2014年11月27日

聲の形における「因果応報」を考える(8)

密かに息を潜めて「その瞬間」をうかがっていた「因果応報」の時限爆弾は、第5話中盤の「橋崩壊事件」で、ついに爆発します。

将也を連れてやってきた橋の上で、植野は小学校時代の一連のいじめについて「みんな同罪、私たちも悪い、だから将也を責められない」と主張します。
これは、小学校時代の学級裁判で将也が主張した内容と、よく似ています。
そしてその結果として、やはり学級裁判と同じような仲間割れが起こります。


第5巻128ページ、第39話。

将也のかつての仲間の輪を取り戻そう(それによって自分の過去も取り戻したい)と考えた植野が、逆に「かつての学級裁判のときと同じように」仲間の決裂を決定的にしてしまったという意味で、ここではまず植野に「因果応報の罰」が与えられていることが分かります。

そしてそこから、将也がこれまでの鬱憤を晴らすかのように暴言を吐きまくり、真柴に殴られて、硝子・結絃を除くすべての仲間関係を拒絶して破壊する「橋崩壊事件」につながりますが、ここはもちろん、将也の因果応報の「爆弾」が炸裂したことを意味しています。
最後に将也が真柴から殴られたシーンは、学級裁判後に将也が島田らから殴られるシーンのリフレインであり、それを硝子が目撃することで、硝子は「呪い」が再発動したことを確認していることになります。

そして、その後のデートごっこから西宮母の誕生日会、花火大会、硝子の自殺決行の流れのなかで、硝子の「爆弾」が炸裂していきます。
もともと硝子は小学校時代、当たり前の友人関係がどうしても作れずいじめを受けてしまうことに絶望して「死にたい」と漏らしたことがあり、この頃に既に「爆弾」は埋め込まれていましたが、それが高3になって発動してしまったわけです。

硝子は、橋崩壊事件の最中には「障害ゆえに」何も理解できず何も対処することができませんでした。加えて、その日の夜に結絃から真相を聞かされ、将也の「自分への」いじめが蒸し返されて橋崩壊事件に至ったことを知ります。

これによって、硝子は「関わった人間を不幸にする」という呪い(罰)がまた発動してしまった、と絶望したことでしょう
そして硝子は、デートごっこのときにそのことを将也に伝えます。(カレンダーの分析によれば、このデートごっこは橋崩壊事件の「翌日」に行われています。)

そして、デートごっこ中に負傷し、「私と一緒にいると不幸になる」と突然告げられた将也は一瞬ぎくりとし、その場ですぐに硝子のことばを否定できませんでした。


第5巻154ページ、第40話。

このとき硝子は、将也も同じように「一緒にいると不幸になる」という意識を共有していることを確信し、自殺を決行してしまうわけです。

これが、第42(=「死に」)話までのストーリーです。
第42話までで、それまでに埋め込まれていたすべての「因果応報」の時限爆弾が炸裂し、将也も硝子も(そして植野も)最大級の「罰」を受け、物語はどん底に到達します
posted by sora at 07:14| Comment(5) | TrackBack(0) | 第5巻 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今更なんですけど、最終回に批判というか物足りなさを感じてる人が多いんですね、特に島田が出てこなかったことに。

ずっとこのブログを追いかけていたので、私は最終回島田が出てこなかったのも「まぁ、そうだよね。」と素直に納得できました。

でももし、ここを見つけていなかったら……
正直色々と“逃げた”作品に見えたと思います。(実際描くのが難しい所は逃げた作品だ、という批判を目にしました。)
実は私はあっさり終わる最終回は嫌いなのですが、この『聲の形』のラストだけは違って、何というか、腑に落ちる終わり方だなと。
間違いなくこのブログのおかげです。

色々な批判を見ていると、大半の人にはこの場面はこう見えていたのか、みたいな発見もあって楽しい笑
深く読み解かないとここまで評価が違う作品も珍しいですね。
Posted by 永束体型 at 2014年11月27日 18:51
永束体型さん、

コメントありがとうございます。

もちろん、当ブログで書いている考察も、さまざまありうる読みかたの1つでしかないですが、少なくともその読み解きかたからすると、ラストでは「描くべきことは全部描かれた」エンディングだった、という風には読めますよね。

たとえば、最終話で「島田との対決」がなかった、と読んでしまうのと、「そもそも島田との対決なんて必要ないくらい将也は成長したから、あのシーンで終わることには必然性があるな」と読むのでは、だいぶ違うでしょうね。
Posted by sora at 2014年11月27日 23:14
島田については、soraさんのエントリでも書かれていたと思いますが大今先生のインタビューで

>頭の中で文章にできない感情を残したまま成長して、卒業して、とくに和解のやりとりもなく、その子たちといつもの関係に戻る。仲の良い子たちだったので、言ったり言われたりすること自体がありふれていて特別なイベントだとは思わなかったです。

という発言がありました。
「和解だけが救いの形ではない」ともおっしゃっていましたし、自身の体験もあわせて対決の描写は必要ないと判断されたのでしょうね。

40話の将也の反応についてですが、以前のエントリで「何を言われたかわからず、きょとんとしてしまった」と考察されていますが、今は「何を言っていたか理解していた」と考えているのでしょうか?
揚げ足を取るような文になってしまいましたが、気になったので;
Posted by おしん at 2014年11月28日 00:10
おしんさん、

コメントありがとうございます。

島田との対決を描かなかったのは、個人的にはこの作品の「もっとも成功した描写」の1つだと思っています。
描かない必然性もしっかり表現されていたと思いますし。

40話の反応については、かつてのエントリをよく覚えていらっしゃいますね(笑)。
はい、改めて全体を読んで、読み解きかたを変えました。
Posted by sora at 2014年11月28日 21:40
おしんさんのおっしゃっている大今先生の発言は
どのインタビューで読めるでしょうか?
Posted by パルコ at 2014年12月07日 16:33
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