、それで「物語」は終わってしまうわけで、物語を展開するためには、思ったようにいかないことで苦しんだり悩んだりいろいろなことを試したりといったドラマが必要になってくるわけでしょう。
それは言い換えると、「エンディングのつもりで描いたのに続編が求められた場合、エンディングで想定されていた『大団円』を否定しないと『ドラマ』にならない」ということにもつながります。
聲の形も、読み切りで「ハッピーエンド」とした場面から連載版の物語を展開させるために、「あれは実はハッピーエンドではなかったんだ」というドラマが必要でした。
ですから、もし「聲の形」に恋愛物としての続編が登場することになったら、もちろん、「物語の必然として」、将也と硝子の関係は安泰ではありえません。
以前も書きましたが、硝子よりも先に将也の恋人の座を射止めるのが植野である可能性は十分すぎるほどありますし、一方で硝子にも別の関係が絡んでくるでしょう。
ただ、それらはすべて「続編を面白く展開させるためにどんなドラマが必要になってくるか」という議論としてあるものであって、「現時点で、完結している物語としての聲の形」では、植野は最終巻でどちらかというと将也への想いを吹っ切って新しい未来に向かう姿が描かれていますし、将也と硝子との間には誰も入れないような強いパートナーシップが生まれていますし、それが「聲の形のラスト」のいまある姿だと思います。
まあ、「公式ガイドブック」でちょっとニュアンスの違う回答を大今先生がしているのは、まさに上記のような意味で「続編への含みをもたせたもの」という部分も否定できないとは思っています。(もちろんそれ以外に、いろいろな読者の想像を邪魔しないようにという配慮もあると思います。)
faさん、
はい、「パートナーシップ」というのは実際そういうことだと思っています。
まあ、とはいえ、硝子は「うきぃ」と言っていますし将也は硝子の東京行きのときに硝子への独占欲みたいなものを露呈していますから、実際にはパートナーシップ「だけ」ではないはずです。
でも、なかなかそちらについては自認して素直になることができない二人なのかな、とも思っていますね。
植野についても同感です。
アクシデント的に二人が付き合う展開というのは、「続編」があるとすれば十二分にあり得ると思いますが、そのカップリングが平和なままずっと続くとは考えにくいです。
あらやんさん、
技能五輪なんていうものがあるんですね。
おっしゃるような展開は面白そうですが、大今先生はそういう典型的な努力熱血ものは描かない気もしますね。
恐らく、少なくとも将也についてはあらゆる面において「まあまあ悪くないけど傑出したところのない凡人」として描かれているので、理容師としての腕も平凡なものに留まる、と想定されているように思います。
あまりハッピーな展開ではありませんが、もし仮に、不幸にも大今先生の新作が打ち切りレベルでコケてしまった場合、「その次」が編集部の判断で「続・聲の形」になる可能性は無視できない、小さくないと予想しています。
公式ガイドブックの煮え切らない回答は、そうなる可能性に対する保険をかけているようにも感じられるのですよね。
そうですね。好きって明確に西宮は言ってますもんね(笑) そこは男女の差というか西宮と石田の違いだと思ってます。
後、この話に関連してずっと疑問に思ってることが二つあります。
一つ目は、西宮が飛び降りときに石田が硝子!と叫んだ理由です。その場の勢いだろ!と言われればそれまでなんですが、ここの考察にあるようにここまで伏線を張りまくってる作者からは何らかヒントがあっても良いかと考えてしまうんです。
7巻のp52で石田がなぜか西宮母の返答で詰まってるシーンが本当は下の名前で言いたいことを表現してるという考察も見ましたが、それだったら橋の上の告白から硝子呼びしててもいい気がするんですよね。(作者からすれば恋愛関係にないからなのか....)
二つ目は、ファンブックのその先の未来のことです。当初は7巻最終話からの未来と捉えていたんですが、作者の語尾が~です、と言い切ってるのが、西宮が東京で一人暮らしをしてることと、川井が国立大に進むことの二つだけです。
当初の解釈だと成人式後、西宮は東京で就職することになってしまうので石田との進展は難しくなると思ってしまい、落胆してしまいました。
ただ、これだと川井が2年も浪人して国立大に行くことになるので最終話との整合性も取れなくなります。作者が~です、と言い切ってるのは61話と62話の間のことで、そのほかの~でしょうね、と言ってるのが最終話以降の未来ということで良いんでしょうか?
長々とすいません。このブログの考察も隅々まで見たつもりなんですが、実はここで書いてます!など教えてもらえれば幸いです。
お時間よろしければどなたかお願いします。
当時は、小金持ちつけた若い女の子の仲良しアクセを見栄張って彼氏からのものなのーってやらかす娘さんたちの普遍的な行動かと思われましたが、こちらのみなさんの考察を読んで、着地しきってない石田君と硝子ちゃんの恋愛の伏線なのかと新しい発見がありました。
いちばん好きなお話は、姉妹です。いもうとがからかい半分で発音訓練の先生役しながらあの、ねーちゃんのうきぃっていう一世一代の告白コケたのをからかうこと。
まず、花火大会での将也の「硝子!」呼びですが、これについてはシンプルに、将也は硝子のことを下の名前で呼びたいという気持ちをずっと持っていて、でも遠慮してそう呼べないという状態だったんだと思います。
実際、結絃のほうは下の名前で呼んでいますし、7巻ではまた遠慮している描写がありますね。
でもその遠慮が、あのぎりぎりの瞬間だけは消えた、ということなんだろうと。
硝子のことを誠実に想う気持ち(それが恋愛感情であっても)と、下の名前で呼べないという遠慮が同居しているのも、別に不自然ではないと私は思います。
ファンブックの将来像のなかで、断定しているものとはぐらかしているものがあるのは、時制の問題ではなくて大今先生が設定としてはっきり持っているものと、そうでないものの違いではないかと思います。だからタイミングはずれていても別にいいかと。
あらやんさん、コメントありがとうございます。
そうですね、成人式の場面ではまだ将也と硝子は恋愛「関係」と外に見えるような状況にはないでしょうから、植野としては軽くカマをかけてみたというところもあるようには思いますね。
はじめまして。
『映画 聲の形』を観てこの作品にはまってしまった後追い世代です。(歳は結構食ってますが…)
2人の恋愛に関しては管理人様の深い考察と他の方の秀逸なコメントで語り尽くされている感がありますが、後追い世代なりに感じたことを申し上げます。
まず原作の最終回で目につくのが手話での会話場面が極端に少なくなっていることで、代わりに目を引くのが2人が「表情」で交わす会話です。
特に7巻p187でのセリフも手話もない、表情だけで描かれている場面などを見ると、2人の間には、いわゆる「あ・うん」の呼吸といわれるような、より深い信頼関係が構築されているように思います。
このような場面は2人が高校生の時には描かれていなかったかと思われるので、これだけ見ても高校卒業後の2年間で、(実際的な恋愛関係はともかく)心情的な距離感は相当縮まっているのではないのかなと思えます。
(最も「あ・うん」の呼吸なるものには、新たなディス・コミュニケーションを生む危険性も孕んではいますが…)
では、作者がファンブックで語ったところの「(最終回で)2人に恋愛感情がないとは言いきれないけれども恋愛関係にはない。」という、何とも歯に物が挟まったような言い方をされているのはなぜなのかを考えると、これは作者がこの作品に込めた想いと、読者の心情を慮ったギリギリのところでの回答だったのではないかなと思います。
作者も言われているとおり、この作品のテーマは「コミュニケーションの成立の困難さ」であり、「恋愛」などはそれを際立たせるための手段として、この作品の中では「障害」や「いじめ」などと同列にあるように思います。だから作者としては手段の一つに過ぎない恋愛だけを完結させるような必要性は感じなかったのではないかなと思います。
ただ、読者からするとどうしても2人の恋愛関係に目が行ってしまいがちで、作者としても職業上そこは無視できない、というギリギリのところでの着地点があの最終回であり、また曖昧模糊としたあの回答なのではないかなと思います。
以上、長々と分かりにくい駄文を連ねて失礼しました。
恋愛についは作者さん、石田×植野の方で「十分にチャンスがある」と書かれてましたね。
続編を書く気なんてなかろうかと思いますけど、もし書くなら今度は植野を主人公にしそうだなぁと思いました。
昨年9月か10月ごろにコメントさせて頂いたエドという者です。
その時に、将也・硝子の将来(結婚に至る過程)についての小説をネットに発表したいと書きこみましたが、なかなか小説化するのが難しい(というかなかなか面倒な(笑))作業になりそうなので、その論旨だけを書きこましてもらい、自分の妄想に一区切りをつけさせてもらおうと思います。
こんな私的な中身でコメントさせてもらうのは気が引けますが……すみません。
超が付くほどの長文です。
もし、よろしければ、お読みください。
①成人式後、硝子はどんな理髪師になっているか?
私は東京でしっかりとした技術やセンスを持った理髪師になっていると思います。
東京に導いてくれた師匠の下、その店でしっかりとお客様の髪を切る、センスある理髪師になっていることでしょう。
②では、将也はどんな理髪師になっているか?
将也の大きな特徴は、手話が使えることです。これを中心として、福祉産業も絡んだ理容師になっているのではないか、と思います。調べてみると、ケア理容師という福祉施設・障碍者施設・在宅でヘアカットするという知識を持った理容師が存在するそうです。
(完璧には調べたものでは無いので、もし興味がございましたら、お調べください)
将也の人生は「全部見る」「全部聞く」という理念に基づいて生きることになると思います。
まさに、彼の周りには、障害を持った人、介助が必要な人、以前のゆずるのような不登校児、その他、このブログでいうマイノリティな人々が集っていく、そんな理髪師になると思われます。
③西宮硝子の限界
ここからが本題です。上記のような理容師になり、そこそこ(成人式から2・3年後くらい?)経験を積んだ時、西宮硝子に限界が訪れます。
それは、技術的ではなく、お客様とのコミュニケーションです。普通のお客様とは、周りのスタッフのみなさんに支えられ、会話できますが、かつての自分のような自尊心が弱い、自分を表に出せない人との関わりはどうでしょうか?
硝子は、耳が聞こえない、声をうまく伝えられないため、そんな人の本当の気持ちを引きだし、最高のコミュニケーションとヘアカットを提供できないでいる(もしくはそう思い込んでしまう)状態になるのではないか?
私は、そうなってしまうと思います。
かつて、将也の母が自分にしてくれたように、一番望んだヘアカットをしてくれる。
そんな風になれない自分に硝子は悩む気がします。
④硝子と将也の理髪師としての特性
③のように思い悩んでいるなか、硝子は時々故郷に帰ってきます。将也や将也母に相談してみようかと思いながら。すると、硝子は将也が②で描いたようなケア理容師になっている姿を見ます。
「全部見る」「全部聞く」将也はあらゆる人の声を聞こうとします。それは自尊心が低く、自分をうまくだせない人の声も。そして、将也はそんな人の声をも引き出していきます。
そう、それは高校三年生の時、将也が硝子の見て、声を聞いて、硝子の命と心を救ってくれた、あの時のように。
この瞬間、硝子は、自分の代わりもしくは補助をしてくれる、最も信頼できるお客様の声の聞き手は、石田将也なんだと感じてしまいます。
それは、将也が硝子の声を聞き、救ってくれた、その事実が最も信頼できるからです。
この二人の理容師としての特性は、
硝子……強い向上心とこだわりある技術の持ち主
将也……「全部見る」「全部聞く」を中心としたコミュニケーション
互いに欠けている部分を補い合う、だがそろえば、誰にも負けない理髪店ができる、
そんな二人だと思います。
硝子は将也に「自分の夢(あらゆる人の声を聞き、最高の技術を持つ店)には、将也が必要だ」と伝え、プロポーズします。
石田将也は、硝子の夢をかなえるパートナーとして、結婚を承諾します。
ここまでが、私の思う二人の結婚までの流れだと思います。
硝子は、その流れで、ヘアメイク石田に入り、将也によって増えていった客(マイノリティな人々が多い)を含め、様々な人の髪を切っていくことになるでしょう。
それによって、自尊心は満たされ、アットホームな雰囲気によって癒されるお客様を見て、多くの人を不幸にしてしまったという考えを乗り越え、幸せな人生を送ることになると思います。
では、硝子と結婚した将也はどうか?
彼はまだ、すべてが晴れたわけではないと思います。
いじめの報道などを見るたび、自分は幸運だった、普通はいじめた相手との恋愛なんて、うまく行き過ぎていると思うようになるでしょう。
かなり妄想が入っていますが、この可能性はかなり高いと思います。
そして、ここからが私が思う、この声の形の最後の本題だと思います。
⑤石田将也が本当に、自分の人生を肯定できる日はいつか?
これを考える前に、第一巻・第一話および番外編で、将也母が小学生・硝子の髪を切った日の事を思い返してほしいのです。
(ブログオーナー様やここに書き込まれた方は以下の事を指摘しているかもしれません。もしそうだとすれば、すみません)
もし、小学校5年生のあの日、島田たちが遊びに来ていなければ、どうなっていたか? を考えてみてください。
将也は1階で今週号の漫画を読んでいたのではないか、そう思います。
もしそうなっていれば、将也は将也母が硝子の髪を切る姿と、番外編の一連の流れを見ていたのではないか?
そうなっていれば、将也母は将也に、耳の聞こえない人との意思の疎通の仕方を教え、あのようなひどいいじめを将也はしなかったのではないか?
私はこの番外編のエピソードは、心温まる物語であると同時に、母と息子のディスコミュニケーションを描いているのではないか?
そんな風に思ってしまいます。
もしあの時、将也が1階にいれば、将也と硝子は小学校時代から仲良しだったのではないか?
まさにいじめが起こったのは紙一重のすれ違いだったのではないか。
これは踏まえて、将也が救われる日を妄想します。
将也が硝子と結婚し、将也母と共に、あらゆる人の心を癒し、確かな技術でヘアカットをして、十年が過ぎていきます。
そんなある日、へアメイク石田のお客で、かつての自分のような子供(小学校高学年)が遊んでいるのを見ます。
その子供が遊んでいるのは、耳が聞こえない女の子。
それを見た将也は、彼がいじめをしていないか、心配になって声をかけます。
だが、男の子はその耳が聞こえない女の子と手話で会話しています。
いつの間に、覚えたのかと驚く将也。それを聞いた男の子はこのように答えます。
「おっちゃんみたいに、ちゃんとその人と会話したら、楽しそうだから覚えた」と。
その瞬間、将也は自分が硝子と結婚し、あらゆる人の声を知り、ヘアメイクしていく人生そのものが、そしてその姿が、子供からいじめを根本から無くしていくのだ、と肯定できるようになります。
将也母が将也に教えることができなかった、耳の聞こえない子とのコミュニケーションの仕方。
それを将也は、その生き様で、周りの子供たちに伝えるのです。
これが、私が思う将也・硝子の一番幸せに至る道だと思います。
できれば、彼ら二人とかつての仲間には幸せになってほしいです。
以上が、私が読みたかった声の形の続きでした。
長文におつきあいくださった方、および管理人様に感謝いたします。
エド。
超長文のコメントありがとうございます。
ひとこと、コメントをお返しするなら、
「そのままショートストーリーにして書いちゃいましょうよ。」
ということですね。
このコメントを数倍程度に膨らませるだけで、ショートストーリーなら書けてしまいますよ。
私も自分なりにたくさん文章は書いているつもりですが、ここまで構想がまとまっているなら、少し集中して文章を書けば、必ず文章は仕上がります。
まとめたところで満足してしまうか、それをあえてもう一度掘り起こして、少し苦労して、自分が書きたかったものを形にするか、その差は大きいと思います。
…というのは、いちおうアマチュアなりの物書きとして、私が感じるところです。(もちろん、何か強制したいというわけではありません)
コメントありがとうございます。
ゆっくり時間がある時に、また書いてみようかと思います。
ありがとうございました。
エド
「30歳になってもモヤモヤしてる」石田君を救いあげられるのは植野さんしかいないと思います。
ていうか、30歳まで石田を見捨てられないのは植野さんくらいだろうなぁと(笑)。
石田くんに再会して数週間で告白までこぎつけた西宮ちゃんは、おそらく東京に行って少し時が経てば新しく好きな人ができていることでしょうね。
結弦公認の「ちょろい女」ですし・・・。
植野さんはそんな前科もなく6年間石田一筋で、疎遠になってまでも石田くんを想い続けていました。
やはり30歳になってまでもモヤモヤしてる石田くんの貰い手は植野さんしかいないことでしょう。
植野さんが結婚してあげるしかない。
そして結婚後は、植野さんはようやく西宮ちゃんと嘘偽りの無い友情(パートナーシップ)を結ぶことができるでしょうね。
もう嫉妬心などの感情を持つ必要もなくなりますしね。
西宮ちゃんの人生に必要なのは石田くんという彼氏でも恋人でも夫でもなく、植野さんという「自分の最大の理解者」が親友になってくれることでしょうから、これにて『聲の形』は理想的なハッピーエンドを迎えられることになります。
作者さんの描きたかった「嫌いあってる者同士の繋がり」の向かう先として理想的な結末かと思われます。
作者さんには是非そういった続編を書き、この作品を真のハッピーエンドに向かわせて欲しいものです。
ブログ拝見させてもらいました。
初コメントさせていただきます。
各キャラの心理描写やイエスキリストのモチーフ説やそれを裏付ける描写考察など大変的を得ているものも多くとても感動いたしまました。
>>フェイ
植野信者が全て希望的観測で都合よく解釈妄想していることがよく理解できました。
表面上の言葉をそのまま受け取って都合よく解釈しているに過ぎず、その裏にある真意や意図を読み取ることができていない。
あなたは西宮に対して石田を好きになるまでに費やした「時間」を主張されてますが、重要なのは長さではなく密度です。
石田と西宮が再開してから、橋の上の奇跡まで時間軸で考えれば、それほど長くはありませんが、この僅かな期間で石田と西宮の二人だけでなく、様々な止まっていた、失われていた時間が動き始め取り戻されました。
それはこれまでの5年間よりも遥かに密度の濃い、素晴らしい時間だったのは間違いないでしょう。
西宮が石田を好きになった理由についても、手話で自分に接してくれて、西宮が諦めていたものを懸命に取り戻してくれて、ゆづるも大切にしてくれたり、石田の献身的な誠意ある対応に心打たれるのは当然だと思われますが? 好きになって当然だと思われます。
これのどこがチョロインなのでしょうか?
それを言うのであれば、足が速いなどという学生時代に女子が男子を魅力に感じる典型的かつ短絡的な要素で石田の事が気になり、かつ運動会で肩がぶつかった程度で石田のことが好きになった植野の方がチョロインだと思われますけど。
また、一途さをあげられていますが、これは本人の口からそう言ってるだけであって、行動面では
本当に石田を想い続けていたのであればこの5年間の間に、自分から石田を捜して当時の事を謝罪したりできたはずですし、その時間はいくらでもありましたがそうしませんでした
交友関係においても、島田をはじめ不良そうな男子と名前で呼ばれる関わりあいをしていましたしね。
石田へのいじめについても
本意ではなかったとはいえ、助けることもせず、島田達に加担していましたよね。
一方で西宮は、自身が石田にいじめられていたにも関わらず、汚された石田の机を掃除してあげたり、石田と友達であり続けようとしました。
石田を助けず、いじめに加担した植野と
友達でありつづけようとした西宮
これがある意味で石田×西宮と石田×植野の勝敗を喫する重要なポイントになっていたと思われます。
西宮の障害者の立場としての弱さだけでなく、優しさや純真さ、そして強さが石田に「西宮しょうこ」という人物を深く印象付けていたのは1巻の描写からも分かります。
もしあの当時に、植野が西宮のようにいじめに加担せず石田を助けようとしたのであれば、石田×植野の可能性が高まっていたかもしれませんね。
残念ですが、あなたをはじめとした植野信者がどれだけ妄想を吐いたり、真実をねじ曲げようとあがこうが石田と西宮の絆はゆるぎませんし、真実は変えられません。
私、別にベタベタの恋愛ものとかラブコメが好き・・ってわけではありませんし、「恋愛濃度」に
ついては、別に原作通りで特別不満があるわけでは
ありません。
しかし、それにしても公式ファンブックのあれはなぁ・・というのが率直な感想。
というか、あそこまで「恋愛要素」否定するんだったら、なんで「ボーイミーツガール」の形式をとったの?という素朴な疑問が湧いてきます。
同性同士の友情物語で良かったのではないの?と率直に言って思ってしまいした。例えば、こんな感じの。
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=62583864
そうすれば、私のような頭の中が色恋まみれの読解力のない意識の低い読者が湧いて出てくることもないでしょうに・・と思ってしまうのです。
あと、硝子ちゃんの美少女ぶりもなぁ・・。
こちらでは硝子は美少女ではない・・との考察もあるようですが、私の目にはどうみたって典型的な美少女にしか見えません。
孤独な少女・・どころか、どうみても過去に彼氏2、
3人いたでしょう?といいたくなるような。
いじめられてたり、自己肯定が低すぎる人間に見られる暗さがまるで感じられない容姿に思えるんですよね、私には。
ポニテ硝子なんてこれで落ちないオトコがいるのか?という(石田除く(笑))。
いえ、本来ならマンガ・アニメ、フィクションにこんなチャチャ入れは無粋もいいところなのは百も二百も承知ですけれども、ああも「あれは恋愛じゃない、これも・・」と言われると、ついつい「ありゃなんだ?」といった感じで疑問がわくのですね。
この作品が「ボーイミーツガール」ものの形式をとっている意義、意味って何なんでしょう?
これが私の「聲の形」最大の謎・・ですかね。
ほとんど同じ解釈をしていました
恋愛感情を封印してるだけで石田くんは西宮さんが最初から気になってます
転校してきたその日からいわゆるボーイミーツガールです興味ない嫌いだ気持ち悪いといいつつも過剰に反応しすぎです
高校生になります会いに行ってコミュニケーションを試みる(下準備に手話を覚える半端ない努力)
かなり必死です
その後の行動も照れたり焦ったり誤解されないようにしたり過剰に反応してます
ストイックに恋愛感情がないなら0%なら贖罪したいだけなら謝ってその場から消えるべきです
ストーカーじゃないですか?
付き合いたいとかキスしたいとかじゃないけど相手のことをもっと知りたい話をしたいって恋愛の始まりだと思います
自己を犠牲にして相手を助けたり、東京行きを必死に心配したり恋愛を飛び越えて愛ですよね
何より作中の妹や石田母、植野さんは石田くんが好きなの見抜いてる
一緒に東京行けばいいじゃんって思ってる
自分よりまわりの人の方が気づいてるってありますよね
作者も陳腐な恋愛ストーリーと思われたくないから封印してるし作中の石田くんも過去の罪の意識から封印(でも西宮さんのことで頭いっぱい)してるだけできっかけさえあれば気づくのではないでしょうか
西宮さんに軽々しく触れないし
病院を抜けだした橋の上で泣きじゃくる西宮さんに両手を伸ばして抱きしめるのかて思いきやポンッと肩に手を当てるだけのところは作者の封印設定と石田くんの封印意識がギリギリで働いてる感じがします
他にも多々ありますが管理者様の解釈と似ているので省きます
まとめると好きだの付き合いたいだのないですが純愛ストーリーだと解釈しております
作者と編集者の大人の事情まではわかりませんが
長文失礼いたしました、似たような解釈の方がいて嬉しく思います
もやもやを言葉にして頂けた気分で心がスッキリしました!
ありがとうございます。
まったく同感です。将也は家族や親友以上に抱く「特別な感情」を経験していないからなのか、ちゃんと思いを自覚や認識してない感じがします。「傷つかないか心配で仕方ない」「いじめた相手だから気兼ねしている」とドキドキして慎重に話をしてはいるけど、そのドキドキに過去の自分の過ちに紐付けしてしまって”好きだから”に至れない。7巻まではそんな感じで、その後も自分の思いの変化にも鈍感なまま硝子を大切にしているのかな、と。
劇場版の『聲の形』が8月25日にNHK・Eテレで放送されますね!映画が観れなかったので楽しみです。
拙文失礼しました。
私はNHKの映画放送で視聴してから原作後追い組です。
最後ファンブックまで見たところで、原作者の単なる恋愛物にさせてはなるものかという意固地なコメントが不自然でたまらず、不満でしたが、管理人の見解を見て私も同意見で、納得できました。
将也の気持ち、行動に硝子に対して恋愛感情がなかったとは思えない描写あれだけしてるのに、、
結婚の描写までは求めないまでも、二人の気持ちが報われるかたちの描写が欲しかったですね。
あとは読者の想像におまかせ丸投げで終わらせておいて、あのファンブック作者インタビューは正直いろんな意味でいらなかったです。
管理人さんの見解で救われた感じ、あとはその後ss読んで納得するしかなかった。
それぐらいいい作品なのに、最後後味悪い作品になってしまった。
一応は漫画、映画、ファンブックと目を通してます。
管理人様はじめ、多くのコメントも拝見しましたが、どれもワクワクするような内容で楽しませていただきました。
私自身も「将也と硝子の今後」について想いを膨らませては一人でニヤニヤしていますが・・・(笑)
一番良いのはやはり作者さんに続編を書いていただくことかなと。
そのためにはそれ相応の何かがなければ決して実現はしないと思いますが、勝手ながら考えてみました。
まず、「聲の形」は漫画、映画ともども大ヒットとなり評価も高いことはご存じのとおりですね。
しかしながら、特に映画については「君の名は。」とバッティングする形になってしまい本来ならばさらなる集客があってもおかしくはないはずです。
つまり、まだ見ていない、まだ知らない、新規ファン獲得が見込めるのではないかというのが一つ目。
それと、作者さんの次回作が「聲の形」を大きく上回る超大ヒットして作者自身のファン層が拡大する。
そして、そのファン層はやがて「聲の形」に目を向けることとなりこれまた大反響となるが二つ目。
ところが、次々回作以降に陰りが見えやがては出版社の意向に沿った題材ばかり扱うようになり主導権は完全に出版社側に移る。
自分の意見がどうにも通らなくなってきた作者は原点である「聲の形」に立ち返ろうとする。
そのころには「聲の形」を見た新たなファンが相当数まで拡大しており、中には続編を望む声も多い。
出版社としても状況からして続編は望むところとなり、各方面からタイアップの申し込みも相次ぎ漫画、映画の両面から強力サポート体制が整うで三つ目。
こうして続編プロジェクトは大きく前に進むこととなり、もちろんそこでは二人の恋愛もしっかり描かれており完全な形で終結することになる。
以上です。
いかがでしょうか(;^_^A
「俺とお前、友達に・・・なれるか?」がテーマだった石田くんと西宮さんの関係が終結したように、ね。
>>shoji
>重要なのは長さではなく密度です。
その通りだと思います。
でも2~3巻目をちゃんと読み込めば分かる事なのですが、西宮さんが石田くんに告白するまでの期間というのは長さも短ければ密度も低いんですよね。
なぜ密度が低いのかというと、あの期間に西宮視点で見えていた石田くんは表面上のものに過ぎないという事に起因します。
あの期間、西宮さんは石田くんの献身的で誠意ある対応の裏に隠された本心など何も知らない状態なわけです。
よくわらかないけど過去一番嫌いだった男がいきなり手話覚えてきて会いに来てくれた!
しかもよくわからないけど自分にめっちゃ優しい!好き!
こんなところでしょう。
でも実際は、石田くんは自己満足の贖罪のために西宮さんを利用していたにすぎません。
ようするにですね、西宮さんが好きになった「石田将也」という人間は幻想に過ぎず、どこにもいなかったんです。
ですから物語が後半になるにつれて、お互いの相互理解が深まるほど西宮側の恋愛感情もなくなっているように描写されているわけです。
西宮さんが石田くんを「異性として好きでなくなった」ことは、むしろ距離が縮まった証と言えるのです。
一方の植野はというと、
小学時代のまだおかしくなる前の石田、人間不信に陥って他人の顔に×を付けていた高校時代の石田、そこから立ち直った石田。
石田の全部を見てきていますよね、その上で作者に「現在進行形で将也が好き」と明言されていました。