2014年07月04日

硝子は「天使」ではないのか(あるいは、硝子をどう理解すればいいのか)?

いつかこの方向性のエントリを書きたいと思っていて、ようやく書けそうな感じになってきました。

私は連載初期、というか読み切りを読んだ頃から、西宮硝子が「天使のような」存在である、という評価はしてきませんでした。
それを言うなら、「天使のように見える」存在だろう、と。
硝子は、将也から小学校時代に言われ、連載では植野や結絃からも遊園地編で言われたように、「腹の底にある気持ちを言わない」で笑顔でごまかして生きてきているし、その「腹の底の気持ち」ゆえに、なぜか悲惨な環境でも周囲に献身的な「天使のようなふるまい」をするのです。

私はこれまで、硝子が「天使のように見える」振る舞いをする理由は、(母親が望むように)健常者社会に適応して生きていくために、処世術としてそういう「善良で誠実で反抗しない障害者」を演じていたから、という、まあ障害者問題をリアルにとらえた場合に常識的に考えられる理由を想定していました。
そしてそれは、必ずしも間違っていないと今でも思っています。

でも、当初は作者は否定していると思っていた(仏教的概念である)「因果応報論」がここへきて将也を押し潰すくらい強くなってきていることや、石田家に「マリア」「ペテロ(ペドロ)」がいて、キリスト教的モチーフが取り入れられていることに気づいたことから、ここには単なる障害者についての社会的問題を超えた、フィクションとしての、より重い(ある意味宗教的な)意味づけがなされていそうだ、と考えるようになりました。

では、硝子は「天使」ではなくて、何なのか。
「天使のように見える」振る舞いの下に隠されていた実像とは、どんなものなのか。

それは、生まれながらに呪いをかけられ、その呪いを解く力が自分にはないという無力感に絶望し、その呪いによる周囲の不幸への贖罪だけに人生を捧げている「運命に見捨てられた無力な人間」
それが、フィクションとしてのこの物語における、硝子の実像なのではないでしょうか。

ここでいう「呪い」とは、「周囲にいる人間、自分が近づいた人間を不幸にする」という呪いです。
硝子というキャラクターに対する否定的意見として、「(硝子と)深く関わった人間ほど不幸になり、さっさと見限って切り捨てた人間ほど平和な人生を送っている」というものがあります。
現実社会で特定の個人に対してこれを言ったらヘイトスピーチですし、本人の悪意のないところに起こる問題を本人の「責任」にするのはナンセンスです。
でも、フィクションであるこの物語の場合、実際問題として「硝子に深く関わった近しい人間は皆不幸な目にあってしまう」ように描かれており、硝子が物語の神(あえて大今先生とは言わないでおきましょう(笑))から、そのような運命を背負わされていることは否定できません。

そして、少なくとも現時点では、この呪いは、何人たりとも絶対に逃げられない、逆らうことも抗うこともできない、という絶対的な強さをもって物語を覆っています。その呪いに10何年もの間さいなまれ続けてきた硝子には、その呪いに対して、もはや無力感と絶望以外なにもないのは当然のことでしょう。

その運命(呪い)のあまりの重さに、硝子は周囲から受け続けるさまざまないじめも「自らのもつ呪いへの罰」として受け止め、怒ることもなく、またそれだけの仕打ちを受けていても「まだ贖罪が足りない」という認識から、周囲への献身的行動をとっていた、そう考えると、硝子の「天使のような」振る舞いの理由がうまく説明できるのではないでしょうか。

そんな、無力感からすべてを諦めていた硝子のもとに突然現れたのが将也です。
再会後の将也が単行本2巻から5巻前半にかけてやっていたことは、端的に「硝子にかけられている呪いを解こうともがく」行為だったと整理できます。
そこに希望を見いだし、同時にそこに将也への好意をも見いだしていた中での「橋事件」。
事件の原因と経緯を結絃から聞いた硝子は、「やはり、呪いのなかで戦ってくれた将也も、最後は自分の呪いに勝てなかったのだ」と、更なる絶望にとらわれたことでしょう。
そして、その呪いで大好きな将也をこれ以上滅ぼしてしまう前に、自分が消えることを選んだ、という流れが見えてきます。
ところが、この硝子にかけられた「呪い」は、やはりそんな硝子の行動を軽く超越する強さをもっていて、硝子が死のうとしたら代わりに将也が転落してしまう、という形で、またもやその邪悪な力を見せつけてしまいます

そういう意味で、将也は将也自身ではなく、むしろ硝子の運命に試されている、ということができます。
残り2巻のなかで、硝子について展開される最大のテーマは、この「呪い」をどうやって解くのか、これに尽きると思います。
ここまでひたすら、この呪いが「自分ひとりではどうにもならない」ということが示されてきたわけですから、この呪いを解くプロセスのなかでは、将也の存在が非常に大きなものになっていくことでしょう。
単に恋愛関係になる、というよりも(それはそれであっていいですが)、もっと濃密な二人の物語があって、そのなかでこの「呪い」が劇的に解かれていく、そういう展開をぜひ期待したいと思います。

ちなみに、この視点で植野を見るとなかなか興味深いです。
植野のいう「西宮さんがこなければみんなハッピーだった」は「物語の神」がやっていることをふまえれば真理であり、本質を見抜いている部分があります(リアルで言ったらヘイトですが)。
そして、将也が「硝子の呪い」に取り込まれて滅んでいくのを、何とか自力で救おうとしているのも植野であり、ここもある意味「将也のためを思って『この物語』のなかで奮闘する行動原理」としては本質をとらえています。
でも、植野が将也に対してやろうとすることは、すべて失敗に終わります。
それはなぜかというと、植野が所詮「神(による呪い)に逆らう(ただの)人間」という位置付けだから
硝子が自ら「呪い」を解くことができない無力な存在であるのとまったく同じ意味で、植野もまた、いちどかけられた将也への「呪い」を解くことができない、無力な「人間」として描かれているわけです。
そして、「人間としての将也」もまた、橋事件が示すように、「硝子を中心に回る呪い」を司る神の力の前に無力でした。

第43話の時点で、物語は「イマココ」です。
もしここから、硝子の身代わりとなって転落し、自らの「からだ」と「血」を捧げた将也が復活してきたとすれば、ある意味「呪いと戦って生還した」ことになるのではないでしょうか。
だとすれば、こんどこそ、物語全体を暗く包むこの「呪い」を解くための道が示されていくのかもしれません。
posted by sora at 21:32| Comment(7) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。

「禁じ手」と私自身自戒していたはずですが(苦笑)…宗教的モチーフ(とりわけキリスト教)と「聲の形」の相通ずる点というところで考えると、管理人さんのご見解は「ヨブ記」を想起させますね。
もちろんテーマそのものはまったく異なりますが、少なくとも「何人たりとも絶対に逃げられない」呪いのもとで「運命に見捨てられた無力な人間」の物語である、という一点において。

最近管理人さんのツイートを拝見する機会があったのですが、硝子の自殺未遂エピソードをきっかけに、彼女のキャラクター像に対する否定的な見解、「硝子叩き」ともいえる状況が急に広がったことへの憂慮を示されていましたね。このエントリは、おそらくそういう状況への反論としてアップされたのでは、と勝手に想像しています。

もちろん私も、硝子の自死という選択そのものを肯定・称揚すべきでないとは思います。が、「自殺は家族身内への裏切り」的一般論や「メンヘラ」呼ばわりの中傷などをふりかざすことで、自死という「解決法」への短絡を可能にさせた硝子の無力感と絶望について論じることを封殺するような言説は、あまりに無思慮だと考えます。

「運命に見捨てられた無力なる者」の心の内について、もう少しだけ想像力を働かせてほしいと、切に願います。
Posted by ブラウニング at 2014年07月05日 12:35
ブラウニングさん、

コメントありがとうございます。
お気遣いありがとうございます(^^;)。

「自殺は無条件に悪い」「迷惑をかける(からダメ)」というのは、端的にいって強者のマッチョな論理だと感じています。
それは、リアルの世界でもし言ったとするなら、限りなく「鬱は甘え」と言っているのと同じになってしまいますから。

加えて、これはフィクションなので、そこに込められた作者の意図、物語の背景をふまえた意味をまず考えるところから始めないと「読み解き」には到底ならないと思うんですね。

そういった読み解きをいったん踏まえたうえで、個人的見解として「それでもやっぱりこの自殺という手段はダメだ」「硝子は自殺すべきではなかった」というのなら、それはいいと思います。

この物語には、「強く美しくすばらしい人格者」は一人もいません。「弱く醜く欠陥をかかえる」人たちばかりです。
実際、将也も硝子もそうだと思います。
「正義」をふりかざして、頭ごなしに「この人物のこの行動は許されない」と言ってしまうと、結論はとても早く出るのですが、そこで終わってしまうと思うんですね。

だから、一見まったく脈絡なく最悪の選択をしたように見える硝子にも、いろいろ考えて読み解いていくと、こういう背景を考えること「も」できる、という「個人的な読み解き」を提示することが、何かの役に立てばいいな、と思っています。
Posted by sora at 2014年07月05日 15:49
本記事の前提に立った場合、硝子と最も深く関わったうちの一人であり、終始一貫して強くかつ幸福であったようにも見える、硝子の祖母はどう捉えるのが適当でしょうか。
物語の構造によって死を与えられたとするか、本人がどうであれ硝子の目からは自分によって不幸をもたらされたように映っていたかの2通りが思いつきます。
いずれにせよ、硝子にとっての救いはまず第一に、彼女の内面からではなく外側からもたらされる他ないことは確かそうですね。
Posted by ジョー at 2014年07月05日 16:51
ジョーさん、

コメントありがとうございます。

うーん、西宮祖母ですか…
私は正直言うと、西宮祖母は、「硝子の過去の生い立ち、カルマ(呪い)がどんなものであるか」を語らせるための物語上の舞台装置に過ぎなかった、と思っているんです。

そうでなければ、あんなステレオタイプの優しさだけを見せただけで、たった1話で死なないと思うんですね。

まあ、あえて言うならば、西宮祖母を失ったことで、硝子の数少ない心のよりどころが失われ、その場所に次に入るのは将也だ、ということはあるのかもしれませんが、それも物語全体のなかではそれほど重要ではないようにも感じています。
Posted by sora at 2014年07月05日 22:50
作中のキャラクター達はどうやって呪いを打ち破るのか
自分もそうですし、多くの読者もいまやそういった目線でこの漫画を読んでいるんじゃないかと思います
でもそれってもともとの「聲の形」のテーマからは随分かけ離れてしまったなあ、って気もするんですよね
もはや作品の落としどころが全く読めないし、もしかしたら落とさないという選択肢もあるのかもしれません
呪いを解く決定打が提示されたとして、いち読者としてそれに納得できるのかという不安もあります
期待はしてますけど
これからも呪いとの闘いは続いていく・・・って感じで終わるのかもしれませんね
Posted by ウフコック at 2014年07月06日 00:28
ウフコックさん、

コメントありがとうございます。

私は、「聲の形」というタイトルから「呪いを解く」というところにつなげていくキーワードは「言霊」だと思っています。

硝子にかけられた呪いは強固ですが、白雪姫の呪いが王子のキスで解けたように、聲の形の物語世界にも「呪いを解く方法」が用意されているのではないかと思っています。

そして、そこでヒントになりそうなのが、将也が小学校時代に言った「腹の底にある気持ちを一度でも言ったことがあるのか」、あるいは植野が言った「私と話す気がないのよ」、結絃の「昔からねーちゃんはなにがあっても言わない」などのセリフではないかと思います。
硝子への批判って物語の中ではそれほど多くないですが(いじめはありましたが)、その数少ない批判はすべて「本心で思ったことを言わない」ところに集中しています。

そして、将也のほうも、高校になってからは、同じ問題をかかえていました。
それが橋事件でいったん崩壊したあと、いま再構築の段階だと思います。

硝子も、ここから「腹の底にある気持ちをちゃんと伝える」ところから、呪いを解く方向に再生していけるのではないかと期待しています。
「本心からのことば」には「言霊」が宿っていて、それが呪いを解く力を持っているんじゃないか、と。

(もしかすると、硝子が小学校のときに将也のことをどう思って接近したのかを話すことが、「王子様のキス」に相当するのかな、とか想像したりもします。)
Posted by sora at 2014年07月06日 08:16
>では、硝子は「天使」ではなくて、何なのか。
>「天使のように見える」振る舞いの下に隠されていた実像とは、どんなものなのか。
暁美ほむら(まどマギ)「思い出したのよ。今日まで何度も繰り返して、傷つき苦しんできたすべてが、まどかを思ってのことだった。だからこそ、今はもう痛みさえいとおしい。私のソウルジェムを濁らせたのは、もはや呪いでさえなかった。
あなたには理解できるはずもないわね、インキュベーター。これこそが、人間の感情の極み、希望よりも熱く、絶望よりも深いもの…愛よ」

暁美ほむら「確かに今の私は、魔女ですらない。あの神にも等しく聖なるものを貶めて、むしばんでしまったんだもの。そんなまねができる存在は、もう、悪魔とでも呼ぶしかないんじゃないかしら?」
暁美ほむら「今の私は魔なるもの。摂理を乱し、この世界を蹂躙する存在」

暁美ほむら「ほむら「鹿目まどか、あなたは、この世界が尊いと思う?欲望よりも秩序を大切にしてる?」
鹿目まどか「え、それは、えっと、その…、私は、尊いと思うよ。やっぱり、自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」
暁美ほむら「そう、なら、いずれあなたは、私の敵になるかもね。
でも、構わない。それでも、私はあなたが幸せになれる世界を望むから.....」

自分的には西宮硝子と暁美ほむら(まどマギ)のモチーフは同じだと思います。

具体的にいうと、
・石田将也≒ペルソナ3の主人公≒鹿目まどか(まどマギ)(≒ペルソナ3のディレクターさん)
・西宮硝子≒岳羽ゆかり(ペルソナ3)≒暁美ほむら(まどマギ)
・植野直花・川井みき≒美樹さやか・佐倉杏子(まどマギ)
だと自分は思います

つまりは硝子は「天使」ではなくて、社会の秩序やルールを乱す『悪魔』だと自己卑下・自己嫌悪している少女なんじゃないかなと思います。
自分の願いで周りに迷惑をかけることは許されないことだから願ってはいけない、なのに欲望に逆らえず願って社会の秩序やルールを乱して周りに迷惑をかけてしまう。
それだけならまだ頑張って変わって償おうと思えたけど、自分勝手過ぎる願いでキリストみたいな王子様(石田将也)の崇高な利他・自己犠牲を汚してしまった!
そんな自分はいなくなった方がみんなの為だよね。特に王子様もきっと喜んでくれるよ…
そんなことを日々考えて生きている自己肯定感ゼロ・自尊心ゼロで自己嫌悪の塊のような悲しい女だと自分は思います。

ちなみに、なんでこんな自己嫌悪の塊になったのかを示唆してる作品が『葬送のフリーレン』や『ゼノブレイド3』だと自分は思いますね。
フリーレン(葬送のフリーレン)やミオ(ゼノブレイド3)は暁美ほむら(≒ 西宮硝子)のオマージュだと自分は思います。
Posted by ナナシ at 2024年12月08日 19:27
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