2014年12月22日

別ブログで、第7巻のブックレビューを書きました。

自閉症の療育をテーマとして扱っている、私のもう1つのブログのほうで「聲の形」の第7巻のブックレビューを書きました。

こちらにも転載しておこうと思います。

聲の形 第7巻(完)(まんがレビュー)

これまでずっと追いかけてきて、専門のブログまで立ち上げて応援してきた「聲の形」ですが、ついに単行本も最終巻の7巻が発売され、名実ともに完結しました。


聲の形 第7巻(完)
大今良時
講談社コミックス

時を同じくして、「このマンガがすごい!2015」でみごと1位(オトコ編)を獲得し、またアニメ化も決定するなど、最後まで高い人気を維持したまま、作者の意図通り、引き伸ばしなしで完結したことは、この作品にとって本当に幸運だったと思います。


このマンガがすごい! 2015
『このマンガがすごい!』編集部 編
宝島社

さて、そんなわけで完結巻となる第7巻ですが、この巻が扱っているテーマはなんだろう?と考えてみて、「大人になること」なのかな、という答えに行き当たりました。

以下、ネタバレになりますので注意。

この「大人になること」というのは、もちろんラストシーンが成人式で、実際の年齢として20歳になる、ということもあるのですが、もちろんそれだけを指しているのではありません。

大人になることというのは、子どもである間だけ持っていられる、いろいろなものを「捨てる」「失う」ことでもある、ということを示す描写が、第7巻にはあふれています。

将也が第7巻で、大人になっていく過程として最初に「捨てる」のは、他人とのコミュニケーションに対する「万能感」です。

橋の上で硝子との「奇跡の再会」を果たした将也は、「話してくれることが全部だなんてありえないのに それがその人の全てなんだって思い込んで(中略)わからないことを自分で都合よく解釈してさ…それが俺だ」と語り、コミュニケーションを通じた他人との相互理解の限界を悟ります。


聲の形 第7巻より。

これは、あとの第61話で、仲がよかったころの島田や広瀬について「あいつらのこと なんでも知ってる気になっててさ」と語っていることからも分かるとおり、他人の考えていること、感じていることを自分はなんでも分かる、というナイーブな対人万能感の否定にほかなりません。

その上で、「他人の理解には限界があるけれども、ちゃんと相手に興味を持って、話を聞いて、少しでも理解を深めていきたい」という思いをはっきりと表明するわけです。

このようなコミュニケーションと対人理解についての認識の修正は、「橋の上の奇跡」で硝子に伝えたあと、文化祭では映画メンバーに伝え、第61話の前半では島田・広瀬への認識の変化についても(植野に対して)語りましたが、もう1つはっきりした「事件」として描かれたのが、第58話の映画選考会での島田との対話でした。
納得のいかない批判をくだした評論家に対して認識を改めるよう掛けあおうとした将也に対し「相変わらずダセーな」と一蹴し、そんな行動は無意味だと言い切った島田。
他人の「理解」には限界があると悟っている島田に対して、将也はまだまだ他人の「理解」を操作できるという万能感を残していることが描かれたシーンでしたが、映画メンバーがみな島田の意見を受け入れるのを見て、将也は感情的にならずに上げた拳を下ろすことができました。
これは、「将也が間違っていて島田が正しい」ということではなく、映画メンバー全員が大人になりつつあって、現実をふまえた妥協を選択するようになりつつある、という、ある意味見も蓋もない現実を示している(そして将也もその事実を受け入れた)ということなのです。

第7巻で描かれている「大人になること」というのは、こんな風に、子どもの頃は誰もがもっている無邪気な万能感、有力感を否定し、「限界」を認識し、場合によっては妥協もしたうえで最善の結果を得ようとすること、そこに足りないものがあれば努力すること、そういうものです。

次に否定されたのは、将也のいわゆる「保護者ヅラ」です
自分は誰かを守っていて、守られている相手は自分の庇護なしには安心して生きていけないんだ、といった「思い上がり」のことですね。

第59話で硝子から高校卒業後の上京の意思を告げられた将也は、激しく取り乱します。


聲の形 第7巻より。

自分の目が届かない、見知らぬ土地に出ていこうとすることに対して、硝子の障害や妹の心境まで引き合いに出して否定しようとする将也に、硝子も感情的に反発する結果になりました。
考えてみると、将也は第2巻で結絃に「体があるうちは西宮のために消耗したいと思ってる!命を!」と語り、また花火大会で硝子と別れたときも「何があっても西宮を守る それだけのために生きられる」という自分の信念を確認しています。

実際に将也は、マンションで硝子の飛び降りを防ぎ、この誓いを有言実行したわけですが、それは一方で、ようやく自分を肯定できるようになり自らの意思で新しい挑戦をしようとした硝子を「縛ろうとする」動きにもつながってしまったわけです。

自分が守り、これからもずっと守っていこうとしていた相手は、思ったよりも先に進んでいて、自分の「庇護の手」を離れたところでさらに羽ばたこうとしている。
将也は、そのことを受け入れなければならなくなったわけです。これは「親の子離れ」ともちょっと似ていますね。
聴覚障害という「弱者性」をかかえた硝子に対する、健常者としても将也の接しかたとして、ここに1つ、弱者に対する強者の傲慢さの自覚と克服、という課題が設定されていることを見逃してはならないでしょう。

「弱者」への傲慢さの克服、ということでいえば、実は硝子の上京だけでなく、第60話では「母親からの自立」という課題も提示されています。
将也は、女性である(ここに「弱者性」が設定されています)母親がひとりで理髪店を切り盛りしていることを心配し、ずっと自分なりに見守り、これからも見守っていくつもりだったにもかかわらず、当の母親からは「そんなに気になるなら一緒に上京すれば?」と言われ、ある意味はしごを外されてしまいます。

先にも触れたように、人間不信を極めたあとの将也は、「誰かを守る」ということに最後の対人アイデンティティの砦を作って、実は「自分を」守っていたところがあったと思いますが、第7巻ではやはり、そこからも「卒業」することが課題になっていきました

そして、将也のもう1つの「大人になるための課題」は、進路の選択でした。
進路を決めるということは、さまざまな将来の可能性のなかから1つを選ぶということであり、それは大げさにいうなら、幼いころの「無限の可能性」を、成長するにしたがってどんどん狭めていって、ついに「たった1つの現実」に置き換える行為であると言えます。
将也は、硝子とともに上京することも、大学に進学してしばらく「人生の決定」を猶予することも選ばず、地元に残ったまま理容師になるための専門学校に進学し、実家の理髪店を継ぐ道を選びました。


聲の形 第7巻より。

こんな風に、第7巻では、将也に対して「大人になるための課題」が次々に提示され、将也は苦しみながらもそれらをクリアして「大人への階段」を着実に上っていきます。
将也以外についてはそれほど明確には描かれていませんが、硝子、植野らをはじめとする他の登場人物についてもそれは同じことです。

そしてラストシーン、「子どもとして犯した罪を償い、インガオーホーを克服すること」、「大人になるために手放さなければならないものを未練なく手放すこと」を達成し、ついに「大人になる」ための資格を得た将也と硝子は、お互いに手に手をとり、同窓会会場への扉を開きます。


聲の形 第7巻より。

そのとき将也は、扉の先に「可能性」があることを確信しています
子どもから大人になるときに、子どものころにもっていた「無限の可能性」や「万能感」は捨て去らなければなりませんが、そのうえで、大人になった私たちは、新たな可能性を努力によって生み出して、それを現実化していくことができるのです。
将也にとって、その「新たな可能性」のなかに、「硝子とともに生き、お互いに『生きるのを手伝いあっていく』」というビジョンも、当然に含まれているでしょう。

子どもから大人になる、ということは、そういうことなのではないでしょうか。

この最終話の舞台が「成人」式であることをふまえれば、第7巻を「大人になること」というテーマで読み解いたとき、ふたりで同窓会の扉を開くラストシーンが極めて象徴的であり、「この終わりかたしかありえない」というエンディングになっていることに改めて気づきます。
この作品が、作者の構想通り、1話たりとも引き伸ばされることなく完結したことは、本当に幸いなことだったと思わずにはいられません。

さて、最後に、「障害者を扱ったまんが」としての本作品全体について、簡単に感想を書いておきたいと思います。
この作品の読み切り版(ならびに新人賞を受賞したオリジナル版)では、障害者へのいじめがメインテーマとなっていましたが、連載ではそれを越え、ディスコミュニケーション、贖罪、大人になること、そういった幅広いテーマが扱われる作品となりました
それによって、硝子が障害者であることの必然性が弱まったという意見もあるようですが、私はそうは思いません。
「ディスコミュニケーション」という本作品の中核テーマを象徴するものが、硝子の聴覚障害であることは論を待ちませんし、物語中盤では硝子が障害当事者ゆえに抱えていた成長課題(障害の受容)とその達成についてもしっかりと描かれています。
むしろ、硝子の障害をことさらに持ち出さずにドラマが展開されたことで、ステロタイプな「可哀想な障害者」のようなものが描かれる陳腐な作品とは完全に一線を隠した「障害をとりあつかった漫画作品」になったのではないかと思います。

冒頭でもふれましたが、この「聲の形」は、「このマンガがすごい!2015」でグランプリを獲得したことでも示されたとおり、7巻という比較的短い長さの中に、濃密な物語がぎっしりと詰まった傑作マンガとなりました。
また、最初読んだだけではわからず、後の展開で「解明」される謎や伏線も大量に埋め込まれていて、繰り返し読んでもそのたびに新しい発見のある、再読性の高い作品でもあると思います。
全7巻と、「大人買い」しても比較的リーズナブルに揃えられますし、まだ未読の方はこの機会にぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

なお、「とりあえず途中まで買って試してみようか」という方も、最低第3巻まではまとめて買うことをおすすめします
また、第1巻はほぼ丸ごといじめばかりで辛いシーンが続きますが、第2巻から物語が展開し始めますので、第1巻を読んで、苦しいな、と感じた方は、第1巻はナナメ読みをして第2巻にさっさと進むのもいいと思います。実は、第1巻には流し読みして後から戻ってきても、第2巻以降を軽く読むのにそれほど問題はありません。


聲の形 第1巻・第2巻・第3巻・第4巻・第5巻・第6巻
大今良時
講談社コミックス
posted by sora at 07:33| Comment(3) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
頭のよい方のレビュー、感服いたしました。これ、お金を取れる宣伝文ですよ。


しかし、漫画も進化したものです。わたくしが7つで上杉鉄平君や三平三平君に求めたのは、学校社会での息苦しさからの開放でした。枠からいくら外れても、皆と違っていても叱られない世界が欲しくて、7つの子が近所の大きい子に頼んでマガジンをまわしてもらい、親に隠れて読んだものです。今は学校社会の息苦しさと四つに組んで奮闘する西宮硝子さんや石田将也君を読み込んでいる。思えば遠くに来たものです。
障害児が健常児と同じ土俵に乗りたいと奮戦した時代から、同じ土俵に乗った後の苦労、嫌でも障害児と関わる健常児サイドの苦労を曇りのない目で描く時代が来た。ステレオタイプの障害児像もこれからどんどん変わって来るでしょう。 一般の方が望む障害児像から脱却して表現される事を待っていました。よしんばよい子の障害児がいても生きてくための擬態だ、健常児も良く見られるために必死で擬態するのだと双方に気がついてもらうだけで互いの見方はまるで変わって来るでしょう。


三平君や鉄平君みたいに枠からはみ出しているようでしっかりと大人の庇護があった時代から、学校社会の枠にいる子を大人が関わる事をしない時代にシフトしたのを硝子さんを通して知りました。世の中の舵取りを大今さんの世代がどう取るか、見据えていくだけで生きる意味があると思えるのです。
Posted by あらやん at 2014年12月22日 02:33
貴ブログを読んで反芻しながら発売日を待つ、至福の1年でした。
素晴らしいエントリの数々、ありがとうございます。

>硝子の障害をことさらに持ち出さずにドラマが展開

当初センセーショナルに取り上げられた「聾」「いじめ」というキャッチーな枠組みは、本作品の多層構造を形作る要素の一つに過ぎず、必要不可欠ではありますが、けして大テーマではなかったという印象です。
(そのエッセンスの一つ一つが鮮烈で見事なものであることは勿論ですが)

全7巻、これだけ緻密で美しい筆運びでありながら、一貫してどこか荒々しく獰猛で、そこがとても魅力的な作品でした。

これから2月の原画展と劇場版公開まで大きなトピックはなさそうですが、新規読者のためにも、是非ブログを維持していただけると嬉しいです。
Posted by ISO at 2014年12月22日 23:34
皆さん、コメントありがとうございます。

いよいよ単行本も完結し、あとは原画展とか劇場版アニメといった新展開を待つだけとなり、確かに少し寂しくなってきましたね。

そして実は、連載終了後、これまでボツネタをアップしてきていた当ブログの新規エントリも、もうすぐ枯渇します(笑)。
というわけで、新規エントリの投下はもうすぐ止まりますが、もちろんそれ以降もブログは維持しますのでご安心ください。(^^)
Posted by sora at 2014年12月22日 23:59
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