「聲の形」の連載版は、基本的に視点が将也からのものに意図的に限定されていて(作者がそれを明言している)、それだけでは描ききれないシーンを描くために、補助的に「結絃視点」だけは例外的に許されている、ということはこれまでも何度か触れてきました。
それに対して、先日の第41回の花火のシーンでは、異例にも「神の視点」が突然採用されたということについては、先日エントリ書いたとおりです。
今回、第43話は、前回の次回サブタイ煽りで「西宮硝子の話」となっていたので、「いよいよ硝子視点クルー?」と期待?されていましたが、例によってサブタイ詐欺で、将也視点での前回エンドからの続きでした。
でも、今回、視点の移動がなさそうに見えて実は違っていて、よく見ると将也でも結絃でもない新しい独自視点の場面が描写されていることに気づきます。
それは、ラストの1ページです。

第43話、18ページ。
石田母がどこかから(たぶん病院)電話を受けるシーンから、病院で泣き崩れるシーン。
これは、どう見ても将也視点でも結絃視点でもなく、「石田母視点」ですね。
さすがに、この場面では二人の視点とも明確に「使えない視点」になっていますから、こうするほかなかったのでしょう。
そう考えると、次回以降も「視点の縛り」はかなり物語の進行を難しくしそうですから、また別人視点も出てくるのかもしれません。
まあ、「視点固定」というのは必ずしもまんがを面白くするわけではないので(前も書きましたが、葬式編はもっと素直に西宮母視点・祖母視点でよかった気がします)、個人的には視点変更は全然気になりません。
確かにこれからの展開を思うと、将也視点だけでは無理があると自分も思います。
今回の石田母の視点のように、他キャラの視点とかでところどころ書かれるのか、もしくは神の視点で書かれるのか…
でも未回収のフラグを回収しようとするなら、他キャラの視点が必要なんじゃないかな、とも思います。
床屋で電話を受けたシーンと思っていました(石田のこと)
ということは、電話の内容は西宮が別の病院に搬送されてて死んだという事でしょうか?
どうぞよろしくお願いします。
26話での太陽女子学園内での植野と佐原とのやり取りは完全に植野視点ですし、32話の西宮母&祖母と西宮父&両親との離婚のやり取りは西宮母視点でしょう。
今後は、視点固定は少しずつ緩んでいくんじゃないかな、と私も思っています。(実際、未回収の伏線を効率的に回収するにはそれが一番の近道でしょう)
4巻買ったよ ( ^-^)/さんのおっしゃってるシーンは、43話の最後のページですよね。
このページの最初のコマ、石田母が左手にスマホを持っているように一瞬見えるんですが、これ、既に病院にかけつけて、看護師から将也が転落したという事情を聞いて驚いているアクションなんですね(スマホ持ってません)。
26巻の植野と佐原のやりとりは「植野が話しているのを将也がイメージしている」映像ととれるので、「将也視点」の一種といえます。(ここで「視点」というのは、「その人物が認知しうる場面、情報か否か」ということなので、カメラの位置は自由なのです)。
32話の離婚のやりとりは、西宮祖母の手紙に書かれていた内容を西宮母が読んでいる、ととらえられます。これは結絃が手紙を捨てなければ結絃が知りえた情報なので、「結絃視点(もどき)」と私は解釈しています。(まあ、こちらは確かに「西宮母視点」と言ってもいいとは思います。)
ありがとうございます ( ^-^)/
実際には将也はその場にいないですが、上段コマで将也がしょぼんとしているシーンで「あーあ、今頃は職員室前の掲示板で俺のこと貼りだされてるんだろうな」となっている訳ですから。
そうですね。
あれも確かに将也はその場にいませんが、あの掲示自体は学校を出る前に見ているでしょうから、(その瞬間に見えていなくても)情報としては分かっていると言えます。
その「将也が当然分かっている情報」を、「まんがの世界のカメラ」が撮影している(=まあ将也視点と言える)、ということになるのだろうと思います。
硝子の上靴(余談ですが私の地域では上履きと呼んでいました)に草を詰められているシーンなどがあって
視点固定については割とゆるいですね
コメントありがとうございます。
第1巻の植野の視点は、将也も「見ようと思えば見れる」くらい近い場所で起こっているので、まあぎりぎり「将也視点」、というのが私の(このまんがにおける「視点」についての)考えかたです。
同じ意味で、硝子が受けていた地味ないじめも、硝子視点で描かれつつも、「将也から見える範囲のいじめ限定」になっているように思います(実際にはもっと陰湿ないじめが続いていたように思います)ので、これも「将也視点」かな、と。
ちなみに私の子どもの頃も「うわばき」と呼んでいましたね。(^^)
将也・結絃視点が多かったのは作者がそう意図したというよりは、硝子の心情の直接描写を意図的に避けた事による結果論だと認識しています。
それよりも大事な事は、モノローグ(独白)の有無ではないでしょうか。
その点では、将也以外に唯一(だと思っていますが間違っていたらご指摘ください)モノローグが許されている結絃の物語もこれからしっかり描かれるはずで、残り2巻で本当にしっかり収束するのか気が気ではないです^^;
コメントありがとうございます。
連載では視点を将也に固定して新しい味わいを出したい、というのは、大今先生がはっきり言っていることですね。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130807/E1375808157611.html
もちろん、モノローグと視点はセットだと思っています。
そして、その意図は、おっしゃるとおり、「硝子の内面を徹底的に隠して、外から想像するしかない状況にすること」だと思います。
なにせ主人公とヒロインが同時に大打撃を受けて、あの場にいないので、必然的に視点が変わる必要性があるので
というか、私はこれをいわゆる「神の視点」だと思ってた
一見石田母っぽいけど(顔が見えないせいでわかりづらいが)石田姉視点っぽくもあるので、さらにわかりやすくいうと「作者視点」だとも(登場人物というより、完全な傍観者っぽい)
さて、真相はいかに..............
レスにある植野視点、これは石田視点だと思うんですよ。理由は「すぐそばに」石田がいるから・・・つまりあれは、「石田視点で植野を見てる」
コメントありがとうございます。
後半でおっしゃってる「1巻の植野視点=将也視点みたいなもの」というのはまさにそのとおりです。
そういう意味で、将也視点にも結絃視点にも翻訳できない視点として、先の花火大会の「神の視点」そして43話の「石田母の視点」があると思ってます。
石田母の視点といわずに神の視点といってもいいのですが、43話の視点は「石田母の視点と考えてもOK」なのに対して、花火大会の視点は「神の視点以外考えられない視点」なので、いちおう分けたほうがいいかな、と思っています。
↓
やや俯瞰して撮る
というあまりやらない流れで神かと思ってましたよ
実はこれ、死んだ、
或いは死に掛けで幽体離脱している石田の視点だと最初思ったんですよ
でも普通に生きてたので、神か母かですね
(・・・もっとも、幽体離脱はこの漫画では、「世界観」が違うか・・・)
コメントありがとうございます。
確かに、石田母のアップのあと病院全景なので、将也の霊の視点かなと一瞬思いましたが、実際には高いところからのカメラはこれまでも普通に使われているので、普通に人間視点(=石田母視点)でいいのかなと思っています。