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2015年01月10日

西宮母が選択したインクルージョン教育について (1) 障害受容について

※このエントリは、単行本第4巻発売当時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

これは重いテーマです。

西宮母は、硝子に対してかなり極端な教育方針でもって接してきたことがわかります。
自らは手話を学ばず、硝子に口話の読み取りを求め、小学校はどんなに転校を繰り返してでも普通校に通わせることにこだわっていました。
繰り返し起こるいじめに対しても、自ら問題を解決することを求め、そのために男の子のような髪型にしようとまでします。

これは、障害の当事者問題としてみた場合、端的に「子どもの障害の受容の失敗」としてとらえられるでしょう。

子どもに重い障害があると分かった場合、その後の支援をスムーズにすすめるためには、子どもの障害を受容し、障害をもっていることも含めた子どものいまの「ありのままの姿」を受け止めることが出発点になると考えられています。
「受容」といっても、悟りを開いたかのように平和な境地に達することではありません。子どもとともに苦しみ、障害からくる困難をときには「受け止められない」と葛藤するときもあって当たり前なのですが、とにかく、子どもの障害から目をそらさず、子どものもっている属性の1つとして受け止めていく覚悟を決めることです。

これができない場合、親は子どもの障害に対して、次のような段階の1)〜4)のいずれかに留まるといわれています。(キューブラー・ロスの死の受容5段階に基づいた、障害の需要の5段階から)

1)否認(子どもに障害がないかのように振る舞い、障害はない、という証拠ばかり探す)
2)怒り(子どもの障害で周囲に怒りをぶつけ、「犯人」「原因」さがしに必死になる)
3)取引(障害を「治す」「普通にもどす」ためにあらゆる手を打とうとする)
4)抑うつ(障害は治らないということを自覚しつつ、それを受け入れることもできず憂鬱になる)
5)受容(子どもの障害をありのままに受け止める覚悟が生まれ始める)


ちなみにこのあたりは実は私の「持ちネタ」で、下記の拙著でもう少し詳しく書いてますので、興味のある方はどうぞ。(ただし聴覚障害ではなく自閉症、発達障害です)



さて、話を戻して、西宮家の両親の、硝子の障害についての受容段階は、残念ながら4)までで止まっているように見えます。

1)硝子の障害の発見が遅れたのは、西宮母が無意識のうちに硝子の障害に対して「否認」の態度をとり、障害のサインを見ないようにしていたからである可能性は否定できません。

2)障害の「否認」をしきれなくなると、子どもの障害が発覚してきます。障害発覚後、西宮父サイドは「怒り」の段階に入り、「犯人」探しをしたうえで、自身には罪はないと主張して子どもの障害を受け止めることを拒絶します。このような流れで障害児の父方が離婚を求めることは、障害児の親の世界では非常にしばしば見られることです。

3)残された西宮母は、「取引」の段階に長く留まってしまい、硝子が障害を「克服」して「普通」になることに全力を尽くすようになります。手話を頑なに覚えない、というのもある種のまじない的な「取引」の一種である(「普通」の世界に踏みとどまるための)と私には映りますし、普通校への強すぎるくらいのこだわりもまた、「障害を治して普通になる」という「取引」への強い志向そのものです。

4)恐らく西宮母は、最終的にこの4)の「抑うつ」の段階まできて止まっているように見えます。普通校に通うことが限界に達し、聾学校に転入させざるを得なくなっても、西宮母がそれを最終的に肯定的に受け入れたという描写はなく、また硝子が高校生になった現在も、手話はおろか筆談すら行わず、口話の読み取りを硝子に求めています。


つまり、端的にいうと、西宮家の両親は、硝子の障害を受容することがあまりうまくできなかったために、父方は早々に離婚を求めて逃げ出し、母親は障害を敵対視して克服・乗り越えの対象としてしか見れなかった、そういう問題があることを完全には否定できないのです。

そして、そういった親の教育・子育てのやり方は、当然に硝子のこれまでの精神的な生育に大きな影響を与えています。
具体的にいうと、重い障害が「ある」にもかかわらず、それが「ない」かのような高さに、クリアすべきハードルを設定されることが多くなってしまうために、失敗経験を繰り返し、自己肯定感(セルフエスティーム)が低くなってしまう、ということが起こります。
「私なんて存在価値のない人間だ」「まわりに迷惑ばかりかけてしまう」「なにもかもうまくいかない」、そういった自己像が生まれてしまうわけです。

そういう目で改めて「聲の形」を読むと、硝子が背負わされている罪の意識の重さ、苦しみに胸がつぶれる思いがします。

ただ、最後にまとめて書いておきますが、西宮母がだめな母親だ、と言うつもりはなく、第4巻で描かれているように、過酷な苦しみのなかでもがき、母親としての責任を全うしてきているわけで、ある部分に「弱さ」があったとしてもそれを責める気には到底なれません(人は誰も完全ではありえず、それは特に「子どもの障害」のようなヘビーな問題が起こったときには必ずどこかに露呈してくるものです)。
また、硝子を普通校に入れることにこだわったところには、確かに西宮母のエゴの部分はあったかもしれませんが、「きこえの教室」まで完備している状態で硝子を受け入れた水門小学校、竹内、喜多、校長らが、硝子の受け入れにおいて職務を全うし最善を尽くした、とは到底いえないことも間違いありません。(これは別エントリで)

「聲の形」は、勧善懲悪ではなく、そもそも善人と悪人がはっきりした話でもまったくありません。
誰もが弱く、また誰もが間違っていて、でもそんななかでみんなが生きていく、そういう作品だと思います。
この、硝子への小学校時代の教育については、特に善悪や正誤で語る人が多い印象ですが、そんな簡単な問題ではない、ということに最後に触れておきたいと思います。
posted by sora at 18:26 | Comment(6) | TrackBack(0) | その他・一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする