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2014年12月21日

第49話、「真柴の物語」をもう一度考えてみる(3)

※このエントリは、第49話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

6)将也に接近して、実際はどうだったのか?

では、真柴は実際に将也に接近して、望んでいたもの、つまり「自分は変わっていない、普通だ」という実感は得られたのでしょうか?

真柴のモノローグを読めば、その答えは「得られなかった」であることがわかります。

だけど実際は そんな実感なんて 得ることはなく むしろその逆で
理由はわからないけど ただ 漠然と 自分が 愚かに思えた



第6巻128ページ、第49話。

でも、得られなかった、というのはどういう意味なのでしょうか?

単純に考えると、

・将也は思っていたよりも「普通」で、変わった奴ではなかった、だから自分のほうが普通だという実感が持てなかった

となりますが、どうやらこれは正しくないようです。

このモノローグの直後に、「やっぱ 変わってるよなあ… 石田君は」というせりふが、真柴の頭にかぶせられています。


第6巻128ページ、第49話。

このせりふ、最初はクラスメートの誰かがしゃべったのが真柴に聞こえた構図かと思ったのですが、吹き出しをよく見ると、真柴自身から出ているように見えます。

そうすると、真柴は将也と知り合って、いろいろあった今でも、将也のことを「やっぱり変わっている」と考えていることになります。

さらに、将也ではありませんが、硝子の筆談ノートを見て、自分がいじめられていたにも関わらず「みんなの関係を壊してしまった」と考えて行動する硝子のことも「変なことを考える人なんだなあ」と評しています。


第6巻122ページ、第49話。

つまり、真柴は将也に接近して、将也や硝子と知り合って、狙いどおり?「どいつもこいつも変わったやつばかり」という感覚は得られているはずなのです。

でも、「期待していた実感」は得られなかったわけです。

これはどういうことなんだろう、と改めて真柴の接近の狙いを振り返ってみると、

石田君といたら 自分が普通なんだと 実感できると思った だから近づいた


第6巻128ページ、第49話。

とあります。

つまり、「将也が変わっていることを見る、確認する」ことが、「自分が普通なんだと実感する」ための手段になっている、ということがわかります。

真柴は、将也が変わっている様子を見れば、「自分が普通だという実感」を得られる、と思っていたわけですね。

でも実際には、「将也が変わっている」ということは「狙いどおり」実感できたにも関わらず、「自分が普通である」ということは実感できなかった、そういうことになります。

真柴は、無意識のうちに気づいたのだと思います。
「変わっているー普通」というのは、1本の物差しの左と右といったような単純なもの(1次元の尺度)ではない、ということに。

たしかに将也は変わっています。
そして、硝子も変わっています。
でも、その「変わった生き方、考え方」はみんな違っていて、誰かが「変わっている」ことは、別の人が「そんなに変わっていない」ことを証明したりはしません

さらにいえば、そもそも「普通」なんていう生き方、考え方があって、そこにいれば安心、安全なんていう考え方こそ「幻想」なのではないでしょうか。

ひとを「変わっているー普通」という1本のものさしにあてはめ、「普通」であるほどいいんだという価値観を持ち、その価値観の下で、他人との比較のなかで自分の位置を確かめて安心する、それらすべてが、実体がなく、空しいことだ、真柴は将也に接近することで、むしろそういう「実感」を得つつあるのだと思います。

そのことをまだ真柴自身ははっきり言語化して認識できていませんが、「理由はわからないけど ただ 漠然と 自分が 愚かに思えた」と考えているところからわかる通り、ゆっくりと「答え」に近づいています。

そしてこれは、真柴にとっても「自らを縛る呪いからの解放」でもあるでしょう。
「普通」なんてものは幻想でしかなく、みんな、たった一人の「変わった生き方、考え方」で毎日を過ごしているし、それでいいし、誰かと比べる必要はないし、誰かを断罪する必要もないのです。

真柴が将也に接近して得た(得つつある)のは、当初の「狙い」とはまったく異なる、でもそれよりもはるかに価値のある「実感」なのだと思います。
タグ:第49話
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第49話、「真柴の物語」をもう一度考えてみる(2)

※このエントリは、第49話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第49話で描かれた真柴の過去や行動の動機をひもといていくエントリの続きです。

4)真柴が将也に接近したのはいつごろのことか?

真柴がかつての同級生と再会し、「復讐」のために学校の先生を目指すことを決め、その不自然さを母親からとがめられた、といった一連のイベントが起こったのは、真柴が高3になってすぐのころだと考えられます

なぜなら、そういった母親からの指摘を受けて、「自分は変わっているんだろうか?」と自問したときに、将也の川飛び込み事件を見て「いや、僕より変わっている奴なんてくさるほどいる」と自己正当化をしているからです。(この「川飛び込み事件」が掲載されたのは、4月30日だと思われます

そして、次に「ねーねー 石田君」と声をかけるシーンが出てきますが、これは第15話で停学終了後、将也が登校してきた初日のことですから、5月12日ごろのことになります。


第3巻10ページ、第15話。

このときは永束に阻まれて友達になることはできませんでしたが、その後、第4巻の24話で映画メンバーの一人として将也と友達になります。これが6月4日のできごとです。


第4巻9ページ、第24話。

つまり、真柴は、4月のバカッター事件をきっかけに将也に興味を持ち出して、5月から接近しはじめ、6月に念願かなって?将也と友達になった、そういう時系列になることになります。


5)真柴はなぜ将也に接近したのか?

では、なぜ真柴は将也に接近したのでしょうか?
第49話のなかで「石田君といたら 自分が普通なんだと 実感できると思った だから近づいた」とあります。


第6巻128ページ、第49話。

つまり端的にいうと、「自分が普通なんだと実感するため」だったということになります。

では、なぜ「自分が普通だと実感」したかったのでしょうか?
それは、まゆ毛のことをいじめられたことで、自分が「変わっている」と指摘されることへの恐怖があったのだろう、と思います。
言い換えると、真柴は過去のいじめによって、「変わっている」と他人から見られることへのトラウマをかかえている、ということなのだと考えられるのです。

「変わっている」ことは悪であり、いじめられる原因になる。
「普通」であればいじめられることもなく、自分の側が「正義」になれる。


登校日の将也との会話での「そう 僕 変わってるんだ 変わってなきゃ いじめられないよね」という真柴のせりふも、まさにその考えを示しています。


第5巻93ページ、第37話。

でも真柴は、過去のいじめっ子の子どもの先生になることで子どもの転落を見守りたい、などと考える自分が、ふと「変わっている」のではないか、という恐れを感じ、トラウマを刺激されてしまいます。

その「恐怖」を否定して押しつぶすためには、「自分は変わっていない、いたって普通だ」という「実感」が必要で、その実感を得るためには、自分よりも変わっている奴の近くにいて、そいつの「変わった行動」を「見ている」ことが一番だ、と考えたわけです。

それで、バカッター騒動で明らかに「変わった奴」に見えた(しかもそれ以外のときもひとり孤立していて、放課後はバイトばかりやっているという)将也に近づいて、友達になろうとしたのだ、ということです。

でも実際には、真柴は将也に接近しても「自分は変わっていない、普通だ」という実感を得ることはできなかったようです
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第49話、「真柴の物語」をもう一度考えてみる(1)

※このエントリは、第49話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第49話は「真柴回」で、これまで謎に包まれていた真柴の過去が明かされる回となっています。
ただ、ざっと読んだだけでは、いろいろな行動の動機がいまいち見えてこない、けっこう難解な回想になっているのも事実だと思います。

ここでは、そんな「真柴の物語」について、いくつかポイントをあげて改めて整理しなおしてみたいと思います。

1)真柴は同級生の結婚・妊娠を見て、何を思ったのか?

真柴は、かつて自分をからかっていた同級生が結婚して子どもを授かっているのを見て、どう思ったのでしょうか?
ここでいきなり「先生になって復讐?してやる」に続いているので分かりにくくなっていますが、この瞬間の気持ちが描かれているのは、

・このモヤモヤした気持ちを昇華するには これしかないんだ


第6巻127ページ、第49話。

ここだと思われます。
つまり、かつてのいじめっ子と遭遇し、過去のいじめの報いを受けるどころか結婚して幸せになっていることを知って、「モヤモヤした気持ち」になってしまった、そういうことなのだと思います。


2)真柴が考えた「復讐」はどんなものなのか?

かつてのいじめっ子に子どもが生まれると聞いて、真柴は先生になってその子の担任になることを考えます。
ここは、文脈からいって明らかに「復讐」を意図しているわけですが、その割には「見ているだけでいい」と言っていて、あからさまな虐待等を考えているわけではなさそうです。

そうなると、真柴はいったい何をもって「復讐」をなそうとしているのかが、よく分からなくなってきます。

ここでヒントとなるのは、この一連のせりふの最後に出てくる「どんな間違いを犯すか 見てやる」だと思います。


第6巻126ページ、第49話。

恐らく、真柴はこんな風に考えているのではないでしょうか。

自分をいじめた「報い」は、親には現れなかったが、「インガオーホー」で、きっと子どもには現れてくる。だから、何もせず放っておいても、必ず「間違いを犯」して、子どもは破滅に向かっていくだろう。
だから、自分はその「間違いを犯して破滅していく瞬間」をただ見ていればいい…。


こう考えてくることで、真柴を「しばっているもの」も見えてきます。
つまり、真柴は(もともと過去のエピソードからも想像されていたとおり)、いじめを行ったものは、いずれ必ず報いを受ける、受けなければならない、そうでなければ自分がその「報い」を与える、そういう「いじめのインガオーホー」への信念にしばられて生きている、そう考えられるわけです。


3)真柴が同級生と再会したのはいつごろか?

ところで、久しぶりに再会した同級生の結婚・出産を知ったことが、真柴の「復讐心」を目覚めさせた、とすると、それはかなり最近のことでなければおかしくなります。
真柴はまだ高校3年生であり、男性だと誕生日(18歳)を迎えなければ結婚することができません。
「できちゃった婚」だとしても、遅くとも出産前後には男性側が18歳を迎えるくらいのタイミングが「最早」なんじゃないかと思います。

そして、再会したときの真柴の制服は「冬服」のようです。


第6巻124ページ、第49話。

そう考えると、真柴がかつて自分をいじめた同級生と再会したのは、高2の3学期から高3の4月くらいまでのあたりなのではないだろうかと思われます。

そこから急に学校の先生になる、とか言い出したからこそ、母親は息子の言動に不自然さを感じ、「あんた 本当に先生になりたいのかい?」と問いただしたりしたんだろうと思います。


第6巻127ページ、第49話。
タグ:第49話
posted by sora at 07:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする