2014年12月17日

第51話から改めて考える、硝子が「諦めたもの」とは?(2)

※このエントリは、第51話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第51話で描かれた「硝子が夢見ていた世界」から、硝子が本当に手に入れたかったものとは、「自分に障害がなかったら手に入ったであろう、幸福な世界」だったのだ、と思います

この、硝子が夢見ていた「世界」は、(まあ実際にはそう単純なものではありませんが)硝子に障害がなければ、さほどの努力なしに、当たり前に手に入ってもおかしくない程度の、ささやかなものに過ぎません。


第6巻158ページ、第51話。

障害がなければ当たり前に「手に入る」世界であれば、自分に障害があっても、その障害のぶんを努力でカバーすれば、やはり同じように「手に入る」んじゃないか、硝子はそんな風に信じていたのではないかと思います。

そして、「きこえの教室」もあり、聴覚障害に理解があるとされていた(であろう)水門小への転校を、西宮母だけでなく硝子も大きなチャンスととらえていたのだと思われます。


第1巻62ページ、番外編。

ただ、もちろんここで、「聾学校にいけばその『ささやかな幸せな毎日』はより手に入りやすかったのではないか?」という疑問(ないし批判)も出てくるだろうと思います。
でも、硝子はこの時点で既に、「普通校でその幸せを手にいれなければならない」という強迫観念を植えつけられていたと思われます。

その強迫観念の原因とは、

1)両親が、「自分の障害ゆえに」離婚した、ということを察していた。
2)妹の結絃が、「自分の障害ゆえに」いじめられている、と認識していた。
3)母親が、徹底して普通校で教育を受けることを求めていた。


あたりだと思われます。

1)については、硝子が自身の障害を受け入れること=両親の離婚を受け入れること、という構造になってしまっており、硝子にとって障害は否定しなければならない「悪者」だと考えざるをえなかったんだろう、と思います。
また、2)についていえば、「ミミナシの妹」とからかわれている結絃がいじめられなくなるためには、やはり結絃と同じ学校で、(妹いじめのネタにされないように)うまくやっていくことが必要だ、と考えたのではないかと思います。
さらに3)も決定的で、西宮母は普通校への進学を頑なに主張し続けていたと思われます(竹内の回想でもそういう話が出ていました)ので、現実的に硝子自身には普通校に行くか、聾学校に行くかを選択する余地は残されていなかっただろう、と思います。

これらの背景から、硝子は幼い頃からずっと「自分の障害さえなければ」という思いを持ち続け、障害を「なければいいもの」「否定すべきもの」とみなしてそれに敵対し、努力により乗り越えて、あたかも障害がないのと同じような生活を手に入れることこそ、努力して手に入れるべき「成功」だ、と強迫的に信じていたんだろうと思います。
母親からも、そういう生き方が唯一の選択肢であるかのようにしつけを受け続け、実際に与えられた「場」も、障害のある硝子にとってはとてもハードな「普通校」ばかりでした。

実際、こういった価値観をもった親、あるいは家族にとって、聾学校(に限らず、特別支援学校)に進学する、ということは、なかなか採りづらい選択肢だろうと思います。
障害を受け止め、障害があることを前提に、健常者社会と少し違った場所で(学校)生活の基盤を作っていくことは、西宮母のような価値観をもつ親にとっては、「健常者社会から隔離される」こと、あるいは「将来、生きていかなければならない健常者社会から離れてしまう」こと、として映る側面があるだろうからです。
(もともと、特別支援教育の世界のなかでも、健常者と障害者で学校を分けずに、できるだけ「同じ場所」で教育を受けるべきだ、という教育思想はあって、そういう教育(を目指す)スタイルのことは「インクルージョン教育」と呼ばれます。)

上記の話題、本題から少し話がそれましたが、この先の議論に進んでいく、1つの前提として書いておきました。
ラベル:第51話 番外編
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第51話から改めて考える、硝子が「諦めたもの」とは?(1)

※このエントリは、第51話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

この話題、すでに他のエントリと重なる部分も多いのですが、重要なポイントになっていると思いますので、改めて整理しておきたいと思います。

「聲の形」は、小学校時代に硝子をいじめていた将也が高校になって硝子と再会し、関係を再構築していく物語ですが、ここで大きなキーワードになってくるのが、硝子が小学校時代に「諦めた」、とされるものです。

第2巻第7話のサブタイトルは「諦めたけど」となっています。
将也が「忘れ物」といって硝子に手渡した、小学生のころ将也に池に捨てられてそのままだった筆談ノートを、西宮母があらためて「なんでこんなもの持ってるのよ… 捨ててしまいなさい」といって川に捨ててしまおうとします。
それを池に転落しながらも必死に探す硝子に、将也はこう問いかけます。

将也「そのノート… そんなに大事…?」

それに硝子はためらいなく「こく」と頷き、


第2巻43ページ、第7話。

硝子「一度 諦めたけど あなたが拾ってくれたから」

と答えます。

そして、同じ第2巻の後半、第13話で結絃とともに硝子を探すときの会話でも、この「諦めたもの」の話題が繰り返されています。

将也「あいつ この前…『一度 諦めた』って言ったんだ」
将也「な…何を諦めたのか はっきり言わなかったけど 確かにそう言ったんだ
   俺のせいで あいつは何かを諦めた だから…」
結絃「知ってる だからその罪悪感を原動力にして 諦めずに頑張ってるって!?
   あとはなんだ!? 義務感か!? まさか使命感!? 気持ち悪!!」
将也「そうだよ 悪いかよ
   俺は西宮に会って その全部を強烈に感じたからこそ 人生から逃げずに済んだんだ!
   アホみたいな考えかもしれないけど…
   体があるうちは 西宮のために消耗したいと思ってる! 命を!!」



第2巻151ページ、第13話。

やや乱暴な言い方をすれば、第2巻というのは、硝子との運命的な再会によって、将也が「硝子の諦めたものを取り戻す」ことを、(一度死を決意していた)自身の人生の目的にするんだ、と決意する巻だと言えるでしょう。

さらに、これはだいぶ後の話になりますが、この「諦めたもの」の象徴であった小学校時代の筆談ノートを将也に池に捨てられた日、硝子は結絃に「死にたい」ともらして涙を流しました。

これらの描写からみて、硝子が「諦めたもの」というのはとても重く、ほとんど硝子の生きる意味そのものであり、物語のなかでも極めて重要な意味をもっているはずのものなのですが、これまで、それが端的に何を指しているのか、曖昧なままでした。
(実際、上記の将也と結絃の会話でも「何を諦めたのか はっきり言わなかったけど」と言っています)

これまでも、この点については繰り返し考察をしているのですが、これまではせいぜい、「諦めたもの=周囲と積極的なコミュニケーションをとって親密な人間関係を作ること」「それが生きる意味だった」くらいの推理が精一杯でした。

でも、第51話で描かれた「硝子が夢見ていた世界」によって、「諦めたもの」の正体が、ほぼ見えたのではないかと思っています。

そこで描かれた「硝子の夢見る世界」とは、「障害があっても幸せに生きられる社会」ではなく、「自分に障害がない世界」でした。

そこでは、硝子は周囲とスムーズにコミュニケーションでき、クラスに迷惑をかけることなく溶け込んで楽しい毎日を送り、家族の関係も良好で、自分にとって大切な人たちの誰もがニコニコと幸せに生きています。

硝子が手に入れたかったもの(そして、手に入れることを諦めたもの)。
それは、きっとこの「自分に障害がなかったら手に入ったであろう、幸福な世界」だったのだ、と思います。
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今日はコミックス第7巻の発売日!

さて、本日はいよいよ、単行本最終巻、第7巻の発売日です!


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今回は表紙も最終回らしくみんなが揃い踏みですし、明るい色合いでほっこりします。
私も仕事が終わったら買いに行く予定です。

ところで、アニメ化企画については、「劇場版」として進行中であることが明らかになりました。
この密度の高いストーリーを、どうやって2時間弱の尺に収めるのか、不安なところもありますが、逆に劇場版なら表現の自由度は上がりますね。
posted by sora at 07:16| Comment(11) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

第51話で判明した、硝子がかかえる「課題」とは?(2)

※このエントリは、第51話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、障害当事者(や家族)の障害に対する態度として、以下の4つの類型があるわけですが、

1)障害をもっていることそのものを否定する。
2)障害を敵とみなし、戦い、乗り越え、克服する。
3)障害を自分の属性の1つとして受け止め、折り合いをつけて生きようとする。
4)障害に絶望し、積極的に生きることをやめてしまう。


硝子は1)の世界を「理想」として憧れていた(いる)ことが、第51話で描かれています。


第6巻158ページ、第51話。

でも、1)は絶対に実現しません
ですから、1)を夢見ていると、必ず最後は障害は「ある」んだ、という現実に否定されます。
そして、その流れのまま2)に移行すると、そこでの目標は「あたかも障害がないかのようなところまで障害を乗り越え、克服する」というものになり、非常に高いハードルを設定することになります。
そしてこれも、よほど障害が軽いものでない限り、挫折することになります。
簡単には乗り越えられないほどの困難があるからこそ「障害」と呼ばれるのであって、それを個人の努力によって「ない」に近いところまで克服できるというのは、残念ながら滅多にありません。
特に硝子の場合は、中度から重度あたりの重さの聴覚障害として描写されていることを考えれば、その重い障害が「ない」に近いところまで克服されるということは、現実問題として極めて困難だと思われます。

その結果、どうなるか、ということですが、1)や2)を目指して挫折すると、4)に移行してしまうわけです。
硝子が水門小から転校してから将也と再会するまで、結絃にいわせると「家ではぼーっと本を読むくらい」だったのは、まさに硝子が4)の状態を生きてきたことを示しているといえるでしょう。

その後、将也と再会して明るさを取り戻した硝子ですが、実はここでも、3)の態度に移行したというよりは、1)と2)の態度に戻っただけ、といった側面が強かったのかもしれません
第23話の告白シーンで、自分のこえで好きだと告げるのは、美しいシーンではあるのですが、上記の1)を夢見ていた行動だという側面もあったんだなと、第51話を読んだあとでは気づきます。


第3巻178~179ページ、第23話。

そして、橋崩壊事件から自殺、将也の身代わり転落をへて、映画の再開に成功した今になっても、硝子はまだ1)と4)を行ったり来たりしていることが示されています。

ここに、硝子の最大の乗り越えるべき「課題」があることが、見てとれるのではないでしょうか。
硝子はこれまで、障害を乗り越え、克服し、「普通」になり、それによって自らの障害ゆえに発生するさまざまな困難に打ち勝とうと努力してきました。
でもそれは失敗の連続となり、硝子は絶望を繰り返し、自己肯定感の著しく低い人間に成長しています。

「乗り越える」ということでいうなら、いま硝子が乗り越えるべきは「障害」そのものではなく、それを否定的に受け止め、「ないもの」と考えたり「極限まで克服すべきもの」と考えてしまう、その障害「観」のほうです

障害は、消えません。
硝子の障害は、生まれてから死ぬまで、硝子と共にあります。
その障害を「ない」ものと思い込んだり、「ないくらいにまで克服すべきもの」と思い込んだりしている限りは、障害と共存していくことが難しくなり、挫折と絶望を繰り返してしまうことになります

だから、硝子にとって必要なのは、自らの障害と、障害をもった自分自身をありのままに受け止め、否定せず肯定し、そのうえで、その障害と「共に生きていく」ための、折り合いをつける道を探り、折り合いをつけられる世界を実現する、「そのための努力」です

それが、硝子からは無限地獄のようにも見えているかもしれない、この世界で生きる苦しみから抜け出すためのいちばんの近道になるのでは、と思います。

そして、その新たな価値観を導くカギの1つを、既に第23話で将也が示しています。
第23話の将也は、口話で頑張ろうとする硝子に、何の偏見もなく「(もっと便利に使える)手話使えよ」と言い、それに続く「私 声 変?」という硝子の質問に「うん」と正直に答えてしまいます。


第3巻170ページ、第23話。

これは硝子を傷つけることばでもありますが、実際に声が変なのに「そんなことないよ」と嘘をつくのとは違うベクトルの「優しさ」でもあります。実際、それが「優しさ」であることは、続く将也のせりふではっきりと示されます。


第3巻171ページ、第23話。

「それで いいから」

この、「それで いいから」こそ、硝子がいまの悪循環から抜け出すための道筋をはっきり示すキラーワードだ、と言えるでしょう。

障害はある。「普通」にはなれない。困難も続く。
でも、「それで いい」。
その「それでいい」の足場の上に、自分の居場所をしっかりと作っていけば、道は開けると思います。

第7巻では、将也が改めて、硝子にその「道」を示してくれる(もしくは、硝子が自らその「道」を見つける)展開になることを祈っています。
ラベル:第51話 第23話
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第51話で判明した、硝子がかかえる「課題」とは?(1)

※このエントリは、第51話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第51話で、硝子が「夢見ていた理想の世界」とは、

1)障害があっても、自分らしく幸せに生きられる世界

ではなく

2)もし自分に障害がなく、健聴者だったら手に入ったはずの、自分だけでなく周囲のみんなも幸せで平和に生きられる世界

だったことが明らかになりました。


第6巻158ページ、第51話。

まんがのなかでこの部分は非常に巧妙に描かれていて、最初にぱっと読み流したときには、「障害があってもうまくそれを克服することができた世界」を想像しているのかな、と思うのですが、そのまま読み進めていくとどんどん違和感がつのっていって、ある瞬間に、「あ、これって硝子がイメージする「聞こえている世界」になっているんだ、硝子が空想しているのは、障害と折り合いをつけられた世界でもなく、障害を克服した世界でもなく、自分の障害が「ない」世界なんだ」ということに気づきます。

そのことに気づいたとき、障害当事者である硝子が抱える苦悩と絶望の重さに、思わず頭をかかえてしまうくらい、暗い気持ちになります。

それと同時に、硝子がなぜここまで追いつめられ、挫折を繰り返さなければならなかったのか、これからの硝子が「大人の障害当事者」として生きていくために目指していくべき「方向性」、いいかえればある種の「発達課題」とは何なのかが、見えてきたように思います。

これは以前の佐原回の発達課題エントリと同様、障害論における一般的な議論となりますが、障害当事者、もしくはその家族が、障害に対してとる態度として、大きく分けると次のようなものがあると考えられます。

1)障害をもっていることそのものを否定する。
2)障害を敵とみなし、戦い、乗り越え、克服する。
3)障害を自分の属性の1つとして受け止め、折り合いをつけて生きようとする。
4)障害に絶望し、積極的に生きることをやめてしまう。


このなかで、態度として非常にまずいのは1)と4)で、2)も非常にストレスフルで、失敗すると4)に移行しやすい態度であり、基本的に目指すべき方向性は3)的なもの、ということがいえます
もちろん、3)の態度は障害に対して「ほったらかし」というわけではなく、障害による困難を軽減するために訓練・療育をしたり、周囲に働きかけることは、もちろん3)の態度にあっても積極的に取り組まれます。むしろ、「現状の障害ゆえの困難」をありのままに受け止める3)の態度がなければ、適切でバランスのとれた訓練や周囲への働きかけは実現しない、ともいえます。

ともあれ、障害は個人の努力では消えず、一生ついてまわるものなので、それを否定したり敵対したりすることは、とりも直さず自分を否定したり自分を敵視したりすることにつながり、それが結果として自己肯定感の低下や、抑うつ傾向につながってしまいます

そして、「聲の形」第51話で判明したことは、硝子が夢見ていた理想の世界とは、3)が実現した世界でもなく、2)によってなんとか障害が克服された世界でもなく、「障害などない」という、1)が実現した世界だった、ということです。

いや、「夢見ていた」ではないですね。
硝子は、「今現在」の理想としても、この空想を保持しているようです。ですから「いた」ではなく、夢見て「いる」という現在形だということになります。

これが非常に苦しく、精神衛生上避けるべき状態であることは、想像できると思います。

これによって起こってくる問題について、次エントリで触れていきたいと思います。
ラベル:第51話
posted by sora at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする