2014年12月02日

将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説(13・完)

登場人物の成功とか勝ち負けを、本人の進路の可能性みたいなもので測るとするならば、進学校に行ったにもかかわらず大学に進まず、実家の理髪店を継ぐことを決めた将也は、大学に進学したクラスメートや、東京で実業家になりそうな佐原・植野や、フランスに羽ばたいている島田らと比べてずいぶん小さくまとまってしまったように見えます。

でも、これまで見てきたとおり、この物語の中での将也の存在の大きさ、重さというのは、将也自身の進路がどうこうということではなく、将也とかかわった周囲の人たちがどのくらい人生を好転させたか、その「総量」で測られるべきなのではないか、と思うのです。

そういう意味では、将也は「救世主」的存在でもあり、また見方を変えると「触媒」的な存在でもあったと思います。
将也との再会がなければ、佐原と植野が親友になり、東京で一緒に実業家になるなんていう未来はなかったでしょう。永束は孤独なままで、真柴は過去にとらわれて歪んだ進路を選択し、川井は自身の「気持ち悪さ」に無自覚なまま、どこかで人間関係の破綻を招いていたと思いますし、結絃は不登校のまま、そして硝子も西宮母も不幸なままだったと思います。

そんな将也のまわりの人たちが、将也と関わったことで、誰もが人生を好転させていくわけです。
もちろんそれを「将也のおかげ」と考えるのはずいぶん勝手な考え方でもあるのですが、また一方で、物語として「そういう目に見えない力が働いたからこそ、事態が好転したんだ」と考える「見方」もできると思うのです。

そう考えれば、地元で「散髪屋のオヤジ」になる道を選んだ将也が、本当は「とてつもなく多くのことを達成し、多くの人の人生を変えた偉大な存在」として、聲の形のキャラクターのなかでもひときわ輝いて見えてくるのではないでしょうか

このように、将也を救世主ととらえて「聲の形」を読み解くなら、第5巻から第7巻はそれぞれ、以下のような意味のある巻としてきれいに分けられていることになります。

第5巻:将也がすべての「罪」を一身に背負って「処刑」を受ける直前まで(最後の晩餐)。
第6巻:「罪」を背負った将也の処刑(転落)による贖罪の成就と、将也の復活。
第7巻:あらゆる「罪」を償った将也による「救済」の実現。



さて、最後にまとめ的な話を。

この「聲の形」の物語で、将也ひとりがたくさんの罪を受けているのは、「将也だけがひどいめにあうひどい話」だからなのではなくて、「将也があらゆる罪を背負って償い、あらゆる人の成功・成長を触媒して救いを達成する話」だからなのだ、と私は思います。

そして結果的に、将也自身はささやかで平凡な幸せを手に入れるだけだけれども、逆に将也のまわりの人間は将也が存在したおかげで救われ、将也のおかげで大きな幸せを手に入れていて、そんな「実は将也ってのはすごい存在なんだ」ということを、読者だけがメタの視点で知っている、そういう物語なんだろう、と思っているわけです。

(了)※エントリ数が13で終わっていますが、特段の意図はありません(^^;)。
posted by sora at 07:36| Comment(6) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「そして彼は床屋のオヤジになり、耳の不自由な奥さんと幸せに暮らしましたとさ」――まるで平凡の極みのようなお話です(奥さんは少しだけ他と違った個性があるけれど)。

でもこの「地に足の着いた感」、明日にもわれわれが生きている世界で起こりうることを描いた物語というのは、今どき逆に貴重な存在だと思います。「平凡な異能」を描くというのも、なにしろとても難しいことですし。

このオヤジがかつて「神」だったことを、読み手だけが知っている…なんだか黒澤明の『生きる』みたいです。
Posted by ブラウニング at 2014年12月02日 09:12
13といえばゴルゴ13ですが、キリスト教をネタにしたタイトルのわりにステレオタイプなクリスチャンとかキリスト教会(カトリックばっかり)しか出てこないことに比べれば、キリスト教のキの字も出ないこのマンガで意外と踏み込んでいるのは驚きですね。

ただ、やっぱり何の予備知識もなく読むと、飛び降り自殺を図った結果なぜかすべてがうまく行ってしまった(風評被害や後遺症、トラウマに悩むことなく)ように見えてしまうことはやはり拭いきれず、この辺は個人的には素直に読みきれないんですよね。

マンガやフィクションににあまりに論理的、現実的な辻褄を求めると筋と関係ない説明的な描写が多くなって肝心の物語のテンポや熱みたいなものが薄まってしまうし、野暮・・ということはわかっちゃいるんですけど、ちょっとやりすぎって感じで。

決して作品や作者そのものを貶めているわけではない、あくまで個人的にわからないものはわからない、合わないところは合わない・・と表明しているだけであることをご理解いただければ・・と。

進路といえば20歳にして妻子持ちとなった広瀬って何の仕事してるんだろう?というのが目下のところ気になりますね(笑)



Posted by prijon at 2014年12月02日 09:17

「障害者いじめの漫画」という言葉が表に立ちすぎたせいで、何でラブコメシーンあるの?とか、何でいじめた側に相応の罰がないの?みたいな批判が多くなったと思うんですよね。
私も最初は、実際にある複雑で深刻な問題に踏み込んでいった(しかも少年誌で)漫画という見方だったのですが、
最後まで読み終えてsoraさんの考察を読んだ今は「障害者」も「いじめ」もこの漫画の主題では無かったんだなと感じます。もちろん重要な要素
Posted by 永束体型 at 2014年12月02日 14:45

「障害者いじめの漫画」という言葉が表に立ちすぎたせいで、何でラブコメシーンあるの?とか、何でいじめた側に相応の罰がないの?みたいな批判が多くなったと思うんですよね。
私も最初は、実際にある複雑で深刻な問題に踏み込んでいった漫画(しかも少年誌で)という見方だったのですが、
最後まで読み終えてsoraさんの考察を読んだ今は「障害者」も「いじめ」もこの漫画の主題では無かったんだなと感じます。もちろん重要な要素でしたが。

アニメ化でより多くの人が聲の形を見るにあたって、やはり別のキャッチコピーも作るべきですよね
そうしないと、高校生編が始まって違和感を覚える人が後を絶たないと思うのです。
Posted by 永束体型 at 2014年12月02日 14:52

途中で送信してしまった…申し訳ないです…

今冷静になり「障害によるディスコミュニケーション」は当然最も重要なテーマの一つだったじゃないかと気づき、訂正いたします。
Posted by 永束体型 at 2014年12月02日 14:57
皆さん、コメントありがとうございます。

ここで書いているのは、私の「読み解き」なので、私の「感想」とイコールではありません。
私がこの作品を「どう読み解くか」と、こういう描かれ方が「良かったのかどうか」とか「私が好きかどうか」は、また別の問題なのですね。

ですから、将也が理容師を選んだということについては、ちょっとモヤモヤしたものを感じないでもないですし(でも堅実な選択ではあると思いますが)、佐原とかはサクセスストーリーに持っていきすぎかな?とか、「感想」ということでいえばいろいろ感じているところはあります。

同じように、この作品を「宗教的物語」と読むのも、「いじめの勧善懲悪」と読むのも、「ラブコメ」と読むのも自由だと思いますし、それぞれの読み方で好き嫌いがあっても、それも自由ですよね。
(ただ、このブログは「ファン」ブログなので、批判を超えた中傷的な意見は他で書いていただくようお願いしている、というだけです。)
Posted by sora at 2014年12月02日 23:55
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