ところで、ここへきて、最終話の終わらせ方について、「何もかも決着させずに投げっぱなしだ」という批判が少なくないという話を聞きました。

第62話、20ページ(聲の形・最終コマ)
たしかに、読者が見たかったかもしれない、わかりやすい「決着」はほとんどが回避され、そこだけを見ると、最終話はそれらがみな「想像してください」で終わっているように読めるかもしれません。
ただ、個人的にはこの「投げっぱなし」批判はあまりあたっていないように感じています。
それらの「決着」は、最終話でわかりやすい形で示されるのではなく、最終話にいたるこれまでの展開のなかで、そっと示唆されるような形で提示されているのだと思うのです。
そういった視点で、最終話で「決着していないように見える」論点について、当ブログなりに整理しておきたいと思います。
1.将也と島田の対決
こちらについては、下記のエントリを見ていただくのが早いと思います。
第58話、では島田問題は決着しなかったのか? 1, 2, 3, 4, 5, 6
簡単にいえば、「将也にとっての島田との決着」は、最終話に至る前に既に終わっていたので、最終話で「決着」を描く必要も必然性もなかった、というのが、この問題についての当ブログとしての理解です。
島田の「突然の裏切り」によって、友情を信じられなくなり、人間不信に陥ってしまった将也でしたが、将也はその問題を「島田と対峙する」ことによってではなく、硝子の助けを借りて、「みんなをちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと話す」ことによって解決しました。
この時点で、将也にとっての島田は「対決し、決着させなければならないトラウマ」から、ただの「過去の人」に変わったわけです。
ですから最終話においても、島田との「決着」が描かれる必要はなく、それどころか扉を開いた先に島田がいてもいなくても、それすらどちらでもいい、ということになります。
ラストで、将也は硝子と手をつないで同窓会会場への扉を開きます。
扉を開くとき、将也はその先にあるものが「辛い過去」だけでなく「可能性」でもある、と確信しています。このことこそが、「島田問題」についての、この作品の決着なのだと思います。
2.将也と硝子の恋愛関係
こちらについても、明確に恋人関係であるという描写もなく、キスもハグもせず、結婚の話題も出てこず、さらにヘアメイクイシダで働く話も出てこなかった、ラストではたかだか手を握る程度で赤くなっている、2年もたってこの進展の遅さはなんなんだ、このふたりはまだ恋人ではないのか、といった意見があるように思います。
でも、このふたりは最終話を待たずにとっくに恋人、というか固い絆で結ばれた人生のパートナーになっていると思います。
それは言うまでもなく、「橋の上の奇跡」での「生きるのを手伝ってほしい」「わかりました」のやりとりです。

第54話、15ページ。
将也と硝子は、どちらもずいぶんいびつな青春時代を過ごしてきた一方で、「人生を生きる」ということについては、そんじょそこらの中年や老人よりもよほど壮絶な経験を積み重ねてきたと思います。
そんなふたりが、互いに相手の存在を「自分の人生にとって必要なパートナーだ」と認識したとき、恋愛とかをいきなりすっ飛ばして、「一緒に生きていく」ことを確認し、確信しあう、という展開になったことは、ごくごく自然なことであるように思います。
それは要はプロポーズなんですが、その意味は「結婚する」ということとも必ずしもイコールではなく、あくまでも、「人生のパートナーとして互いが互いを必要とし、必要とし続ける」ということです。
そこから先の展開は、ここはある意味完全に「ラブコメ」で、「人生のパートナーになると『先に決めてしまった』ふたりが、『世間のフォーマット』にしたがって恋人っぽいことをいろいろやろうとしては恥ずかしがってなかなか先に進めない(パートナーになると決めてるのになんでこんなに全然前に進めないんだ!)」というドタバタ劇を楽しむ展開なんだと思っています。
それが最終話まで、ずっと続いている、と。
最終話で、確かに硝子と将也は恋人っぽくなっていませんし、キスしたかどうかも定かではありませんし、手を握っただけで赤くなってしまうくらい、なんか入り口っぽいところでいまだにうろうろしていますが、でもとっくにふたりは「互いが互いの人生のパートナーになること」を確信して、そうやって2年以上を過ごしているわけです。
そのギャップを微笑ましく見守って楽しむ、というのが、最終話を含む第7巻の将也と硝子の関係の読み取りかたなのだろうと思っています。
3.将也と植野の関係
これについては、最終話の1つ前の第61話で「決着」がついています。
第61話で、植野はこれまで言えなかった過去の過ちについて将也に謝罪することができ、また島田との関係についても将也と語り合うことができました。

第61話、9ページ。
それによって、これまでとらわれていた過去からようやく自由になれ、未来(=上京して夢を追いかけること)に向かうことができるようになったことが植野にとっての「救い」になりました。
最終話で描かれたのは、その後も順調に夢に向かって進んでいて、将也や硝子ともわだかまりなく懐かしい話ができる関係になった、文字どおり「大人になった」植野だったと思います。
4.将也以外の「いじめや誹謗」への罰は?
植野の佐原・硝子いじめ、島田・広瀬の将也いじめ、西宮父家族の硝子や西宮母へのひどい仕打ち、かつての担任・竹内の無責任な行動、さらには西宮母の「身勝手な子育て方針」などに対して結局「罰」が与えられず、みんなのうのうと生きているのは不公正だ、こういった人たちが罰を受けるところを描くべきだった、という意見も当然あると思います。
これについては、今後長いエントリを書くつもりですので、そちらを見ていただければと思いますが、短くいうなら、そういった「さまざまな罪深い人たち」の罪まで背負って、その罪をも償ったのが将也だったんじゃないか、というのが私の考え方です。
そういう意味で、ひたすら罰を受け、それを受け止めて贖罪を続け、最後には贖罪を達成して周囲の人間までをもみな幸せに導いた将也という存在は、物語の中である種宗教的な存在だったんじゃないか、と考えています。
もちろん、「世間なんてそんなもんだ、いじめとかやってる奴はみんなのうのうと生きていて、たまたま将也だけが不運だったに過ぎない」と読み取ることも可能ですが、そういう読み解きかただけではなく、「将也があえてすべてを背負ったんだ」と考えることも可能だと思っているのです。
soraさんのエントリーを読み返し考えるほどに扉の先に、いるかもしれない?いないかもしれない?ロックスターのバンドメンバーとして世界的に活躍している姿もあれば、フランスで薬物に溺れて行方不明になっている可能性もあり。
ある意味「シュレディンガーの島田」
パラレルワールドの先を想像する楽しみを、大今先生が残したのだとしたら、それは未完の構築物を残したアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアような高さと深淵の深みを感じます。
今後書かれるであろう貴サイトのエントリーを楽しみにしています。
ただ、どちらかに「気になる異性」が新たにできて
いい仲になったらどうするんだろ?という気がしないでも。「恋人」ではないんだから「浮気」とは違うよね?ってことになるのかな?
結婚とは限らない・・てことは極端な話互いに別々のパートナーと別々の家庭を築くことになっても互いに互いを必要とするって思っていられるのかな?・・などなどそれはそれで引っかかる点も出てきますね。
まあ、「現代ファンタジー」だからそういう関係もありなのかな?ということで・・って感じですかね。
あの「橋崩壊事件」の直後、「私のやること、いつも裏目に出るね」と嘆き、その後も彼女なりにあがいていた植野が初めて自分の存在意義を認められて、ようやく浮かべた安堵の表情。
すると、あの「ちょっとは自分で考えろ、バーカ、バーカ!」も泣きながらも、晴れ晴れとした爽やかな気持ちになったであろうと思うと、読者の我々も救われたような気持ちになります。
ただ、今の硝子と石田の関係が不自然だったり進行が遅いか?というと必ずしもそうでもないかな?と
私事でなんですが、私も今のカミさんと付き合うに当たってはっきりと告白みたいな手順を踏んだ記憶がなくなんとなく進行していった感じでした。
なんとなくよく一緒にいる相手がいて自然と「デート」 するようになって・・で。実際の行動で相手の感情とか思いはわかる、つまり好きでもない相手と二人でどこか行ったり、誕生日祝ったりなんてしないだろうし・・てことで いちいち劇的な「告白」とかプロポーズとかしないっていうのは別に珍しくもなんともないんじゃないかな?と
そういう意味では硝子と石田の関係は意外と「リアル」なのかもしれません。「ペース」は人それぞれなのは当たり前ですし。
ただ、私の限られた経験上の話ですからね。やはり、きちんと「告白」して「プロポーズ」して・・が一般的なんでしょうかね?
今週は、技能五輪が愛知県でありますが、硝子ちゃんや石田君が岐阜県選手団に選抜される頃、なあ…お互い一本立ちの見透したったしそろそろおれらも独り立ちしねえ? なんてシュチエーションが浮かびました。硝子ちゃん、勘違いして開業の事かと思ってしまいまたもや夫婦漫才…
技能五輪が23歳までですから、そんな妄想をしてしまいました。投げっぱなしで幕をひくとこんなに想像できるんですよねえ…
「シュレディンガーの島田」は、私も少し考えました(笑)。
扉を開くまで、島田がいるかいないかは確定しておらず、それは将也が同窓会場をどう「観測」するかに依存しているのでしょう(笑)。
prijonさんのコメントについては、まさに後半のコメントでおっしゃってるような意味で、硝子も将也も既にお互いのことが大好きで、「最も気になる異性」で、このままいけば間違いなく結婚まで行くのだと思っているのですが、そこに到達するために普通なら先に済ませているであろう「恋愛のイベント」を、逆にあとからやる順番になっていて、それがあまりに遅いところがコメディになっている、ということなのかな、と思っています。
そして、「投げっぱなし」ではないけれども、読者に将来の想像をゆだねる「オープン」なエンディングになっていますから、確かに「この先」について、いろいろ想像できて楽しいですね。(^^)
「2ちゃんねる」をのぞけば、「聲の形」の完結の仕方について、まさに管理人さんおっしゃるところの「投げっぱなし論」がテンコ盛りです。
つまりはこのマンガも、上記の映画製作者たちの溜息と同様の問題にさらされているんでしょうね。
私自身、大今先生の意図するところを「漏らさず汲み取った」とはとうてい言えないだろうなと自認してはいますが(苦笑)、件の人たちには「まあもうちょっと自分で想像力働かそうよ」と言ってあげたいところです。
聲の形でそんなこと言い出したらキリないですよ。
(硝子の手話訳然り、石田母と硝子の対話然り…)
実際回収されずちょっと残念だったところもあります。
じゃあ片っ端から大今先生によって「正解」が提示されたら
それでよかったんでしょうか?
もし仮に硝子の手話全てに「訳」が付いた状態で掲載されたら
それが「絶対」である以上
それ以上のことを考えはしないし、「知りたい」とも思わないでしょう。
訳がついてなかったからこそ
硝子の気持ちを「知りたい」と思い、
手話の本に手を伸ばしたり
ネットで人の意見を見てみたり
自分で色々考えてみたりすることができた。
その結果、「聲の形」を何倍を楽しむ事ができた。
今でも楽しんでます。
解らないことはいっぱいあるし、
知りたいこともいっぱいある。
それでもあえて「正解」を提示しなかったのは
一つ一つの「可能性」を
読者一人一人に考えて欲しいから。
それに正解や間違いをつけることは
それ自体がナンセンス。
私はそう考えています。
大今先生が残してくれた「可能性」
もっと大切にして欲しいなぁと思います。
・結絃が2人の関係を全く気にせず石田をからかってばかり
・硝子の方から「カッコいいね」
・植野「イチャついてんじゃねーよ!」
・嘘がばれた後の植野の「チ」
・幸せな未来を確信してる石田のモノローグ
・石田が照れなく硝子の手を握る
(硝子は赤面してますがこの状況で手を握られたら誰でも照れると思います・・・)
・新郎新婦入場のようなラスト
(・あとこれは深読みでしょうが、石田姉の妊娠、植野川井の指輪、広瀬の子供といった描写)
上のような事から私は2人は付き合ってるんだろうなと思ってますが、感じ方も考え方も人の数だけあるのでどれが正しくてどれが間違ってるとかじゃないですよね。
なので私は自分の感じた見方でこれからもこの作品に付き合っていくつもりです。
あと、管理人さんも書かれているように、島田については映画評論回でもう決着してしまってると私も感じました。
島田と和解できようが拒絶されようが、今の石田にはたいした問題にはならない、そう思います。
なので61話を見た後、もしかしたら最終回は島田は成人式に参加せずに終わるのではと思ってましたが、果たして島田はあの扉の向こうにいるんでしょうか?
色々考えさせられる事の多い最終回でした。
この読後感こそが作者の描きたかった事でしょうね。
当てはまるのは植野とゆづるってことに??(笑)
基本的には良い最終回だったかな・・と思います。
最終回が二年後の成人式っていうのも、この時点だとどのキャラも希望に満ちた未来が信じられる時期で無理なくハッピーエンドにできるし高校時代からそれほどキャラが激変することもないから・・でしょうね。
これが5年後くらいになるとさすがに全員ハッピーというのは強引すぎる、各キャラによって明暗が別れるということも有りうる・・というかその方が自然ですし。
投げっぱなしに見えるラストは収拾がつかなくなって
やっているのか?本当に何か思うところがあってやっているのか?は気になりますね。まあ、インタビューなどによればラストは最初から決めていたようですし
多分後者とは思ってますが。
とはいうものの読者が勝手に想像をたくましくしてくれて盛り上がることも計算してやってる?ある意味楽だし・・という勘ぐりもちょっとだけしてしまいました。
(ごめんなさい、私はファンではあっても作者のやることなら何でも全肯定・・という信者レベルではないので)
これは別作品での考察サイトに書かれていた言葉ですが、これは聲の形や他の作品にも言えることだと思います。
最終話の終わり方があれで良かったのか、足りない部分があったのか(まあ、少なくとも「描きすぎ」ということはないでしょう)、それは読者が自由に判断していいことだと思っています。
ただ、不満だったからといって、作品を誹謗するところまでいってしまっている方を見てしまうと、「いや、それよりはもう少しちゃんと描かれているから、じっくり再読したほうがいいのでは…」と思ってしまう場合も、正直ありますが…。
なんか私も「信者」と呼ばれてることがあるようですが(笑)、ぶっちゃけただの「ファン」だと思っていますよ。
シンプルに、この作品は深読みして考察するといくらでも文章が書けるのでそれを楽しんでいた、というのが自分の心情には一番近いです。
以前も書きましたが、第4巻後半から第5巻前半までは退屈で、このノリが続くなら読むのをやめようか、と思ったこともあったくらいです。
ともあれ、いろいろなことが実は「最終話より前」で決着していて、最終話は全体が「締めのない後日談」みたいになっていたのは事実なので、その「最終話前の決着」を踏まえながら、いろいろ想像を広げられるラストを楽しめればいいのかな、と思ってはいます。
話題になってたので読みたかったのですが、
心象表現に優れた京アニの山田監督の作風のファンで映画が楽しみだったので、敢えて読まずにいました。
読んでみたところ、心に響いて、実に面白かったですね。作家さんの若く熱い想いが溢れんばかりに詰まった作品でした。後半は物語を少し大人として成長していく展開が単調になっていて、物語としてうまく発展させられず、作者さんがもがいているのではないかと感じるところはありましたが、清々しい結末を迎えたと思います。
投げっぱなしというのは的外れだと思います。最後の二人の幾つかのコマを観て、二人の将来的な結婚が暗示されていることを読み取れないのは、読者の皆さんが若いからなのでしょうか……。山田監督はたまこの映画のエンドロールの寄り添う影等でそうした表現を上手に表現していましたので、映画は楽しみです。
実際には大人の関係は難しく、若くして引かれ合うようになった男女が様々な障壁によって別れてしまうということはよくあることなのですが、聲の形は重苦しい展開が続いても、最後は絶対に明るい希望の物語にしたかったんだろうと思います。この二人の関係の深まりによって希望が生まれたからこそ、物語的には紆余曲折を長く続けることはできなくなったのだろうと思います。
作家さんには、ぜひ今後とも様々な難しい人間関係や社会問題を描いた漫画に挑戦していってほしいと思います。いずれ、大人の関係の難しさを、別の漫画で、別の男女で、描いていただきたいと思います。
コメントありがとうございます。
私も同感で、描くべきものはすべて描かれたからあのエンディングなのだと思っています。
おっしゃるとおり、大人になっていくなかで人間関係というのはどんどん変わっていき、壊れてしまうものもたくさんあるなかで、例えばラストで島田との和解がわざわざ描かれたところで、それが「将也の人生とその人間関係」のなかでどれだけの大きさを占めるのだろうか、ということなのだろう、と思います。
大今先生の次の作品、全然話題になってきませんね。
さすがに充電も十分でしょうし、取材が必要だとしても十分な時間はできたと思うので、そろそろ出てきてもいい頃だと思うのですが・・・。
厳密ではないようですが、立て矢結びは基本的には「花嫁の帯の結び」になります。
つんさんが書かれていたように
>(・あとこれは深読みでしょうが、石田姉の妊娠、植野川井の指輪、
>広瀬の子供といった描写)
と言った描写や、入場前に将也と硝子が向き合っているコマで「祝御」とぼかして、はっきり「祝御成人」と分からないようにしていること、
「百合の花」や「扉の描画」など、そういう目で見てみると、想像をかき立てるたくさんの要素が散りばめてあって面白いですね。
将也と硝子はなぜ恋愛関係へと進展しなかったのでしょうね?
それは当然、植野の存在があったからです
西宮vs植野という構図で、勝敗をつけるわけにはいかなかったのです
彼女らを「勝者」と「敗者」に分けることは「善」と「悪」に分ける事に等しいですからね
とくにこの2人では
そんな対立構造と恋愛決着とは別だ、という意見もあるかもしれませんが読者はそうは受け止めません
シンプルに「西宮が正しかったから勝者になったのだ」と受け止めます
とくに少年誌では
この作家さんは登場人物を義と悪に分けることはしないと公言していましたし
またそんな幼稚な勧善懲悪の作品でないはずですし
何が正しくて何が間違っているのかを示すほど傲慢でもないことでしょう
そんなわけで、西宮と植野はどちらも「石田を勝ち取る」わけにはいかないのです
もちろんあの最終話の後も
それでもかなり西宮寄りの終わらせ方だった事には「読者への媚び」を感じて残念な気持ちになりましたが
コメントありがとうございます。
硝子の帯の結び方に意味があるのかも、というのはとても興味深い視点ですね。
ウフコックさん、
コメントありがとうございます。
あのエンディングで、将也と硝子が恋愛関係にないと読み取るのは、非常にアクロバティックで無理のある読み方だと思いますよ。
このエントリで既に述べているとおり、この二人は既に「いつか結婚するのが当たり前」というパートナーシップを結んでいることがはっきり描かれていると思います。
強いパートナーシップと色恋というのは必ずしも一致するものではないので、そこのちぐはぐさをちょっとコミカルに描いている、という側面は確かにあると思いますが。
大今先生のコメントが色々載っていましたね。
・成人式時点で石田の西宮の間に恋愛関係はない
・「生きるのを手伝ってほしい」の時にも石田に恋愛感情はない
・「鯉」は中立の存在の意味を持たせていて「恋」とはかけてない
・大今先生は「月」に夏目漱石由来の意味なんて込めていない
・石田と西宮は近づけば近づくほど死にたくなる関係
・恋愛成就はむしろ石田と植野の方に成就の可能性がある
大変恐縮なんですけど、これは私の勝利宣言です。
このブログは石田と西宮の恋愛的な読み取りについてちょっと暴走気味でしたね。
コメントありがとうございます。
これまで何度か、植野を持ち上げるために硝子を叩くパターンのコメントを投稿いただいていましたが、コメント入力欄の上の注記に書かせていただいているルールに従って、それぞれ削除させていただいていました。ご了承ください。
今回のコメントについては、そこまでではなかったので掲載させていただきました。
そのうえで、公式ファンブックに関連していただいた今回のコメントについては、「人は自分が読み取りたいものを読み取るんだな」という印象です。
逆に私は、植野の将也に対する「恋愛感情」それ自体が実は幻にすぎない(→だからそもそも植野との恋愛を議論すること自体があまり意味がない)、という大今先生の「設定」を、ファンブック183ページの冒頭から読み取っています。
逆に、植野と佐原の恋愛関係は発展中ということも書かれていたので、植野の恋愛の方向性はこっちだな、という印象を持ちました。
まあ、それ以外に指摘いただいたポイントについても個々に反論はできると思いますが、「読み取りたいものを読み取る」ことの応酬をしても生産的ではないのであえて控えます。
ところで、142ページで、大今先生に「植野とくっつけろ」という「熱いファンの手紙」がたくさん届いた、ということが書かれています。
私はこの簡潔な大今先生のコメントから、ネットなどで見かけた、植野と将也をくっつけたいばかりに、硝子はもちろんのこと大今先生までこきおろすようなひどい発言に近い内容の手紙が、大今先生に送り付けられた可能性はないのだろうか、と心配してしまいます。
将也と植野の恋愛の可能性云々は、この「手紙が多数来た」という話とセットで語られているわけですから、「熱い(?)」植野ファンに対するリップサービスとも言えるように思いますね。
将也と硝子との「恋愛」関係についても、実は私は公式ファンブックの内容をふまえても、ほとんど当時の考察とのずれはなく、修正が必要な部分は極めて少ないと考えています。
これは、私と大今先生との間で「恋愛関係」ということばの射程範囲が違うことに起因していると思っていますが、これは書くと長くなるので、改めて稿を立てようかと考えています。
いずれにせよ、互いに「読み取りたいものを読み取って」、「勝ち負け」を決める、みたいな非生産的な議論をするつもりはないです。
まぁ平行線ですよね。
自分としては「硝子と将也をくっつけたいばかりに、植野はもちろんのこと大今先生までこきおろすようなひどい発言」の方がネット上で主流だったように見えましたし。
>「読み取りたいものを読み取って」、「勝ち負け」を決める、みたいな非生産的な議論をするつもりはないです。
同意します。
でもこの作品を読んだ読者をそんな非生産的な議論に発展させない為にも大今さんは100%読み取れるような「勝ち負け」をつけなかったのだ、とは思いませんか?
西宮と植野が双方石田を好きだという設定の時点で読者はシンプルに「じゃあどっちが勝つのか?」という意識に向かいやすいのです。
そしてそれはひいては「負けた方」への人格否定へと繋がりやすい。
これはもう言うまでもないはずです。
少年誌連載で、読者はsoraさんのような大人ばかりではないのですから。
あとは4月のコメントで書いた通りです。
善悪を決める作品じゃないんだから、ということです。
私の個人的な感想ですが、あのラストシーンを読んでしまうと石田君?西宮さん?ああ、そういう関係なのね・・
とつい考えてしまうんじゃなですかねぇ?
特別、頭の中が恋愛に染まっていなくても。
私個人の感覚ですと、あんな公の場で異性と手をつないで入場なんて自分のカミさん相手でも小っ恥ずかしくてしょうがないし、ましてやただのお友達だの関係性がよくわからない異性となんて、単なる親切でもそれこそ躊躇いを感じるところですが、私の感覚って
一般的じゃないのかな?と思えてきたりもしますねぇ。皆様方はいかがでしょう?
私がいい年してウブすぎるだけ?
うーん、将也君はよく自信満々でためらいもなくできるものだ・・と思ってしまいますねぇ。
まあ、これは将也君の成長を示すものだ・・つまり
人の顔を見られない、人とロクに繋がれなかった、ましてや異性相手に気の利いたことなど論外・・だった
彼の進歩を示すエピソードなのだ・・と解釈すべきなのかもしれませんねぇ。
大今さんの「30歳になっても」って石田の将来を語っていますが、なんか「成人式」の描写と相反しているような・・・ それとも「通過点」でしかなく、その後は「成長できなかった」と言う事なのか・・・・
公式ファンブックと最終話は、読者を混乱させるだけなような・・・・
これは、その後を書いてもらわないとスッキリしないな。
最終話のラスト、私はすごい気に入りました。なぜなら、物語の終わり方が「未来に向かって開かれたエピローグ」であるのが好きだからです。この最終話、特にラストシーンが、私が好んで止まない「未来に向かって開かれたエピローグ」に、ど真ん中で的中しているからです。お互いを支え合う存在になった将也と硝子がいずれ(当然のごとく)一緒になることを予感させつつ、ありとあらゆる「可能性」を否定はしていない。心地よい余韻を与えてくれて、読後も作品の世界に思いもままひたることができるようにしてくれる、とても素敵なエンディングを作者は用意してくれた、と感謝の念に堪えません。