それは、映画再開を「失われた過去の修復、夢見ていた理想の世界の実現」であると位置づけた硝子への警告だったと言えます。
橋にたどり着き、これまでの出来事を改めて思い出した硝子は、ついに問題の「本質」に迫る答えを導き出します。
硝子が夢見ていた「理想の世界」とは、現実にはおこりえない「もし私に障害がなかったら」という世界でした。

第6巻157ページ、第51話。
硝子はその「if」の世界にきっと現実では手に入らないような幸せがあると信じ、その一方で、障害をもっている現実の自分を否定し、自分が生きている現実の世界をも否定的に受け止めてきました。
だからこそ、そんな現実の世界の辛さを受け止めきれなくなったときに、自ら死を選んだのだと言えます。
でも、橋でこれまでのこと、将也との出来事を思い出して、硝子は気づきました。
現実にはおこりえない「夢」の世界よりも、障害をもった自分が現に存在する「現実」の世界のほうに、もはやずっと大切で価値のあるものがたくさんあって、たくさんの幸せをもらっている、ということに。
そしてその「大切なもの」のほとんどは、端的にいって、かつて「障害があったから自分に関わってきた(そしていじめた)」将也によってもたらされたものだった、ということに。

第6巻177ページ、第52話。
ここで、硝子にとっての価値観の大転換が起こります。
これまでの硝子の価値観とは、
・自分の障害を否定し、
・障害をもっている自分を否定し、そんな自分が周囲を不幸にしていると考え、
・「もし私に障害がなかったら」という理想世界を夢想している、
そんな、「現実を否定し、自分自身を否定し、それらの存在を受け入れない、肯定しない」というものだったと言えるでしょう。
そこから、
・自分に障害があるということを認め、
・障害のある自分をありのままに受け止め、そしてそれを認めて、そんな自分を隠さずに外に表して、
・それでもこの現実の世界で、必ず幸せは手に入るんだと確信する、
そんな価値観に転換したのです。
シンプルにいうなら、硝子はようやく18歳になって「障害受容」をすることに成功した、ということになります。
これが、硝子にとっての「因果応報のループ」を抜け出すための、決定的なカギになります。
硝子ちゃんよ、それでも心得違いしてないか?聴こえていたら、水門小にいかなかった。石田君とも会わなかった。アンタが夢見た世界でも、音がきちんと伝わってないが。あんな親、聞こえていたって早晩別の問題起こして家庭は吹っ飛んだよ?聴こえないから、いっしょって手話がこれほど大事だったが。今あるもんは、聴こえないから手に入った物ばかり。
因果応報のループから抜け出すのに、壊した物を取り返すんじゃなく新しい自分になる。一度死んで生き返るってこういうことか、と思いましたね。
蛇足ですが、大今さんは新約聖書を読み込んだんでしょうか?魚は、イエスさんの布教時の奇蹟の証とか。あちらはエンゼルフィッシュと言うらしいですが、鯉に似た淡水魚だそうです。知り合いの信者さんからのご指摘を添えさせていただきます。
これを採る漁師だった高弟ペトロの召命のお話とか、説教の時にパンとこの魚を増やす奇蹟を行って集まった民衆を食べさせたとかのお話。水門の鯉も石田君の奇跡を象徴してましたからねえ。
私もキリスト教にはまったくの素人です。
知っている範囲の知識でいろいろと考察しているに過ぎません。
ただ、そういったところを、このシリーズエントリの次のエントリではもう少し書こうと思っています。