ところが将也は、島田ではなく、硝子の助けを借りることによって、みんなのバッテンを外すことに成功してしまったのです。
第57話、11ページ。
バッテンを外せた、というのはあくまでもまんが的に表わされた比喩的な表現であり、より端的にいえば、将也は周りの人に対して、心を閉ざさずに、基本的信頼感をもって接することができるようになった、ということになろうかと思います。
加えて、それは「いま」と「過去」の価値観の逆転の解消にもつながったでしょう。
これまでの将也は、「孤立して他人に心を閉ざしてしまっているいまの自分」と「たくさんの仲間とともに子ども時代を謳歌していた過去の自分」とを比較したとき、実は「過去」のほうに高い価値をおいてきた側面がありました。
だからこそ、遊園地回で島田と会ったときに「かつて親友だった」ということを思い出したい気持ちと忘れたい気持ちで葛藤して「死にたくなる」と思うところまで気持ちが落ち込んでしまったわけですし、硝子に対しての贖罪としての「かつて奪ったものを取り戻す」も、実は将也自身にとっても「失われた過去の自分を取り戻す」試みだった部分があったわけです。
無意識のうちにそういう思いがあったからこそ、気がつくと「橋」に小学校のころのメンバーが勢揃いしてしまったという側面も、第3巻あたりの葛藤を改めて読むと否定できません。
そんな「現在よりも過去に価値を置く」という将也のメンタリティも、昏睡から目覚めたあとの硝子との橋での再会からバッテンを取るまでの過程で変化し、いまここにある関係(硝子との関係、映画メンバーとの関係、クラスメートとの関係)を真に大切なものとして感じられるようになったのではないかと思います。
そうなると、これまでの将也が心の奥底で大切に大切に思い、渇望していた「かつての友情」の象徴としての島田の存在も、(乱暴な言い方をすれば)いまの硝子や映画メンバーらの存在に取って代わられ、ある意味「特にどうでも良くなってしまった」のではないでしょうか。
このように、「島田と決着をつける」ことでしか解決できないと思っていたことが、結果的に島田抜きで解決できてしまったことで、将也にとっての島田は、急速に「過去の人」になっていったのだと思います。
だから今回、突然島田に会うという遊園地回とそっくりなシチュエーションになったにもかかわらず、将也はほとんど動揺することもなく、去っていく島田を見送り、そのまま映画メンバーの会話に合流し、ファミレスでの反省会に突入していきました。
ファミレスの場面では、すでに島田と会ったということすら意識のなかから消えてしまっているように見えます。
第58話、18ページ。
こんな風に、「将也にとっての島田が、ただの『かつての友達』になった」ということ、このことこそが、「将也がついに島田との決着をきれいに終わらせた」ということを示しているのだ、と考えずにはいられません。
作者は、島田との派手な対決シーンを「あえて」用意しないことによって、島田との決着をこれ以上ないほどはっきりした形で表現した、私はそう考えたいと思っています。
(まあ、このあと再度の決着場面がないとは言い切れませんが…(笑))
首肯し得ると思うのですが、
島田が島田自身を、そして島田の周囲のことを
どう感じているか(感じていたか)については、
たぶん描写として未完だと、自分は思います。
狂言回しが石田固定である必然性は
物語後半なくなってますし、その理由は
こん睡状態の石田にはその役割を与ええないから、
という消極的理由だけではないと思います。
それぞれの若者の「聲の形」を暴露するという
このマンガの本質に迫りつつあるときに
初期のような舞台装置の単純な提示者(石田)の
設定が器として小さくなってしまったという
積極的理由があると思うのです。
ゆえに、植野や川井らのように島田の内心も
おそらくは残りの話数で多少語られるのではないか、
という正反対の予想を自分は立てています。
あくまで私見による予想ですが。
いずれにせよ、正解は数か月内に判明します。
愚にも付かなかったらゴメンナサイ。
コメントありがとうございます。
そうですね、このエントリで書いたのは、あくまで石田からみた島田についてです。
島田からみた物語は、このエントリでは書いていませんし、またまんがのなかでも明示的には(植野回のちょっとした会話くらいしか)描かれていません。
ただ、島田は高校編においては、これまでの物語でも「将也にとっての舞台装置」としてしか登場していませんし、映画メンバーのような意味で「内面が描かれる」ことはもうないんじゃないか、と私は思っています。
ちなみに、これまでの描写からでも、いちおう「島田の物語」は描けなくもないので、それについてはエントリを書いてみようかとは思っています。
今回島田は植野におせっかいはやめろと言っていますが、島田は植野のしたことを、将也ではなく「島田への」おせっかいと捉えて話しているように聞こえます。
植野は口が固いので何も言いませんが、植野は実は、「島田も将也へ何らかのわだかまりを抱えている」ことを知っているのではないか?と思えてなりません。もちろん将也の抱えていた島田へのわだかまりとは異なるでしょうが。
物語での役割の点から見ると、「片手間」という格好のつけ方や、人との距離感を大切にすることなど、ここにきて作者が島田を使って新しい価値観を投入しようとしているようにさえ思われます。
普通の少年漫画なら、新しい価値観と直面した主人公サイドの葛藤と成長が描かれるのでしょうが、果たしてその尺があるかどうか…少なくとも残りの話数の中で、島田の投入した価値観への何らかの回答があるのではないか、と思っています。
コメントありがとうございます。
私は、島田にとっての「将也との物語」は、転落を救出した時点で終わったんじゃないだろうか、と思っています。
これは別エントリで書いているのですが、島田は、植野が続けた後半の硝子いじめも将也のしわざだと思い込み、「あれだけ罰せられたのに反省せずにいじめを続けて硝子を転校にまで追い込んだひどい男」と認識していたのではないかと私は考えています。
そう考えれば、島田が中学入学早々、将也について「いじめで女の子を転校させたひどい男」と言いふらしていた理由もはっきりします。
そして、そんな「許せない」と思っていた将也が、わざわざ硝子に謝りに行った(と植野から聞いた)と知り、少し許してもいい気持ちになっていたところに、さらにあの転落事件での将也の献身に遭遇し、将也のことを許す気持ちになったんじゃないかと思っています。
でも、もう将也との関係を再開するまでの気持ちはないから、硝子にも「石田に言うなよ」といい、植野にも「おせっかいはやめろ」と言っているのかな、と思っています。
それでも、かつての仲間だという意識はありますから、ギャラを取りに現れたときに、「相変わらずダサい」将也の姿をみかけて、少し懐かしい気持ちも含めて声をかけたんじゃないかな、と思っています。
だから、島田にとっても「将也との物語」は、第58話をもって完全に過去のものになったんじゃないだろうか、と私は感じています。
決着がつくとしたら、将也が一発殴って「あばよ」的な感じかと予想していました。
それが、「気がついたらどうでもよくなってた」なんて!
小説を漫画化するような形なら可能でしょうが、普通に連載してするなんて驚きです!
きっと1話から意味のない描写や表情なんて全くないのでしょうね!
終わって欲しくないけど終わって欲しい…
そんな気持ちになった初めての漫画です。
コメントありがとうございます。
第59話で話題が進路のほうにがらりと変わったところをみると、どうやら本当に島田は「あれっきり」のようですね。
こういうところは本当にすごいまんがだと思います。