2014年10月14日

第56話、映画のシナリオについて、いろいろ考える(7)

さて、映画のシナリオについて考えるということでいうと、やはり「本丸」は、「この映画はなにを表しているのか、(聲の形の世界のなかで)現実に起こったこととどういう対応、対比をみせているのか」というところの考察でしょう。

これには2つのレイヤーがあると思われます。

1)このシナリオには、「物語のなかで」映画参加メンバーのどんな思い、意図が込められているのか。

2)このシナリオには、「メタ視点で」聲の形ワールドのなかで起こったイベントとどのように対応づけられていて、作者のどんな思い、意図が込められているのか。


この2つは分けて考えないといけないですね。

ここでは、まず1)についてざっと考えてみたいと思います。(そのうえで、エントリを分けて2についても考えたいと思います。)

まず、シナリオのベースを書いた川井の意図は、すでに前のエントリでふれたとおり、映画のなかでも「いじめという罪には必ず罰が与えられる。後悔するくらいなら最初からいじめをやらなければいいんだ」という、川井自身が強く持っている「公平世界信念」を明確に示すことにあった、と考えられます。


第5巻124ページ、第39話。

次に永束ですが、これも既に書いたとおり、彼が映画のなかで表現したかったのは「ずっと続く友情」だったと思います。
いじめっ子といじめられっ子の関係が、「本来は親友だったのに、浅はかなからかいの気持ちでその関係が崩れてしまうが、それでも友情は最後まで続いていた」という形で描かれているのは、明らかに永束によるシナリオの修正によるものでしょう。
真柴や川井からは、その部分について「共感できない」と評されていますが、ここは永束としては譲れない部分だったんだろうと思います。

そして真柴ですが、当初はいじめられっ子がいじめっ子を殺してハッピーエンド、という余りに単純な勧善懲悪物語を志向していたと思いますが、橋崩壊事件で将也を殴ったけれども「すっきりしなかった」という経験から、シナリオを修正した可能性があります。
いじめっ子を刺したあとの主人公がやはり成長して自殺しようとした理由は、もしかすると当初は「逮捕されて人生を棒に降ったから」だったかもしれません。
でも、映画では「いじめっ子を刺した行為自体が正しいものだったか自信がない、気持ちが晴れない」ということが再度の自殺の動機になっています。
ここは、橋崩壊事件後に真柴が思うところがあってシナリオを修正した、と個人的には考えたいポイントです。

そして硝子です。
硝子は今回、目撃者として映画に出演しましたが、映画の中身に口を出した形跡は、どうやらなさそうです。
橋崩壊事件前は受動的に参加していただけでしょうし、橋崩壊事件後、自力で映画撮影を再開しようとした後も、おそらく自分が映画の内容に口を出すのではなく、「みんなが撮りたかった映画をそのままの姿で完成させる」ことを目指していたのだと思われます。
ですから、硝子によるシナリオの改変は「なかった」と私は考えます

というわけで、1)の視点からは、この映画は、川井・永束・真柴の思いが反映されたシナリオになっている、と考えられます。


ラベル:第39話 第36話
posted by sora at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする
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