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2014年12月20日

硝子が目指す「映画再開」の意味とは?(3)

※このエントリは、第50話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、話を映画再開に戻して、硝子が筆談ノートでいっている「石田君がやっていた仕事 私にやらせてください」の部分の真意を掘り下げたいと思います。


第6巻75ページ、第46話。

この部分の端的な意味は「私は仲間集めの仕事をやります」ということになるでしょう。

そして、実際に、ものすごい情熱と猪突猛進の行動力で、映画再会を周囲に迫っています。
その行動は、川井には「どーしちゃったの西宮さん」と言われ、植野には「いーかげん諦めてよ」「うざい きもい」と言われてしまうほどの入れ込みようです。

ただ、実は硝子にとって、「自分がかつて壊してしまった、将也の小学校時代の関係を修復したい」という思いは、今回の映画再開よりもずっと前から、硝子はやりたいと思っていたこと(でもこれまでは行動する勇気がなくてできなかったこと)だったのです。

第3巻に、こんなシーンがあったのを覚えているでしょうか?
将也が硝子と佐原を再会させた後、硝子に「小学校の奴で 他に会いたい奴とかいる?」と聞いたとき、硝子はかなり長い間考え込んだあとで、


第3巻66ページ、第18話。

硝子「あなたは?」

と聞き、将也が、「俺は会いたい奴なんかいない」と返しても、さらに食い下がって、

硝子「本当に?」

と聞き返しました。

このとき、過去のトラウマに襲われてしまった将也は激高し、「本当にいないからッ……!!」と叫んで硝子をびっくりさせてしまいます。


第3巻68ページ、第18話。

このエピソード、第3第18話で、65ページから70ページあたりまで、実に6ページという長さにわたって描かれています。1話20ページ程度しかない連載で、これだけのボリュームをとったエピソードというのはある意味異例といえ、それだけこのシーンが重要だということを示しています。

そして、このシーンは、硝子が、自身の佐原との再会を1つの契機として、「自分が壊してしまった、小学校時代の将也とクラスメートとの関係修復の役に立ちたい」という思いをはっきりと持った、そういうエピソードとして描かれていたんだ、と、いまの映画再開に突き進む硝子を見ると気づかされます。

このときに持った「将也の過去の関係修復への淡い思い」は、橋崩壊事件から自身の自殺、将也の身代わり転落という経緯をへて、いまや「これこそ自分が絶対にやらなければならない『使命』だ」というくらいの「強い確信」に変わったのだ、と思います。

それこそが、第45話でおもちゃの自動車を捨てたときに硝子が見せた「覚醒の表情」の背後にあった「決心」だったのではないだろうか、と思わずにはいられません。


さて、少し話を戻しますが、先のエントリで、硝子が映画撮影再開で目指しているのは、小学校時代までさかのぼって、「自分が壊してしまったものを再構築、修復すること」であろう、ということを書いてきました。

それでは、硝子にとって「小学校時代に私が壊してしまった、みんなが築き上げたもの」とはなんでしょうか?

細かいものまで考えていくとキリがないかもしれませんが、硝子が知っている範囲での、小学校の頃から5年以上たった今でも「修復すること」に価値が残っている関係に限定するならば、つきつめれば次の2つくらいしかないのではないかと思います。

・将也にとっての、島田や広瀬ら仲間との関係。
・植野にとっての「将也と楽しく過ごせたはずの時間」。


後者についてですが、第50話で、硝子が植野の映画復帰に非常に強くこだわっていることが示されています。
これは、「自分が壊してしまった」と思っている、「植野と将也との関係」を「取り戻そうと」しているからではないでしょうか。

考えてみると、植野自身も、第3巻で「私はただ取り戻したかっただけ 石田と私の時間を 西宮さんのせいで壊れてしまったあの時間」と言っています。


第3巻153ページ、第22話。

そして、硝子も、どうやら植野の将也への恋心に気づいていたフシがあります。
だとすると、(責任とか善悪とかそういう話は横においておいて)硝子が考える、「自分の存在によって壊れてしまった、小学校時代にみんなが築き上げたもの」のなかに「将也と植野の関係(とその未来の可能性)」が含まれている可能性は、相当高いと考えざるを得ません。
(そして、そう考えたときに初めて、硝子が植野の映画参加に異様にこだわっている理由もはっきりするように思います。)

そうなると、硝子はこれから、映画撮影が再開された状況のなかでは「植野と将也の関係が深まっていくように働きかける」という動きを見せる可能性があるわけですね。

うーん…。

そして、それだけではなく、硝子と映画再開についてはもう1つ気になることがあります。

考えてみると、硝子が「私が壊してしまったものを 取り戻したい」と言っているとき、「硝子自身」は、その「取り戻す」世界のなかに含まれていません
では、「取り戻した」あと、硝子はどこに居場所を見つけるのでしょうか?

可能性としては、硝子の活躍により、将也と「島田−広瀬ライン」との関係が修復され、植野もまた将也ともう一度修復できそうな「関係」を手に入れて、その他高校になってから生まれた橋メンバー間の「絆」も再生した、そういう段階で、硝子がどこかにいなくなってしまう、そういう展開が十分ありえるような気がしてならないのです。

「植野が残って硝子は去る」という展開ですね。
そう考えると、いまの硝子の映画再開の動きは、めぐりめぐって「植野フラグ」になっていると考えられるのかもしれません。

ただ、そうはいってもやっぱり「聲の形」は最終的には「将也−硝子」の世界に収斂していく、と予想しているので、いったん「植野フラグ」が立って硝子が消えても、将也は硝子を追いかける、探すという選択をして、「植野フラグ」は折られてしまう、という形で、7巻の終盤を迎えていく、といった展開になるのではないかと予想しますが…。

※アップ時の補足
物語が完結した今となっては、上記の予想は外れていますが、実は第51〜52話というのは、硝子が上記のような「自己犠牲的な関係修復をして自分は去る」という態度を翻して、自分自身を認め、自身の幸せのために行動することを決めた展開だったとも考えることができると思います。
第51話では、「将也が去る」という夢を見た硝子ですが、実はこれは「硝子が去る」というつもりだったということの裏返しだったと考えても、不自然ではないと思います。

posted by sora at 09:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

硝子が目指す「映画再開」の意味とは?(2)

※このエントリは、第50話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、硝子の映画再開に向けた思いは概ね整理できましたが、ちょっとここで少し話題を変えて、改めて、橋崩壊事件から硝子の自殺をへて「覚醒」にいたったプロセスを、この「映画再開」という視点からとらえなおしてみたいと思います。

橋崩壊事件で、将也は映画メンバー(橋メンバー)とのつながりを、硝子・結絃を除いてすべて失います。
そのことについて、「自分の存在は周囲の人間を不幸にする」という呪い的な観念にとらわれている硝子は、「将也がせっかく築き上げた人間関係を、小学校のときに続けて、高校になった今回も壊してしまった」という深い深い自責の念に改めてとらわれたと思います。

そんな思いのなかでの「デートごっこ」の最中、将也は転びそうになった硝子を助けようとして、逆に自分が転倒しけがをしてしまいます。
またもや将也に不幸をもたらしてしまった、と考えた硝子は、将也に対し「私のせいで ごめんなさい 今までのこと 私と一緒にいると 不幸になる」と告げます。


第5巻154ページ、第40話。

このとき、将也がそのことばを否定する前に、一瞬、核心を突かれた表情で汗をたらして絶句するのを、硝子は見逃しませんでした。


第5巻154ページ、第40話。

将也は、本音では「確かにその通りかも」と思っているところがあったわけです。
硝子は、これで将也に「自分のそばにいてはいけない」というメッセージが伝わって将也は自分から離れるだろう、自分は自殺するが、将也にはその真意が伝わって、将也はひとりで前を向いて関係再構築に進めるだろう、そんな風に考えていたのではないかと思います。

でも、将也は次の手話サークルにも現れ、毎日デートすることを求めてくるなど、どんどん自分への依存の度合いを高めていったわけで、これは自殺を決意した硝子にとっては想定外のことだったと思います。
そんな中、花火大会で、来年の誕生日を一緒に祝うことを約束させられてしまった硝子はついにいたたまれなくなり、そそくさと祭りの場を離れ、急ぎ自殺を決行しますが、結果は将也に助けられ、入れ替わりに大ケガをさせてしまうわけです。

このような不幸な事件が、なぜ発生してしまったのか。
(硝子の視点から)簡単にいえば、硝子はこれ以上将也に迷惑をかけないために、自殺してそっと消えていくつもりだったのに、将也には硝子以外の「居場所」「関係」がなくなってしまっていたために、硝子に依存してしまい、結果的に「不幸の運命共同体」みたいな結末を招いてしまったのだ、ということになるのではないでしょうか。

救出されたあとの硝子は、植野から暴行を受け、そのときに「お前は将也にとっての害悪だ」という非難を浴びせられます(実際には植野のせりふが聞こえているはずはないのですが、ここはあえて「そのメッセージを理解した」ととらえて話を進めます。もしここを真面目に「聞こえていない」と考えるなら、もともと硝子が信じている「自分の存在は周囲に不幸をもたらす」という呪いのことを考えれば同じことです)。


第6巻35ページ、第44話。

自分は確かに、将也にとっての害悪だ。
でも、自分が離れようとしても、将也には「居場所」がないから、将也は自分に依存してついてきてしまう。

だったら将也に、自分に依存しなくてもいられるような「居場所」を取り戻してあげればいい
「害悪」である自分は、小学校のときも、そして高校になっても、みんなが築き上げた「居場所」「関係」を壊してしまってきた。
でも今こそ、その自分が壊してしまったものを取り戻して、将也に「居場所」を取り戻してあげたい。
もしそれがうまくいったら、もう将也は自分に依存しなければならない必要がなくなり、幸せな人生を取り戻せるだろう

…どうでしょうか。
このようにとらえていくと、硝子が自身の「自殺前」をどう受け止め、そこから「これからやるべきこと」をどのように導き出しているか、ある程度明確なイメージがわいてくるんじゃないかと思っています。
posted by sora at 08:18 | Comment(4) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

硝子が目指す「映画再開」の意味とは?(1)

※このエントリは、第50話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、第6巻相当分の物語も終盤に入り、この巻のテーマの1つとなった「硝子の映画撮影再開の物語」も佳境に入ってきました。

当初、率直にいって「何をやりたいのかいまいちよく分からない」という印象だった、この「映画撮影再開」ですが、物語が進むにつれて、少しずつ、その「意図」のようなものが明確になってきたように思います。

改めて過去回を読み直してみると、実は、映画撮影再開に対する硝子の思いは、永束回で硝子自身が筆談ノートに書いた「映画再開を提案する理由」に、思いのほか率直に書かれていることに改めて気づきます。
最初に読んだときは、この筆談ノートの文章を「硝子の自殺の理由」として読んでしまっていましたが、よく読んでみると、すべて「映画撮影再開の理由」になっていることに気づくのです。このあたり、叙述トリック的な仕掛けにもなっていて、なかなかすごいなと思います。)


第6巻69ページ、第46話。

1)硝子「みんなが築き上げたものを壊してしまった。」

永束の「それって橋でのこと?」という問いに対しては

2)硝子「ぜんぶ」

永束の「どうすれば直る?」に対して

3)硝子「映画の続きをつくる どうでしょう」
4)「石田君がやっていた仕事 私にやらせてください。」
5)「私が壊してしまったものを取り戻したい」


改めて読んでみると、すべての文にかなり深い意味があることに気づかされます。

まず1)について。
ここでのポイントは「みんな」です。
この「みんな」にどこまでが含まれているのか、ということです。
さらに2)では「すべて」と言っています。
「みんな」の「すべて」ということになります。

硝子が、適当に大袈裟なホラ話を言っているとは考えにくいので、硝子は本気で、この映画再開で非常にスケールの大きな「再構築」を目指していることが推察されます。

そして、1)と5)から、硝子の願いは「私が壊してしまった、みんなが築き上げたものを取り戻したい」ということであることが分かります。

この言い方にも少し気になるところがありますが、それは後で書きます。

さらに3)では、その硝子の願いを実現するための手段として、「映画の続きをつくる」という方法が選ばれたということ、そして4)から、いま硝子がやっていることは「(映画製作のなかで)石田君がやっていた仕事」なんだ、と硝子自身は認識している、ということが示されています。

ここで、まず思い出したいのが、第49話における硝子の「水門小学校への訪問」です。


第6巻129ページ、第49話。

あの場面で、いきなり硝子が学校訪問していたという展開は、一読するとかなり唐突に映りますが、改めて考えてみると、植野以外のすべての橋メンバーの関係を修復できた(そして植野とは交渉継続中)ことから、「その次」として、小学校の頃の担任である竹内にアプローチした、というだけのことに過ぎない、と気づきます。

つまり、硝子のいう2)の「みんな」という範囲には、竹内すら入っている、ということになり、4)の「すべて」の範囲には「小学校時代」も含まれている、ということになるわけです。
加えて、硝子は竹内を説得し、他ならない水門小でのロケハンの許可を得ることで、「小学校時代に壊してしまったものを取り戻す最高の舞台」を手に入れようとしていたのではないかと思います。

ここで、6)の「石田君がやっていた仕事」というのを改めて考えてみます。
この筆談ノートでの会話のあと、永束が将也のやっていた仕事を思い出して「雑用」と「仲間あつめ」くらいだし…みたいなことをぼやいていますが、


第6巻75ページ、第46話。

仲間集め。

これこそ、硝子がいままさにやっていることであり、映画再開の最大の目的であることは間違いありません。
ですので上記の6)を修正しましょう。

6V)そのために「石田君がやっていた、仲間集めという仕事」をやる。

仲間集め、というのは、単に「映画撮影メンバーを集める」という意味ではないことは、いうまでもありません。
そうではなくて、かつて仲間だった、でも硝子の存在によって壊れてばらばらになってしまった(と硝子が信じている)仲間たちを集める、そこまでの意味を当然含んでいるでしょう。

そう考えていくと、硝子が「壊してしまった」「だから取り戻したい」と信じているもの、それはつきつめれば、この「かつての仲間たちの人間関係」に他ならないということに気づきます。

これで、硝子にとっての映画撮影再開の意味が明確になりました。

小学校時代をも含む、自分のせいで壊れてしまった、あらゆる「かつての仲間たちの人間関係」を、その仲間たちを集めることによって取り戻したい。
そのための具体的な手段として、映画再開が一番だと思ったので映画再開を目指したい。そして、自分はかつての仲間集めという仕事をする。

posted by sora at 08:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする