ここでとりあげようと思っているのは、私が「後者」だと感じる、典型的な意見のなかの1つです。
いわく、「この作品に出てくるのはクズばかりでみんなひどいことをやっているのに、手ひどい罰を受け、償いをさせられているのは将也ばかりで、不公平だし不正義だ」といった批判です。
これと連なる批判として「将也は植野とか島田に報復し、植野や島田らは自分の過ちを後悔し反省・謝罪すべきだ(そういう展開にならなかったのはおかしい)」といったものもあると思います。
確かに、作品を振り返ってみたとき、たとえば「いじめ」という行為ひとつをとってみても、作品内で「いじめ」を行なっていたといえる登場人物はけっこうたくさんいます。
・将也(硝子に対して)
・島田(将也に対して)
・広瀬(将也に対して)
・植野(佐原、硝子に対して)
・真柴のクラスメート(真柴に対して)
でも、このなかで、その「いじめ」という行為に対してはっきりとした罰が下っているのは将也だけです。
将也だけがひたすら贖罪を続け、それでもあまり報われずに生命の危機にすらさらされることになります。
しかも、それだけの罰を受け、贖罪を続けながら、将也だけが硝子に「謝罪」しています。
一方で、執拗さと期間の長さからすれば将也の硝子いじめを上回ると考えてもおかしくない、島田による将也いじめや、佐原を不登校に、そして硝子を転校に追い込んだ植野は、少なくとも「いじめ」を直接の理由とする罰は受けていないと言ってもいいでしょう。
特に島田・広瀬については、島田は「のうのうと」音楽に生活をささげてフランス留学まで決めていますし、広瀬も「のうのうと」彼女を作って結婚、子どもを作って幸せそうに生きています。そういえば、真柴をいじめていたクラスメートの男女も同じような感じでした。
また、小学校の学級裁判で将也をスケープゴートにして自らの地位保全をはかった竹内や、硝子の障害をあしざまに罵って西宮母を絶望させ、さっさと離婚して逃げてしまった西宮父とその家族なども、やったことは相当ひどいにも関わらず罰らしい罰は下っておらず、やはり「のうのうと」生きているのだろうと思われます。
これらの「将也以外の加害側」と呼べる人たちのうち、後悔や謝罪が描かれているのは植野だけで(それにしても謝罪は部分的で、将也昏睡中のモロモロとかは隠してしまっていますし)、島田を初めとするその他の人たちはみな後悔も反省もなく生きています。
むしろ、そういった人たちを将也のほうが「許して」いるようにさえ見えるわけです。
このように、聲の形という作品では、将也とそれ以外の人間を並べて比較した場合、「罪」と「罰」のバランスがまったく取れていません。
それは間違いのない事実で、将也だけが罪に対して過重なまでの罰を負い、逆に将也以外は罪がいくら重くてもあまりそれに見合った罰が与えられていないのです。
リアルであれ虚構であれ、ある世界のなかで、善と悪が公正に裁かれることを期待する立場からは、「聲の形」というのは、実に不正義、不公正な物語の展開をしているように映るのだろうと思います。
でも、それは「物語の構成が下手でバランス感覚が悪いから」そうなっているのでしょうか?
私は、そうではなくこれは「意図的なものだ」と考えています。
将也は、この作品の中で、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。
将也は、この作品の中で、ある意味「ただ一人」、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。
一方、
各登場人物には、この作品の中で、最終的に救いがもたらされます。
各登場人物には、この作品の中で、最終的に「ほとんど全員に」、救いがもたらされます(あるいは、最初から「罪」などなかったかのように生きることが「赦されて」います)。
ここに、対応関係があることがわかるでしょうか?
罪を負い、それを償うのは、将也ひとり。
罪を負ったけれども、その罪が赦され、救済が与えられるのは、登場人物みんな。
この対応関係を解釈する方法は、2つあります。
1つは、
この「こえかたワールド」は非常に不公正、不正義な世界であって、将也はささいなことで罰を受けまくってひどい目にばかり会うのに対して、将也以外はひどいことをやっても最初から許されて、罰を受けることもなくのうのうと生きていけるようにできている。
という考え方。
これに対して、もう1つの解釈とは、
この「こえかたワールド」では、本来は、すべての人の罪に対して同じように罰が与えられ、その罪を償うことが求められる公正性のバランスのとれた世界である。
でもそこに「将也」が現れ、他の人の罪までひとりで引き受けて、まとめて罰を受け罪を償って、他の人の罪まで救済してしまった。
将也以外の人は、そんな「将也」の救済に気づかず、自分は罪もなくのうのうと生きていられるのだと錯覚している。
となります。
聲の形の世界において「将也ばかりが罰を受けている」という認識を、宗教的な1つの世界観によって視点を変えて、「将也がみんなの罰を代わりに受けている」ととらえると、その世界が変わって見えてきます。
なお、このエントリは、このあたりから非常に宗教的、観念的な議論に入っていきます。
別エントリの「インガオーホー」論は、あえていうならば「聲の形」の世界観の仏教的側面にスポットライトを当てて読み解いたものでしたが、こちらのエントリでの議論は、「聲の形」の世界観のキリスト教的側面に注目したものになる、と言ってもいいかもしれません。
私自身は、リアル社会の価値観としては、必ずしもこういった宗教的価値観に共感するものではありませんが、作品の「読み解き」としては、ここは外すことができないと考えています。
なぜなら「聲の形」には、さまざまな宗教的世界観・価値観が間違いなく流れていて、それは実は作品全体を貫く「裏テーマ」ですらあるのではないかと感じるからです。
ですので以下のエントリでも、作品全体を流れるこういった宗教的世界観について、しっかり掘り下げて考えていきたいと思います。
さて、通常の倫理観からすると、ある人の罪は、当然にその人当人に責任があり、それによって受ける罰はその当人が引き受け、そして自ら罪を償わなければならない、ということになります。
でも、この世の中では、誰もがそれができるほど強いわけではなく、自らの「罪」にちゃんと向き合って、そしてしっかり罰を受けながら罪を償っていける人ばかりではないでしょう。
そんな「弱い人」があふれる世界は、誰もが自らの罪を直視できず逃げ惑い、そしてなすすべもなく罰を受け続ける、救いのない世界だと言えるのではないでしょうか。
そんな「救い」のない世界に、「救い」をあまねく届けるための「答え」の1つ。
それは、自ら罪に向き合うことができず、その罪を償う強さを持たない者たちの罪を一身に背負い、受け止め、そしてそれらの者たちに代わって罰を受け、それらの者たちに代わって彼らの罪を償い、それによって「弱き者たち」に救いを届ける、そんな存在が現れることです。
そういう人物のことを、人は「救世主」と呼ぶでしょう。
つまり、前エントリでいうところの「後者の解釈」で聲の形の世界を読み解くとするなら、将也はこの世界の中で、自分自身のみならず、周囲にいるさまざまな人たちの罪を背負い、罰を受け、そしてその罪を当人に代わって償い、救いをもたらす、宗教的救世主として描かれている、ということになるのではないか?と考えられるわけです。
将也が「他人の罪まで背負ってそれを償い、救済を与える救世主」である、と読み解くとき、その「救い」が与えられたもっとも典型的な登場人物といえば、
西宮母
でしょう。
西宮母については、硝子が障害をもって生まれてしまった事情や、そこから発生した夫との確執、離婚については同情を禁じえませんが、それ以降に彼女がとった「行動の選択」からは、先に述べたような意味に近い、問題を直視できない「弱さ」を感じざるを得ませんし、さらにそのような弱さの結果として新たな「罪」を重ね、罰を受け続ける負のスパイラルに入ってしまっていることも明らかです。
西宮母が硝子を育てるにあたってとった子育ての方針とは、硝子がもって生まれた障害を「否定・否認」し、「障害を乗り越えて普通になることができれば認めてあげる」という「条件付き承認」を硝子に提示することでした。
そしてそういった子育てに否定的な西宮祖母や結絃といった家族の意見をすべて無視し、硝子のことを自分がすべて決める、という方針のもと、障害の重さからすれば相当に困難が予想される「普通級への就学」にもこだわり続けました。

第1巻65ページ、番外編。
一般的にいえば、西宮母は「障害に無理解な親」の典型例の1つといえます。
その結果、硝子は学校でいじめを受け続け、常に自己を否定し自殺念慮をもつような極めて自己肯定感の低い子どもに育ってしまいましたし、結絃は母親とのコミュニケーションを拒絶して不登校となりました。
西宮母自身も、家庭にも学校にもプライベートにも、どこにも味方がいないような環境に自らを追い込んでしまっていました。
もしもあのまま西宮家が将也と関わっていなければ、結絃は不登校のまま中卒後は行き場を失い、西宮祖母の死去を受け止める余裕もなく、硝子もまた、結絃や家族の人生を不幸にしてしまったことへの責任感から結局自殺していたのではないかと思わずにはいられません。
高校編スタート時までに起こっていた西宮家のさまざまな不幸は、遡れば夫からの理不尽な離婚とその際の暴言が出発点にはなっているかもしれませんが、直接的な「元凶」はやはり、西宮母自身のその後の行動選択にあった、と言わざるを得ません。
それは、繰り返しになりますが、西宮母が、自らの「弱さ」ゆえに重ねてしまったさまざまな「罪」(誤った行動選択)と、その結果としての「罰」(不幸な出来事の発生)の無限連鎖なのだと言えるでしょう。
このような流れを見ると、本来であれば西宮母が「弱さ」ゆえに犯してしまったさまざまな罪によって、西宮家は最終的に「一家崩壊」という最悪の罰を受けてもおかしくない状況にあったわけです。
そして実際、すべてのできごとはその方向に向かっていたように見えます。
しかも、西宮家の誰一人として、その流れを止めることができない状況にありました。
でも、そんな西宮母と西宮家の運命に、小さな、でも決定的な転機が訪れたのは、硝子を水門小の「普通クラス」に転校させるという西宮母の選択の結果、硝子が将也と出会った瞬間でした。

第1巻54-55ページ、第1話。
この「水門小普通クラスへの転校」という選択自体は、他の選択と同じく、障害を否定しようとする西宮母の強引な意思によるものであり、そういう意味では本来は事態を好転させるものではありませんでした。
実際、硝子は水門小でもクラスに溶け込めず、将也や植野からひどいいじめを受け、硝子は絶望し、最後は追い出されるように学校を出ていったわけです。
でも、そこに将也がいて、将也と硝子との間に「つながり」が生まれたことが、硝子、西宮母、そして西宮家全体の運命を、5年後に大きく変えることになります。
結果的に、「将也と出会った」西宮家の運命は、劇的に好転しました。
西宮母自身は「問題解決をする動きをしていないのに」、将也とかかわったことによって、最後はとても幸せな環境を取り戻すことに成功しています。

第55話、9ページ。
(ここでの西宮母のこのせりふは、本考察をふまえると非常に本質を突いています。
「あなたがどんなにあがいても…」のせりふもそうでしたが、西宮母は本作品の宗教的側面について、かなり自覚的なキャラクターだといっていいでしょう。)
そしてそれは、硝子にしても結絃にしても同じでしょう。
西宮家の家族は、全員が長い間にいろいろなことをこじらせていて、お互いがお互いに対して悪い影響を与えるような状態になってしまっていました。
もはや、誰がどんな罪を背負っていて、誰がどんな罰をいま受けていて、それらをどうやって償っていけば、もつれた罪と罰の糸を解きほぐして「救い」にいたるのか、まったく分からないような状態だったと言えるのではないでしょうか。
それが、将也がやってきて、それぞれが将也と関わったことで、なぜか全部解きほぐされて、全部解決してしまったわけです。
そしてそのプロセスで「罰」を背負い、贖罪に命を尽くしたのはほとんど将也だけでした。
逆に将也はその過程で、結絃にも(バカッター事件等)西宮母にも(ビンタ攻撃)いろいろひどい目に合わされていますが、怒ることも非難することもやり返すこともなく、ただただ淡々とそれらをすべて受け止めていきます。
そして、「西宮家全員の救い」という「結果」を、たったひとりで出しているわけです。
将也は、確かに他の登場人物と比べても極めてバランス悪く、ひとりでものすごい重さの罪を背負わされ、次々と不幸と苦難に見舞われています。
でもそれは、将也の罪だけが重く設定されているというよりはむしろ、
将也が、将也以外の罪まで引き受けて、そしてそれを贖って、将也以外の人間まで救済しているのだ。
と考えたほうが、よほどすっきりとこの物語を理解できるように思うのです。
では、将也が実際に「あらゆる人の罪を引き受け、その罪を償った瞬間」とは、いつだったのでしょうか?
それは、私は、
第43話で、硝子の身代わりになって川に転落した瞬間
だったと思います。

第6巻17ページ、第43話。
将也が物語の中で救世主的存在として描かれていると考えると、第43話で描かれた「度胸試し」、硝子の身代わりとなって将也が転落したことの意味は、違って見えてきます。
つまり、将也はこの場面で「転落しなければいけなかった」し、将也は転落によって「大いなる贖罪を遂に成し遂げた」ということになるのです。
以前も一度考察しましたが、このときの将也の行いは、キリストの「最後の晩餐」を思い起こさせるものになっています。
硝子は、自分の周りの人間が不幸になるのはすべて自分の呪いであるという考えをもち、映画メンバーも家族も含め、あらゆる人の罪と不幸を一身に背負い、それらを償おうとして飛び降りたのだ、といえるでしょう。
だとすれば、そんな硝子を受け止め救出して、代わって自らが身を投じた将也は、硝子の背負っていた「罪」を、さらに硝子に代わって引き受けて転落した、と考えることができるのではないでしょうか。
硝子は「すべての関係者の罪」を背負って飛び降りようとしたわけですから、その硝子の身代わりとなって転落し、硝子が抱えようとしていた罪も代わりに引き受けた将也は、「硝子の罪」に加えて、硝子を通じて間接的に「すべての関係者の罪」を引き受けて、身を投じたことになったと言えるでしょう。
みんなの罪
↓
↓ 背負う
↓
[硝子]+硝子の罪
↓
↓ 背負う
↓
[将也]+将也の罪
↓
↓ 償う
↓
[池の鯉]
このとき、転落した川の中には、鯉がいました。

第43話、17ページ。
別のエントリでも考察しましたが、この物語のなかで、鯉は「インガオーホー」の理(ことわり)を司り、罪ある者に罰を与え、それを贖った者に奇跡を起こす超越的存在として描かれている、と思っています。
将也は、そんな鯉のいる川の中に身を投じましたが、それは「鯉」に対して自らの肉体と血を捧げる(実際、将也は第43話の見開きで血を流しています)ことであり、これまでの罪をつぐなう最大級の行為であったと思います。
ちょうどキリストが最後の晩餐でパンとワインを「これはわたしのからだと血である」と言って分け与え、そして処刑され、その処刑により人々の罪が贖われ誰もが救済されたと信じられているように。
将也が硝子の身代わりとなって、鯉のいる川に身を投じて「罪」を償おうとしたとき、将也が背負っていたのは、
・将也自身の罪
だけでなく、
・自殺という過ちを犯した、硝子の罪
も一緒に背負っていた、と言えます。
そしてさらに、硝子自身が引き受けようとしていた、
・将也、硝子がかかわってきた、すべての人々の罪
も、硝子から引き継いで、一緒に背負っていた、と考えられるでしょう。
つまり将也は、この行為によって、自分自身のみならず「硝子を含む、すべての関係者の罪」を、彼ら・彼女らに代わって引き受け、そして償ったのだ、と考えられます。
そしてこの「贖罪」は、川にいた「鯉」によって受け入れられ、贖罪を認めた鯉は1つの「奇跡」を起こします。
将也転落の際に、島田と広瀬が「偶然近くにいた」という状況を作り出し、彼らに転落直後に将也を救出させることによって、将也は水没による呼吸停止で脳や心臓に致命的なダメージを受けることなく、純粋な「落下の衝撃」だけのダメージに留まってとりあえず一命をとりとめました。

第6巻152ページ、第51話。
これは偶然にしてはあまりにもできすぎていることからも、物語の中でも単なる100%の偶然ではなく、何らかの大いなる意思の働いた「奇跡」である、ということが示唆されているようにも思われます。
ただし鯉はここで、将也をすぐに完全復活させることはありませんでした。
将也が与えようとしている「救済」について、それを「与えられる側」にその準備はできているのかを、しばらくじっと見守っていたのです。(それに加えて、将也が償うことができなかった「罪」が1つ残っていた、ということもあります。これについてはあとで説明します)
第6巻の各自視点回(さらには、結絃視点の最初のほうの回も)を改めて読むと、どの回も、その登場人物と将也がどのようなかかわりをもち、そしてそれによって、自分自身がどのように(将也の影響を受けて)変わっていったのかが描かれていることが分かります。

第6巻81ページ、第47話。
誰もが、将也との出会い、関わりによって自己を省みていろいろなことを考え、少しずつ前へ、「いい方向へ」進んでいることが、各自視点回では示されました。
その事実をもって、将也の救いが「成る」機は熟していきました。
そして、最後に残ったのが硝子です。
硝子は、こと将也の身代わり転落に関してだけいえば、最も重い「罪」を背負っていることは明らかです。
将也は、硝子についても、転落時にほとんどの罰を引き受けてくれていたはずでしたが、最後の最後に犯された「罪」だけは(時間軸的にも)引き受けることができませんでした。
硝子が犯した最後の「罪」と、それがゆえに硝子に残された「罰」。
それは、「自分の肉体を軽んじて、自殺という過ちを犯してしまった」という「罪」に対する、「代わりに大切な人の肉体が痛めつけられ、自分は生き残ってしまって、その一部始終を見届けなければならない」という「罰」です。

第6巻149ページ、第51話。
硝子については、この「罪」を自覚し、償うことができるかどうかが、将也の「救済」を受けるための前提条件になったと考えられます。
そんな硝子の1つめの「贖罪」は、「映画を再開する」という行為によってなされました。
橋崩壊事件以後、ばらばらになってしまった映画メンバーのつながりを、自らの行動によって修復し、そして映画撮影の再開にまでこぎつけることができました。
これによって「贖罪」の第一段階は成った、と判断した「鯉」は、いよいよ硝子が将也の「救い」を与えられる「準備」ができているのかどうかを試そうとします。
鯉は硝子の夢枕に将也を登場させ、「将也と出会わず、友達とうまくやれていればすべてが丸く収まっていたんじゃないか? そういう運命を選んでいたほうが良かったんじゃないか?」という謎を、硝子にかけます。

第6巻163ページ、第51話。
これも別エントリで考察しましたが、これを「硝子の側」から解釈すれば、「私に障害がなかったら、という理想の世界のほうに行くこと」と、「私が障害を持っていて、いじめを受けたりする現実の世界にそれでも残ること」のどちらを選ぶんだ、という選択が提示された、ということです。
硝子はここで、「将也と出会ったこの現実の世界こそが、辛いこともたくさんあるけれども一番大切なんだ、私が選ぶのは、いまここの現実の世界だ」という「答え」を見出します。
そして、その「答え」を噛み締めたとき、改めて、自殺という過ちを犯し、将也を傷つけてしまった「罪」の重さを再認識し、硝子は深く深く後悔し、涙を流します。

第6巻181ページ、第52話。
硝子は「正しい答え」にたどり着いたのです。
その涙は、川のなかにいる「鯉」にしっかりと届きました。
これをもって、硝子の「贖罪」も完了し、そして硝子を含むすべての人間が、将也による「救い」を与えられる「準備」もすべて成ったということになります。
そして鯉は、最後の大いなる奇跡を起こします。
硝子が橋の上から落とした涙を受け止め、将也による救いを受け入れる「準備」が硝子を含めてすべて正しく整ったことを確認した川の中の鯉は、最後の大いなる奇跡を起こします。
それはもちろん、
将也の復活
です。

第6巻183ページ、第52話。
実際には、将也の復活から、それに続く「橋の上の奇跡」までが、このとき鯉が起こした、物語中最後の奇跡だったと言っていいでしょう。
この「奇跡」が発動中の第53話では、将也が遠視能力を発揮して病床から橋の上の硝子を見つける描写まであります。

第53話、4ページ。
しかもこのとき、将也が夢に見た硝子の姿は、将也が一度も見たことがないはずの、腕を吊るサポーターをつけたものでした。
これもまた、この展開が超常的な「奇跡」であることをあえて明示する描写だったのだろうと思わずにはいられません。
ところで、この「奇跡」の場面でも、将也が自分以外の人間にまで「救い」を与える力をもった、救世主としての特別な存在であることを示唆する描写があります。
それは、
将也が復活した「日」
です。
この「将也が復活した日」が、キリスト教において、キリスト処刑後に「キリストが復活した日」とつながりを持たされているように思われるのです。
キリストは、処刑から「3日後」に復活したと言われます。
連載の将也転落の頃から、「将也=キリスト、と扱われているのではないか?」という仮説をもっていた私は、将也も、このキリストの逸話と同様、川に転落してから3日後にきっと復活するだろうと予想していましたが、その予想はあっさりと外れました。
将也が実際に復活したのは、転落からおよそ2週間ほどもたった後でした。
連載中は、「転落後3日」を過ぎてもまったく将也が復活する様子がみられないことから、「将也=キリスト」説は、いったん説得力を失って徐々にフェードアウトしていったかのように見えていました。
ところが、実は将也とキリストの「つながり」は消えていなかったのです。
第52話から第53話において将也が復活したことを受けて、改めて日付関係を確認・整理してみた私は、驚くべきことに気づきました。
将也は、転落してから目覚めるまで、2週間も眠り続けていました。
でも、それと同時に、将也はちゃんとキリストの逸話と同様、「3日で」復活してもいたのです。
それは、将也が復活した日がいつなのか、カレンダー分析を行うと見えてきます。
実は、「聲の形」のなかで、日付がはっきり示されている日はそう多くありません。
高校編では、初めて将也と硝子が再会した「4月15日」、橋崩壊事件のあった「8月5日」、そして映画再開にこぎつけて水門小ロケが行われた「9月2日」、この3日しかないのです。
ただ、ここから「将也復活の日」については明確に確定させることができます。
硝子が橋に向かって家を飛び出したのは「もうすぐ火曜日が終わる」9月2日火曜日の深夜です。デジタルクロックに、日付と時間がはっきりと表示されています。

第6巻166ページ、第51話。
そして、橋について涙を流している場面で時計台が映り、そこではっきり夜中の0時を過ぎていることが描かれています。

第6巻181ページ、第52話。
つまり、このとき日付はすでに変わり、「9月3日」になっていることが分かります。
(ちなみにこのシーン、たった1コマのなかに「9月3日であることのエビデンス」と「鯉」と「硝子の涙」、この3つがまとめて描かれていることは、非常に重要です。)
そしてそのあと、どうなったでしょうか?
そうです。
ここで、将也は目覚めるのです。
つまり、「将也復活」は9月「3日に」実現しているのです!
物語の展開上、将也を転落から3日後に目覚めさせることはできませんでしたが、それでも作者は、将也の復活をキリストの復活になぞらえたかったのではないか、と思います。
そこで、「3日」という日付にこだわって、9月3日に将也を復活させたのではないか、と私は想像します。
将也の復活が9月「3日」となっているのが偶然ではなく、作者が意図的にこだわっているのではないか、と推測できるポイントとして、以下の3つほどをあげることができます。
1.将也が復活した9月「3日」という日付が強調されていること。
2.水門小ロケの日程に不自然さがあること。
3.将也が復活した曜日が、火曜日ではなく水曜日であること。
順に見ていきたいと思います。
まず1つめとして、将也が復活したのが、この「9月3日」である、ということが、誰にでもはっきりわかるように非常に丁寧な描写をしている点が挙げられます。
まずデジタルクロックで「9月2日」という日付を明示し、さらにその後で深夜0時を過ぎている時計台を映して「日付が変わった(=9月3日になった)」ということをはっきりと示しているわけです。
ここまで丁寧に「日付」を描写しているのは、作者がその日付に意味を持たせているからと考えるほかありません。
2つめは、ロケのタイミングの不自然さです。
つまり、なぜわざわざ水門小のロケを、学校が始まってしまったあとの9月2日に行なう設定にしたのか?という疑問です。
もともと(橋崩壊前に)真柴と将也でロケの許可をもらいにいったとき、真柴は「夏休み中に撮りたい」と言っていました。常識的に考えれば、9月に入って新学期が始まり、生徒が学校にくるようになってしまった後では、ロケの許可なんて普通はおりないでしょう。
もちろん、橋崩壊→映画撮影中止という事件があって、当初考えていたよりもロケのタイミングが大幅に遅れたということはあるわけですが、それにしても、物語のカレンダーを調整して、夏休みの終わりぎりぎりくらいに水門小ロケを持ってくることは、それほど無理をしなくても可能です。
にもかかわらず、「あえて」水門小ロケは新学期が始まったあとの「9月2日」になっているわけです。
これは、「映画再開・水門小ロケ→その日の夜に硝子が夢を見る→日付が変わって将也復活」という流れが最初から想定されていて、しかも「将也復活」が9月「3日」に固定されていたために、必然的に(多少不自然であっても)水門小ロケを9月2日とせざるを得なかったのだ、と考えるほかありません。
3つめは、将也の復活を火曜日ではなく「水曜日」にしている点です。
将也は、硝子の夢枕で「もうすぐ火曜日が終わる」と言って去っていこうとしているわけですから、それを硝子が引きとめて、そしてその願いがかなって将也が復活する、という展開を考えるならば、やはり火曜日中に将也が復活し、再会できたほうが美しいでしょう。そうすることで、「火曜日」というのをよりいっそう特別な曜日として位置づけることができるわけですから。
でも、実際には日付が変わってしまって、「水曜日」に将也は復活し、橋の上の奇跡につながっていきます。
なぜ「9月2日・火曜日」ではなく、「9月3日・水曜日」に将也が復活したのでしょうか。
それは、「火曜日に再会する」という「曜日」の展開の美しさよりも、「復活するのが3日である」という「日付」のほうが作者として重要度が高かったから、と考えるほかありません。
これらのポイントを見ると、多少の強引・不自然な展開を許してでも、将也の復活を「3日」にしたかったのだ、という作者の意図がはっきりと伝わってくるように感じます。
そしてその理由は、将也の復活を9月「3日」とすることで、将也の転落をキリストの処刑に、「3日」の将也の復活を、「3日後」のキリストの復活になぞらえたかったからなのではないかと思います。
そして、すべての「準備」が整い、「3日に」将也は復活します。
将也が復活したあとの世界は、将也による「救い」によって、将也や硝子をとりまくあらゆる登場人物に対して、それぞれ「救い」が与えられる世界に変わっていました。
さて、第7巻です。
将也は復活し、将也の贖罪によって将也と硝子をとりまくあらゆる人物の罪は救済されました。
硝子は障害をありのままに受け入れて自分を認めて生きていけるようになり、自分が周囲を不幸にするという「呪い」からも解放されました。
結絃は登校を再会して高校にも合格し、西宮母は子どもが全員立ち直ったうえに自らも飲み友達ができ、外にも中にも味方がいる安定した環境を手に入れました。
石田家にはペドロが戻り、新しい子どもも生まれ、将也の進路選択の結果、家業の後継問題もなんら心配がなくなりました。
佐原は植野と和解し、自らを高める努力が実って東京行きが決まり、自らファッションブランドを立ち上げて20歳で社長になってしまう勢いです。
植野も過去へのとらわれから解放され、東京で成功する道を切り開いて家庭の貧困から脱出するチャンスを得ました。
永束はずっと渇望していた確かな「友情」を手に入れて信じられるようになり、
川井は矛盾が生じてきていた優等生キャラをスムーズに卒業し、人間関係を維持したままより自然に振舞えるようになり、
真柴は過去のいじめ経験のトラウマを解消して前向きに将来を考えられるようになり、人間も丸くなりました。
これらは、もちろん個々の登場人物の成長としてとらえることもできますが、「将也=救世主」論をとおしてみたときには、全員の罪をつぐなったあとで復活した将也が見た、「すべてが救済された世界」でもあった、と思うのです。
そして、肝心の将也自身ですが。
将也の進路自体は実家の家業を継ぐ、という、率直にいえば「地味な」ものになりましたが、「未来への希望」という、かけがえのない大きなものを手に入れました。
それに、将也は2度も命を救われているんですよね。
1度目は、最初に硝子と再会したとき、「友達になれるか?」の手を硝子が握り返してくれたことによって。
2度目は、転落し、昏睡して生死の境にいた将也の「手を引っぱって」、目を覚まさせてくれたことによって(こちらで「手を引っぱった」のも、硝子(の心)だった、と考えられそうです)。

第53話、3ページ。
命を救われ、未来に希望を得て、はっきりした進路が見つかったこと(さらには硝子を人生のパートナーとして得たこと)、これらを総合的に考えるならば、実は最も大きな「救い」が将也に与えられていると私は思います。
佐原や植野、島田が外の世界に羽ばたき、真柴や川井が大学に進学していくなど、これらのメンバーが「大きな成功」を手に入れているように見える一方で、将也が地元で「くすぶっている」ことに、やはり不公正感(罰を受けていない植野や島田がのうのうと成功して、罰を受けまくりの将也が地元で先の見えた将来なんておかしい)を感じるむきもあるかもしれませんが、作者はあえて意図的にそれをやっているように思います。
登場人物の成功とか勝ち負けを、本人の進路の可能性みたいなもので測るとするならば、進学校に行ったにもかかわらず大学に進まず、実家の理髪店を継ぐことを決めた将也は、大学に進学したクラスメートや、東京で実業家になりそうな佐原・植野や、フランスに羽ばたいている島田らと比べてずいぶん小さくまとまってしまったように見えます。
でも、これまで見てきたとおり、この物語の中での将也の存在の大きさ、重さというのは、将也自身の進路がどうこうということではなく、将也とかかわった周囲の人たちがどのくらい人生を好転させたか、その「総量」で測られるべきなのではないか、と思うのです。
そういう意味では、将也は「救世主」的存在でもあり、また見方を変えると「触媒」的な存在でもあったと思います。
将也との再会がなければ、佐原と植野が親友になり、東京で一緒に実業家になるなんていう未来はなかったでしょう。永束は孤独なままで、真柴は過去にとらわれて歪んだ進路を選択し、川井は自身の「気持ち悪さ」に無自覚なまま、どこかで人間関係の破綻を招いていたと思いますし、結絃は不登校のまま、そして硝子も西宮母も不幸なままだったと思います。
そんな将也のまわりの人たちが、将也と関わったことで、誰もが人生を好転させていくわけです。
もちろんそれを「将也のおかげ」と考えるのはずいぶん勝手な考え方でもあるのですが、また一方で、物語として「そういう目に見えない力が働いたからこそ、事態が好転したんだ」と考える「見方」もできると思うのです。
そう考えれば、地元で「散髪屋のオヤジ」になる道を選んだ将也が、本当は「とてつもなく多くのことを達成し、多くの人の人生を変えた偉大な存在」として、聲の形のキャラクターのなかでもひときわ輝いて見えてくるのではないでしょうか。
このように、将也を救世主ととらえて「聲の形」を読み解くなら、第5巻から第7巻はそれぞれ、以下のような意味のある巻としてきれいに分けられていることになります。
第5巻:将也がすべての「罪」を一身に背負って「処刑」を受ける直前まで(最後の晩餐)。
第6巻:「罪」を背負った将也の処刑(転落)による贖罪の成就と、将也の復活。
第7巻:あらゆる「罪」を償った将也による「救済」の実現。
さて、最後にまとめ的な話を。
この「聲の形」の物語で、将也ひとりがたくさんの罪を受けているのは、「将也だけがひどいめにあうひどい話」だからなのではなくて、「将也があらゆる罪を背負って償い、あらゆる人の成功・成長を触媒して救いを達成する話」だからなのだ、と私は思います。
そして結果的に、将也自身はささやかで平凡な幸せを手に入れるだけだけれども、逆に将也のまわりの人間は将也が存在したおかげで救われ、将也のおかげで大きな幸せを手に入れていて、そんな「実は将也ってのはすごい存在なんだ」ということを、読者だけがメタの視点で知っている、そういう物語なんだろう、と思っているわけです。
(了)
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僕は、将也に降りかかった様々な災難は、彼自身の弱さによるものでもあると思います。許した、というよりも自分が悪い、と諦めたようなニュアンスを受け取りました。将也は反省後も自分の過去にコンプレックスを抱いており、それ故に川井ちゃんに自分の過去のことを人に話していないか訊いたわけですし...自業自得だ、因果応報だとあきらめたんじゃないですかね...
とはいえ彼もそのコンプレックスを少しだけ克服し、硝子とも向き合えるようになったんですよね...
不都合あればお知らせください(削除いたします!)
なにとぞ宜しく、お願いいたしまっす!
そんなことはないでしょう。
タイプの違う美少女二人に愛されるリア充じゃないですか(笑)。
レビューや感想をみるとイジメのシーンをみてトラウマが・・なんていうのが多くありますが、私なんかは長束君が橋の上で川井から「キャっ汚い」って言われたり、植野から「きったねー手でさわんじゃねー」と言われちゃうところに、まるでモテなかった自分の学生時代を思い出してトラウマが・・(笑)。
大今先生、ファンブックでも長束は女子に嫌がられるタイプ・・とはっきり言い切っていますし、同情を禁じえません。
大今先生、皆さん、長束君に愛の手を(笑)。
そんな「弱い人」があふれる世界は、誰もが自らの罪を直視できず逃げ惑い、そしてなすすべもなく罰を受け続ける、救いのない世界だと言えるのではないでしょうか。
> そんな「救い」のない世界に、「救い」をあまねく届けるための「答え」の1つ。
>それは、自ら罪に向き合うことができず、その罪を償う強さを持たない者たちの罪を一身に背負い、受け止め、そしてそれらの者たちに代わって罰を受け、それらの者たちに代わって彼らの罪を償い、それによって「弱き者たち」に救いを届ける、そんな存在が現れることです。
>そういう人物のことを、人は「救世主」と呼ぶでしょう。
>つまり、前エントリでいうところの「後者の解釈」で聲の形の世界を読み解くとするなら、将也はこの世界の中で、自分自身のみならず、周囲にいるさまざまな人たちの罪を背負い、罰を受け、そしてその罪を当人に代わって償い、救いをもたらす、宗教的救世主として描かれている、ということになるのではないか?と考えられるわけです。
なお、アトラスが制作・販売していたペルソナ3フェスでは、「救世主」ポジションの男の恋人だと思われる少女が頭「川井みき」な人(後日談の主人公)に懐柔されて「自分の意志で望んで死んだんだから、ありもしない可能性をかけて過去に戻って救わなくても良いよね…?悪魔ほむらみたいになっちゃうのは彼の願いを踏み躙る許されないことだよね…?」と「救世主」を見捨てちゃう模様。
川井みき「だからね…つらいことがあっても いちいち気にしてちゃ だめ」
「自分の ダメなところも愛して 前に進むの そう…たとえば 自分はかわいいって…かわいいんだって…思うの…」
「だって そうしないと 死んじゃいたくなる…」
というのは、残念ながら真理の一つなんだよね。
身も蓋もないことをいうと、生きることは罪であり苦である。
つまりは生きることを押し付けるのは罪なのだ。
(人間のほとんどの行動は”自己満足”。強くなりたいと辛苦の鍛錬をするのは自己実現であり、ひいては”自己満足”のため。最も尊いとされる自己犠牲であっても”自己満足”。
だから他人のために何かをやったとしても決して見返りを求めるな。
もしそれを望めばその瞬間おまえの行動は醜悪なものになる。
である)