さて、超難解な第53話の3ページ目の読み解きの続きです。今度は3コマめ、4コマめです。
3)「本当の俺たちは ドコへ行くんだろう」のモノローグと、教室に座る冬服姿の将也を窓の外から俯瞰した描写。
4)「本当のみんなは」のモノローグと、真っ黒な背景、硝子を含む高校編の全登場人物が去っていく後ろ姿の描写。
第53話、3ページ。
それぞれのコマについて、まずは、
3a)これはいつの映像なのか?
4a)これはいつの映像なのか?
が考えなければならないポイントでしょう。
この3)の映像ですが、冬服です。
これは、このあとの4)のコマで、みんなが着ているのが夏服であるのと対照的で、3)のコマと4)のコマの間で時間が経過していることに気づきます。
そこで改めて3)ですが、将也がこれまで冬服で自席に座っている場面は、
ア)1巻の見開きで描かれた、クラス全員の顔に×印がつけられた印象的なページ。(第5話)
イ)2巻で永束と友達になった初日、永束が将也を映画に誘うシーン。(第9話)
ウ)2巻で、バカッターへの投稿が晒され、停学になってしまう日の朝。(第10話)
この3場面しかありません。ウ)の次の登校日、停学明けには既に夏服になっています。
また、ウ)では永束はタヌキ寝入りをしていて、将也は自転車から転倒してボロボロですから、ちょっとこの3)のイメージと合いません。
一方、ア)のオリジナルの場面では、クラス全員に×印がついていることから、ア)ではない、と考えられそうですが、将也は第43話で転落前に「クラスメイトとしっかり向き合う」と誓っていることから、いまア)と同じシーンを夢に見た場合、×印は消えていると考えられるので、×がないことを根拠にア)の可能性を消すことはできません。
ということで、この場面はア)もしくはイ)あたりの時期を描いていると考えられますが、時期ははっきり特定できません。
そもそも、3)では全員の机の上に何も乗っておらずきれいですが、ア)でもイ)でも各自の机の上には筆箱などが必ず置いてあるので、厳密にはこの3)の場面はア)でもイ)でもありません。
というわけで、3)についてはここまでで一旦保留しておいて、先に4)を片付けようと思います。
4)は3)とは一転して、高校になってから再会したすべてのメンバーが勢ぞろいです。
はっきり見えない人もいますが、右から順に、
島田・広瀬・永束・川井・石田母・硝子・西宮母・植野・真柴・佐原・結絃
は確認できます。(石田母と西宮母は硝子と重なる位置で前のほうに、結絃はモノローグの下にいますね。)
ちなみに、この映像の雰囲気は、第5巻の第37話で、真柴の発言に疑心暗鬼になって、みんなが将也の過去のいじめを知って去っていくシーンによく似ています。
第5巻102ページ、第37話。
違うのは、「去っていくメンバー」に、硝子や結絃、石田母や西宮母まで加わっていることです。
「全員が去っていく」ように見えるシーンというのは、実際には「自分が去っていく」シーンの裏返しでもあります。
私には、この4)のシーンは、第37話で心配していた崩壊が、第38話から第39話の橋崩壊事件までで「現実のもの」となり、さらに第40話から第42話に至っての「硝子の自殺」によって硝子や西宮家のみんなも去り、さらに第43話で自分が転落してしまったことによって、家族を含むすべての「みんな」が去る(=実際には自分が死んで消えてしまう)、という展開を1枚のコマで示しているシーンだと思われます。
つまり言い換えると、この4)のシーンは、硝子と再会後にいろいろ頑張ったことが、結局最後にはすべて「上手くいかず」失敗してしまった、という将也の思いを描いているのではないだろうか、と思うのです。
これは、2ページのモノローグで、「夢の中の俺は なぜかこのまま 何もかも上手くいくと思ってた 中学でも 高校でも」と言っていることともうまく対応します。
「夢の中では何もかも上手くいくと思ってた」けれども、「本当のみんな」とは「上手くいかなかった」、ということです。
そう考えると、3)のコマが何を意味しているかも、おぼろげながら見えてくるように思います。
つまり、3)のコマは、硝子と再会してから始まる、激動の時期の「直前」の将也を描いているのだ、と考えられるのです。
つまり、前のページで、「夢の中」(実際には夢中夢ですが)の小学生将也は、中学でも高校でも何もかもうまくいくと思っていたけれども、
3)中学から高校3年(硝子と会う前)は孤立してまったく上手くいかなかった。
4)硝子と会ってから、いろんなことがあって頑張ったけれども、やはり結局上手くいかなかった。
ということで、上手くいくと思っていた「夢」に対して、上手くいかなかった「現実」を提示しているのが、3)と4)のコマだ、という整理がつけられるんじゃないか、と思います。
あと、残っている疑問としては、
3b)「俺たち」の「たち」って誰のことだろう?
4b)「みんな」って誰のことだろう?
3c)「本当の俺たち」の「本当の」ってどういう意味だろう?
4c)「本当のみんな」の「本当の」ってどういう意味だろう?
4d)「本当のみんなは」の文章はこのあとどう続くのか?
というのがあるでしょう。
このうち、3c)、4c)の「本当の」が、前のページの「夢では」に対応しているのは明らかで、どちらも「夢とは違う現実の」と言い換えて理解すればそれでいいように思います。
次に4b)については、「将也本人以外の、将也の周囲にいる全員。別の言い方をすれば、4)のコマに映っている人たち」で問題ないでしょう。
やや難しいのが3b)の「俺たち」ですが、これは4b)と対応関係があることと、3)が中学~高校(硝子に会うまで)、4)が高校(硝子に再会後)という関係があることをふまえると、「小学校のときに仲間だった『俺たち』」という意味にとらえればいいのかな、と思います。
将也が「俺たち」という仲間意識を持てた時代は、恐らく小学校時代にしかありません。
ですから、3b)の「俺たち」というのは「既に失われてしまった小学校時代の仲間たちと俺」、4b)の「みんな」というのは「自分以外の、いま現にそこにいるみんな」という風に理解するのが、いちばん妥当であるように思われます。
最後に4d)ですが、3)のコマの「ドコへ行くんだろう」が省略されているのか、6)の「死ぬんだろうか」に続いているのかの2択でしょう。
ここは、常識的に考えて、「ドコへ行くんだろう」が省略されているとしか考えられません。
「みんな」を全員「死ぬんだろうか」といきなり考えるというのは唐突すぎますし、意味がわからなくなってしまうので。