なお、この「答え」は、現在までで分かっている描写からの推理ですので、今後の展開次第で正解が変わってくる可能性はあると思います。
さて、改めて確認しておくと、こちらのカレンダーから、ノート池ポチャで「死にたい」と結絃に漏らしたのが9月中旬、学級裁判の日に親同士の示談があり、その際将也が落ち着いた様子の硝子と会うのが11月下旬と推測されます。
この1か月半の間に、硝子は(少なくとも当分自殺しないような感じで)立ち直っています。
その間、学校で何があったかといえば、将也を中心としたいじめが続いていて、補聴器を繰り返し壊されているので、学校での人間関係が改善したということはまったくありません。
また、高校編等でのやりとりで、ノート池ポチャによって硝子は「何かを諦めた」と言っています。
つまり、これらを整理すると、
・池ポチャ事件で硝子は何かを諦めたけれども、
・学校以外の環境のなかで、「死にたい」というほどの精神的ショックからは立ち直った。
ということになります。
ここで、示談の日の硝子の様子を見て、気づくことがあります。

第1巻133ページ、第3話。
硝子は、鳩にエサ(パン)をあげています。
そのエサは、ポーチに入れてわざわざ持ってきたもののようです。
しかもそのポーチは、中身からいってほぼ「エサ専用」で、かつ「しょうこ」という大きなひらがなの名前と、チューリップにニコニコマークのアップリケが入った手作りのもののようです。
そして、その後の硝子の行動をみると、
・クラスの花当番(小学校時代)
・持ってきている花はニチニチソウでした。
・ガーデニングの趣味(~高校時代)
・手話サークルでも花の本を読んでいます。
・メールアドレスはニチニチソウ
・手話サークル後の鯉のエサ係(~高校時代)
と、動植物との関わりばかりが出てきます。
一方で、この「死にたい」以前については、後の巻での結絃の回想も含めて、動植物とのかかわりが一切ありません。
つまり、動植物とのかかわりは、「死にたい」をきっかけに始まっている可能性が高いことになります。
これらの状況証拠から推測されることは、
1)西宮祖母が、(恐らく結絃経由で)硝子が学校でいじめられて精神的にまずい状況だということを知り、「動植物と触れ合う」ことを硝子にすすめた。
2)硝子は、クラスメートと積極的に関わることを『諦めた』代わりに、動植物と触れ合うことで精神的な安定を取り戻した。
という経緯です。
そして、このような形で「動植物とかかわることで精神的安定を手に入れる」ということがその後も続いていったことで、硝子はガーデニングを趣味として、手話サークルのパン当番を率先して引き受けたのだと思います。
具体的に、西宮祖母が硝子のためにやってあげたことは、以下のようなことではないかと推測されます。
・「しょうこ」アップリケの入った小さなポーチを手作りした。
・そのポーチにパンを入れて公園などに出かけ、ハトなどにえさやりをさせることを教えた。
・ニチニチソウの苗を買ってきて、自宅で育てることを教えた。(ニチニチソウの花言葉は「揺ぎない献身」「楽しい思い出」「友情」)
・育ったニチニチソウを学校に持っていき、飾ることについて学校から許可をもらった。
さらに言えば、
・結絃から「姉のために写真を撮りたい」とせがまれて、一眼レフのカメラを買い与えた。
というのも加わりますね。
動植物がヒトと違うのは、ことばによるコミュニケーションがなくても関係を作れることです。
これまでもいろいろ考察してきましたが、「諦めたこと」の1つの解釈として「ことばを交わしてコミュニケーションすること」という見方もありえるのかもしれません。
そして、ハトや鯉が与えたエサを喜んで食べてくれたり、一生懸命世話をした植物が花を咲かせたりすることで、硝子は最低限の自己肯定感を取り戻し(「死にたい」→「必要とされるなら嬉しい」)、自殺念慮をいったん遠ざけることに成功したのだと思われます。
このような祖母のアプローチは「生」によって死を遠ざけており、「死」を見せつけることで死から遠ざけようとした結絃のアプローチとは対照的です。
こう考えていくと、同じ時期、いじめを受けていた将也の世話を細々と続けていたのも、「自分のせいでいじめられているから」という贖罪意識だけでなく、「クラスメートと言葉は交わせなくても(筆談ノートももうないので)、それでも自分がみて分かる範囲、必要とされる範囲で何とかみんなとかかわろう」という必死の挑戦だったのかもしれません。
だからこそ、(既にことばが伝わる手段がないのに)「腹の底の気持ちを言え」とか理不尽に言われてしまった将也に(これも聞こえてはいないはずですが)「ほりぇても かんぱってう!」と反抗したのかもしません。
また、これはやや拡大解釈気味ですが、実は硝子が猫ポーチのお返しにガーデンピックを選んだのも、単なる趣味のアイテムというだけでなく、もう少し深い意味があったのかもしれません。
つまり、このガーデンピックをきっかけに「なぜガーデニングが好きなの?」という会話になったとして、もしその段階(もしくはそれより後でも)で二人が過去のトラウマまで話せるくらいの関係になっていたら、「諦めたもの」の根っこと「ガーデニング」が実はつながっているんだ、ということを話すつもりがあったのかも、ということです。
ラベル:第03話
動植物を育てる事を「自分の役割」とする事で、自分が死んでしまうと動物たちも世話できない、という自分の生きる意味をそこに見出していたのかもしれないですね
その考えや行為を将也に「変な事」と一蹴され、微妙な表情をした硝子自身も空回りに気がついていたのかもしれないです
わざわざお葬式で再登場させておばあちゃんとの繋がりが明言されてますし、合唱コン以降彼女も責任を感じてたのかもしれませんね
はい、第2巻で最初に「必要とされるのが嬉しい」と硝子が言っているのは、今回のエントリの読み解きとつながっていると思います。
思えば、合唱コンクールでもそうでしたし、そもそも転校してきた硝子の存在そのものが、あのクラスや担任の竹内にとって「必要とされていなかった」という悲しい経験があるわけで、そこから立ち直っていく過程で、「自分が必要とされている場所を見つける」ということは大きかったんだと思います。(それが動植物だったということなのでしょう。)
喜多先生は、おばあちゃんとの連携で何かをやっていたかもしれませんね。
硝子も他人を見る目は鋭そうなので、「死にたい」みたいな深い絶望を喜多先生に話すことはなかったと思いますが、おばあちゃん経由で、学校の中に役割を作っていこうということで「花当番」が割り当てられた、ということはありえると思います。
この場面、硝子の態度はちょっと冷たいように感じられ、二人の関係はどうだったんだろうか、と少し気になるところではありました。
が、本件のエントリの推測のように、実は精神的にどん底だったときに救いになっていたのだとすると、硝子は一見平静な態度の裏で非常に強いショックと悲しみを抑圧していたということになります。
とすると「泣かないなんて偉い」という励ましは、ずれているにもほどがある、ということになりますが、それを言ったのがあの喜多先生というところが、あまりにも絶妙すぎて思わず苦笑いです。
コメントありがとうございます。
4巻の番外編では、硝子は祖母の死に対して涙を流していますね。
ですから、喜多先生のお世辞はあまりにも的外れですが、まあ喜多先生はそういうキャラとして描かれているので(^^;)仕方ないといえば仕方ないでしょう。