2015年06月14日

第52話にみる、硝子の「防衛機制」とは?

※このエントリは、第52話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、別のエントリで、硝子視点からみた将也が、汗もかかずいつもクールなイケメンに描かれていて、将也側からみた実態とはかけ離れている(笑)、という話題について触れましたが、第52話、あるいは第51話も含めて、硝子視点で描かれた「世界」をつぶさに見てみると、いくつか気づくことがあります。

まず1つは、将也だけでなく、あらゆる人が美形で善良に描かれているということ。

例えば、第52話に登場する植野のイメージ。


第6巻177ページ、第52話。

この笑顔の植野の写真、いったいどのシーンだろうと探してみると、なんとあの、遊園地回の朝、駅で出会っていい加減な謝罪をしたときの場面なのです。


第4巻24ページ、第25話。

周りで見ていた将也ですら「なんてテキトーな!」と呆れたこのシーンですが、今回、何と硝子の「素晴らしい仲間としての植野」を回想する場面として(硝子の意識のなかで)、このシーンが選ばれているわけです。
確かに、第4巻に戻ってこのシーンをよくみると、硝子は笑顔で応対していますし、さらに遡って考えてみると、硝子が植野と再会して以降、最初にまともに応対ができたのはこのときだったのも事実ですが、いずれにしても、硝子はこのシーンを悪意のあるものとしては受け止めておらず、ポジティブな場面として記憶していたことが分かります。

さらには、川井と真柴のシーンについても同じですね。
こちらも遊園地回、遊園地に向かって移動中の電車のなかですが、ここでも真柴や川井からはわりと差別的なことばを投げつけられているのですが、やはりこの場面も「いい思い出のシーン」として硝子にはポジティブに焼き付いていることが想定されます。

まあ、そもそも、将也との思い出ですらネガティブなものとして扱われていないところからして、硝子は、周囲との人間関係、まわりの人間からの自分へのかかわりについて、ものすごく肯定的、ポジティブに受け止めていることが分かります。

この連続エントリでは、こういった硝子の「ものごとを極度に肯定的に受け止める行動原理」について、少し掘り下げてみたいと思います。

なぜ硝子は、このような行動原理を身に付けるにいたったのでしょうか?

その理由の1つとして、以前硝子が手紙で植野に告白した「障害ゆえの状況把握の困難」ということがあるのではないかと思います。

私は今まで 自分の聞き取っていることに自信が持てず
自分が感じとっていることが 真実の上になりたっていることなのか判断できませんでした
私は 本当のことをみんなより遅れて知ることになってしまいがちで
誰かに何か 聞くにしても
笑顔を作り あたりさわりのない返事をすることによって 相手の気分を損ねないように取り繕ってきました



第6巻34ページ、第44話。

人間関係の非常に大きな部分はコミュニケーションによって成り立っており、そのコミュニケーションの大部分は音声言語によって成り立っています。
端的にいえば「目の前の人間が自分にどういう態度をとっているのか」を理解する、ということは、ほとんどの場合、「目の前の人間が自分になにをしゃべっているのか」と限りなくイコールに近いです。

ですから、相手の言っていることがほとんど分からない、ということは、「相手が自分に対してどういう態度をとっているのか、細かいところがほとんど分からない」という結果につながります
相手に対して何かの感情をもったとしても、それはまさに手紙の中にあるとおり、「自分が感じとっていることが 真実の上になりたっていることなのか」どうかがはっきり分からなくなってしまうわけです。

このような状況下で、もっとも無難な適応戦略は、これも手紙のなかにあるとおり、「よくわからないときは、とりあえず笑顔をつくって当たり障りのない対応をする」ということでしょう。
特に硝子の場合、障害がかなり重いため、ほとんど常に「笑顔をつくって当たり障りのない対応をする」ことを繰り返さざるをえなくなっていっただろうと思います

それは植野に批判されたとおり、「いつも作り笑いで本心を見せない」ように見えるかもしれませんが、硝子としてはそうするしかなかったわけです。

そして、このように「まわりの人がなにを言っているかよく分からないことがほとんどだから、いつも笑顔をつくって当たり障りのない対応をする」ということを繰り返していたことが、対人関係を極度にポジティブに受け止める硝子の認知スタイル、価値観を醸製していった1つの大きな要素だと思われます。

余談ですが、この手紙自体も、硝子の「対人関係に対する楽観性」が現れているように思います。
この手紙のなかで、硝子は多少飾っている部分もあるものの、かなりホンネを語っています。
その後の植野回などを振り返ると、植野はこの手紙のきっかけになった観覧車ビンタ事件ではどちらかというとカマをかけた側面があり、決して100%のホンネでぶつかったわけではなかったのですが、硝子はその植野の態度を誠実だと受け止め(ビンタされたのに!)、これまで語らなかったホンネで返しているわけです。
この手紙自体も、硝子が性善説にたって人を素直に信じていることの現れだといえるでしょう。

そして、その手紙は、将也転落で逆上した植野によってひどい使われ方をしたわけですが、それに対しても硝子は怒っている様子はなく、自分の責任だと受け止めているようで、そこまで含めて、硝子の「行動原理」が透けて見えているようにも思います。

ここで、心理学でよく言及される、「認知的不協和理論」というものをとりあげたいと思います。

以下、しばらくまんがを離れた心理学の一般論になります。

「認知的不協和理論」とは、ヒトが何か矛盾する認知を同時に抱えると、ストレスがかかった状態になり、その状態を解消するために態度や行動を変更する、という考え方です。

たとえばある人が、「私はタバコを吸っている」と「タバコは体に悪い」という2つの認知を同時にかかえたとします。
そうすると、これらは「矛盾」しており、この状態を「認知的不協和」と呼びます。
このような状態が続くとストレスになるので、その人は例えば次のように態度や行動を変化させて、「不協和」を解消しようとします。

・タバコを吸うのをやめる。
・タバコは別に体に悪くない、と考える。
・タバコより交通事故とかのほうが危険だから、タバコはまだマシ、と考える。
・運動を始めて、タバコのマイナスを運動のプラスで穴埋めしようとする。


考えてみると、第4巻で硝子の父方の家族が、硝子の障害を母親や硝子自身の「因果応報」に求めたのも、この「認知的不協和の解消」という観点から説明ができます

・私は障害に対しケガレ意識や差別感情があり、身の回りからは排除したい。
・自分の身内に障害者が生まれた。


この2つの「認知」は矛盾しており、認知的不協和が発生しています。
これを、

・障害に対する差別意識を持つことをやめる。

で解消すれば「障害の受容」となるわけですが、硝子の父方の家族は、

・障害の原因を母親や本人にだけ求める。
・硝子と母親を家族から排除し、「身内」ではなくする。



第4巻171ページ、第32話。

というやり方で、心にある障害への差別意識を温存したまま、認知的不協和を解消する行動に出たということになります。

さて、少し脱線しましたが、次のエントリで硝子の問題に戻りたいと思います。
私は、硝子もまた、対人関係において認知的不協和の状況におかれていた、と考えています

さて、脱線しましたが、ここで硝子の話題に戻ります。

硝子は、小学校時代からずっと、対人関係のなかで、これまで説明した状況と同じような意味での「認知的不協和」の状況に陥っていたと考えられます。

硝子にとっての「矛盾する認知」とは、次の3つです。

・私は相手に笑顔を作って肯定的に応対している。
・普通は、相手が肯定的に接しているからこそ、私のほうも笑顔で応えるものである。
・にもかかわらず、私には相手の本心や態度がよく分からない。


本来、この不協和を解消する方法はいくつかありますが、障害のせいで相手のことがどうしてもよく分からないという状況に陥っていた硝子には、事実上次の選択肢しかなかったと考えられます。

・相手は好意的に接してくれていると信じる。

これによって、自分が「笑顔をつくって応対している」という行動との間で認知的不協和が生じなくなります。

相手の状況がよくわからず、いつも作り笑いで当たり障りなく応対することを繰り返さざるを得なかったことが、結果として硝子がいつも「相手のことを極端に好意的、肯定的に受け止める」という認知傾向を形作った、と言えるのではないでしょうか。

これは「ブラック企業とやりがい」という、認知的不協和の解消がそのまま「価値観の変容」につながる典型例と、ある意味とてもよく似ています。

劣悪な待遇で過酷な労働をさせる企業(ブラック企業)の従業員がいたとして、その従業員は、以下のような認知的不協和の状態におかれます。

・私の労働は過酷で重労働である。
・私の待遇は劣悪であり、労働に見合っていない。


労働組合もなく、別の仕事も見つからない従業員にとって、この認知的不協和を解消する手段は、

・私の労働にはやりがいや夢がある。
・私は仕事を楽しんでいる。


という、精神面でのメリットを強調して認識することくらいしかありません。
そして、この「認知的不協和の解消方法」はブラック企業にとってもメリットがありますから、企業サイドもそういう価値観を推進します。

そういう状況が続くと、従業員自身が「労働は待遇だけじゃない、やりがいや夢が大事なんだ」「厳しいけれど楽しい仕事」といった「妙な前向きさ、ポジティブさ」をもった思考に、価値観が変容していきます。
ブラック企業と言われる企業が、しばしば「やりがい」「夢」「家庭的な雰囲気」を強調し、従業員が妙にポジティブな価値観に動かされているように見えることと、「聲の形」の硝子が、決して恵まれていないはずの人間関係に対して妙にポジティブな価値観を持っていることは、実はとてもよく似ていると思います。

というわけで、硝子が対人関係に対して妙にポジティブな価値観を持っているように見えるのは、逆に、対人関係においてストレスフルな環境にながくおかれ続けたことによる、認知的不協和解消のための価値観の変容という側面があるのではないか、ということを書いてきました。(いや、文章難しいですね。すみません…。)

それに加えてもう1点、硝子の「ポジティブな対人認知」について同じような意味での特徴があるように思われます。

それは、

硝子は、自分がされた嫌なことについての記憶をほとんど忘れているのではないか。

ということです。

今回、第51話と第52話で硝子の内面や過去の回想が描かれましたが、硝子の人格形成に大きな影響を与えたはずの過去のいじめ(水門小のいじめだけでなく、その前の第二小や、さらにその前もあったかもしれません)の場面はほとんど描かれず(池ポチャ事件の回想時の豆粒のような後ろ姿のみ)、また、きっと辛い思いを繰り返したであろう、西宮母からの「障害を倒して普通にならなければならない」というプレッシャーについても、描写はありませんでした。


第6巻175ページ、第52話。

これは、ページ数の都合で省かれた、という考え方もできるのですが、第52話の異様なまでのスローペースを見てしまうと、もし作者がそれを描きたかったら、いくらでも描くスペースは作れただろうと思えますので、作者はあえてそれを描写しなかったと考えるべきでしょう。

一方で、現実とは異なる、硝子が手に入れたかった小学生のころの幸せな生活の空想シーンや、高校になり将也が取り戻してくれた、そこそこ幸せな現実の生活の回想シーンは、大きなスペースを割いてしっかりと描写されています。


第6巻158ページ、第51話。

このような描写のアンバランスさはすなわち、硝子にとって、過去のいじめ経験や周囲からの「障害を乗り越えろ」というプレッシャーによる辛い経験などは、「ほとんど思い出すことのない小さな存在」であり、逆に過去の夢や最近の仲間などの楽しい経験は「しばしばはっきりと思い出すような大きな存在」である、ということを示しています。

ただ、このように楽しいことはよく覚えていて辛いことは忘れる、というのは一般的によくある傾向ではありますが、硝子の過去の経験を考えると、ちょっとアンバランスが過ぎて「聖人」のようにさえ見えます。

先にふれた「妙にポジティブな対人認知」に加え、このような極端な「良い思い出だけの記憶の選別、偏り」をみると、硝子はこれらのメンタリティをもつことによって、精神的なバランスを辛うじて保とうとしてきたのではないか、ということを考えずにはいられません

さて、ここまでで、硝子が、対人認知を実態以上に肯定的に認知することで、障害ゆえに相手の真意がよくわからない、というストレス状況を乗り越えてきたと考えられること、また、辛いいじめ経験を乗り越えるために、過去の記憶のうち、辛い経験の大部分を思い出さないような形で、「記憶の選別」をしていると考えられることについて触れてきました。

前者については、「認知的不協和理論」と呼ばれる考え方で説明できますし、後者については、(あまり理論的なものとして語るのは好きではないですが)精神分析における「抑圧」ということで、嫌な記憶は無意識のうちに意識上にあがってこないように操作され、「楽しかった過去の記憶」と「実際には起こらなかった楽しい空想」ばかりが表に現れてくるようになっているのだ、と考えることができます。

これらがあいまって、硝子の言動を外から見たときに、「聖人のよう」「こんな人はいない」といった評価(ないし批判)が与えられるような「硝子像」が形成されているのだと考えられます。

実際、以前のCocohanaのインタビューでも、大今先生は硝子の人物像について、「優しいとか強いとか弱いとかでああしているのではなく、彼女なりにいろいろ考えた結果、ああするしかなかったんだ」といった趣旨のことを言っています。
硝子の「聖人性」というのは、ステロタイプな「善良で誠実な障害者像」として描かれているのではなく、「硝子が身に付けた、生きのびていくための鎧」なのだと思っています。

硝子が身に付けた、この「鎧」は、結果としては適応的な態度になってはいるものの、健全な対人認知の発達だとは必ずしもいえません。
むしろ、対人関係において常に五里霧中のストレスフルな状況におかれ続け、実際にいじめられる経験を重ねたことによって、心を守るために発達した硝子の「防衛機制」である、と考えたほうがいいのではないかと思っています。

ですから、今後、硝子の側の「成長」がさらに描かれるのだとしたら、この「聖人性」の鎧を「脱いでいく」方向になるわけですから、硝子はこれから「聖人」ではなく、嫌なことをされたら嫌だと思い、ネガティブな態度をとられたときには不快に感じてそういう反応をする「普通の人間」に変わっていく、ということが(残りボリュームは限られていますが)描かれていくのかな、と思います。

そしてそれこそが、硝子を縛る防衛機制から自由になるという意味での「成長」となるわけです。
もしかすると、将也の過去のいじめに対しても、はっきりと「傷ついた」といって怒ったり悲しんだりする硝子、というのも見られるかもしれません。
posted by sora at 10:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 再構成版・第6巻 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 西宮硝子の苦しい苦しい経験から得た「防御」なんだなあ~と思いました。
 ただ、普通であれば、精神的な病に陥っているのでは?とも思う。

 
Posted by nothing_man at 2016年09月21日 00:01
ずっと硝子に抱いてきた疑問が解消出来ました!あのオーバー善人っぷりは「仕方なく」形成されたものだったんですね。ただ単純に批判している人たちに見せてやりたいと思いました。
Posted by 名無しの権兵衛 at 2016年09月23日 00:34
「ああ、やっぱりそうだよなぁ」って思いました。
私の場合、難聴で子供時代を過ごすとき自己防衛機能
(?)として身に着けたのが「意識の切り離し」でした。

家族や仲のいい人以外(つまりパーソナルスペースが
遠い人)がいると、石像のように固まって一切声を
出さない子供でした。いわゆる場面緘黙症です。
これが幼稚園~小4まで続いていました。

今でも聞こえてくる声の情報で、頭に入るのは2割
程度、8割は言葉の理解が追いつきません。
6巻の硝子視点の聞こえ方ほんとにあんな感じで
ほとんどクイズを解くのに匹敵する難易度ですね。

だから業務上必要な情報以外は、不要と割り切り
適当な反応で流すようになりました。じゃないと、
頭がパンクします。
硝子の心境、痛いほどわかる・・・
Posted by 妖怪七変化 at 2016年10月25日 14:34
皆さん、コメントありがとうございます。

原作では、この回以降、硝子は(18年を生きてやっと)ありのままの自分とそれをとりまく環境を肯定的に受け入れることができ、それまでの愛想笑いとは異なる本当の笑顔を見せることができるようになりました。

それは、硝子が、このエントリで書いているような防衛機制で自分を守らずに生きていけるようになった、ということも意味していると思います。

「聲の形」は、将也にとっての再生の物語であると同時に、硝子にとっても文字どおり「生きなおす」物語であったのだと思います。
Posted by sora at 2016年11月02日 20:40
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック