ただ、その後の将也は、未来志向ではなく「過去志向」で、「硝子のために、失われた過去を取り戻す」という行動原理で行動してしまいます。
第2巻で、将也は結絃に向かって「硝子のために命を消耗する」という決意を表明しますが、それは将也にとって、自身がからめとられている因果応報のループの「起点」である、「硝子をいじめたという罪」への贖罪によって、このループから脱出しよう、脱出できるんじゃないか、というあがきでもあったと思うのです。

第2巻152ページ、第13話。
でも、「過去」を向いた贖罪は、実はこの物語の中では、因果応報の無限ループを脱出するための「正解」ではありません。
そのことは、物語の後半で徐々に明かされていくのですが、第2巻のタイミングでも、西宮母のせりふが「ヒント」を与えてくれています。
第2巻で、行方不明になった硝子の発見に協力した将也に対して、西宮母は、
「あなたがどんなにあがこうと 幸せだったはずの 硝子の小学校時代は戻ってこないから」
と告げています。

第2巻165ページ、第13話。
このあとの展開で示されていく、将也が因果応報のループを抜けるための方法は、最終的には「単なる謝罪」でもなく、「過去を修復すること」でもなく、「未来に向かって何かを作り出していくこと」だった、ということを、作者はこの時点ですでに西宮母のせりふという形で読者に予言的に伝えているのだと思います。
ここまでが2巻の展開です。
こうやって整理してみると、実は「因果応報」とはどんなものであるのか、どうすれば乗り越えられるのかということについて、将也のケースを使って第1巻から第2巻までの時点で、すでに相当踏み込んだ描写がなされていることに気づきます。
でも、この第2巻で密かに示されている、「過去の修復の先に(因果応報を乗り越えられる)救いはない」という「答え」は、登場人物のすべてに気づかれず、無視されます。
そして、将也のみならず、硝子も、植野も、まさに登場人物すべてが「過去の修復」によって因果応報のループから脱出しようとして必死にあがき、そして究極的には(因果応報の罰による)「すべての崩壊」に向けてなだれを打っていく悲劇が描かれたのが、第3巻から第5巻だった、ということになるのではないかと思います。
ラベル:第13話
「すでに起こってしまった負の出来事」について、その過去をただ埋め合わせるという対処の仕方は、私の経験上から考えても、確かに結局は何も生み出せないんですよね。事の原因となったあれこれを延々考えこんで引きずっていても、本当に大して意味なんてない。
一般的にはトラウマと化した過去の真の克服というのは、新しい友人や先輩や大人たち、そして未知の事物との出会いを通じ、過去にこだわるだけでは知りえなかったろう別の世界と人生の可能性を知って一歩を踏み出すこと。
そして、それらによって自分の人生におけるその「過去」の意味づけを根本的に変えることだ、と私は思っています。
ただ石田たちの場合(特に石田と硝子)、新たな人物たちとの出会いばかりでなく、「トラウマの元凶」たる小学校時代の友人・教師たちとの、一定の「凍結期間」を経たうえでの直接対話と関係の再構築を試みることに相当のエネルギーを費やしています(管理人さんのエントリが語るように、ベクトルとしてはおおかた誤ってはいたのですが)。
ですがついにはそれを糸口に、自分たちの見ていた世界への視座そのものを肯定性と可能性を帯びたものへと変化させることに成功し(すなわち「気づき」なのでしょう)、結果自身ばかりか周囲をも変革しえたわけです。
現実ではめったにとられない、フィクション故のチョイスだとは考えもします。
それでも彼ら・彼女らのようなチョイスは、実に理想と勇気に満ちた行動であり、かつまぶしいほどに羨ましく思えるのです。
コメントありがとうございます。
この作品のなかで、「過去への対峙」というのは、過去をやりなおすということではなくて、過去をもう一度「現在」の視点で見つめなおすことで、当時固定的に見ていた視点から自由になって、「当時はこんな風に思い込んでいたけど、いま見てみればそんなことでもなかったんだな」という風に、「意味づけを変える」ことに意味があるんじゃないかな、と思っています。
硝子との再会にしても、島田との再会にしても、竹内との再会にしても、そういうところがある気がしますね。