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2014年12月11日

第57話、ネガティブな声を振り切る将也について

※このエントリは、第57話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第57話の最後で、将也は、橋メンバーだけでなく、クラスメートや担任の先生のバッテンを次々と外していきます。

中学のとき、勇気を出して限定盤CDの話題で島田に話しかけたにも関わらず、心ないことばを返されて傷ついて以降、将也は心を閉ざし、人の顔を見ず、人の声を聞かない人間になってしまいました。
それを象徴的に表したのが、周りの人間の顔につけられたバッテンだったわけです。

今回、久しぶりに学校に来た将也は「ぜんぶ見る ぜんぶ聞く」と決意し、勇気をもって橋メンバーと対話し、全員のバッテンをとり、そして文化祭で出会うクラスメートともしっかり向き合い、バッテンを1つずつ取っていくわけです。

そんななか、将也の耳に飛び込んできた声。

「よく 学校 来れるよなぁ」


第57話、15ページ。

これまで将也がずっと恐れていた(であろう)、ネガティブな「声」でした。

でも、将也はここでこのことばをしっかりと受け止めます。
それはちょうど、前半の橋メンバーとの対話の際、小競り合いを始めてしまった川井、植野、佐原とのやりとりを見て、佐原から「変わってなくてごめん」と言われたときの将也の様子に、よく似ています。


第57話、11ページ。

前半のこのやりとりのとき、将也はそれを「変われないこともある」と受け止め、そして一気に残りの橋メンバーのバッテンをすべて外しました。

そして後半、どこからともなく聞こえてきた、このネガティブな声を聞いて、将也は、同じようにこう思ったのでしょう。

俺のことを悪く思う奴もいる。

と。
そしてそれを、当たり前のこととして(これまでは逃げ続けてきましたが)今度こそ受け止めることができたのだ、と思います。

「変われないこともある」ということを自然に受け止められたことで、橋メンバー全員のバッテンをはずすことができたように、「俺のことをネガティブに思う奴もいる」ということを自然に受け止められたことで、将也は、クラスメート全員にバッテンをつけて守らなければならないものがなくなったことになります
だから、ここでバッテンをすべて外すことができたのだ、と思います。

この場面でのクラスメートとのやりとりで、将也を歓迎する声だけでなく、「ネガティブな声」もしっかり将也に届いたことは、とてもよかったですね。
「ネガティブな声」を聞いて、それでも動じなかったからこそ、もう大丈夫、今後多少の逆境に陥ったとしても、バッテンをつけてしまうところには戻らないだろう、と、将也自身も読者も確信できるようになったと思います。

将也は、ようやく過去の呪縛から解放され、自由になった、と言えると思います。
タグ:第57話
posted by sora at 07:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第57話、永束の「願かけ」発言は出まかせだった?

※このエントリは、第57話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第56話の映画で、永束はなぜかチョビヒゲを生やしたチャップリンのようないでたちで映画に登場し(実際、無声映画でもありますからチャップリンのオマージュなのかもしれません)、そして映画が終わって教室に灯りがついたとき、やはり永束はチョビヒゲを生やしていました。


第57話、1ページ。

あまりに似合っていないこのヒゲ、第57話でさっそく将也がツッコミを入れています。

将也「てか なんだよ そのヒゲ」

それに対して永束は、

永束「願掛けだよ やーしょーが元気になれるようにって」


第57話、8ページ。

と答えています。

この答えからすると、永束のチョビヒゲはつけひげを貼り付けているんじゃなくて、地毛を生やしている、という風に受け取れるのですが、それにしてはちょっとおかしいのです。

第51話で、映画メンバーは水門小にロケに行って映画を撮影しています。
この日が、9月2日の火曜日であることは、まんがの中のカレンダーではっきりしています。

映画のカントクである永束は、当然この日も忙しそうに動き回っているわけですが…


第6巻154ページ、第51話。

ヒゲなどまったく生やしていません

映画のなかで、ヒゲを生やした永束が登場するのは「廃屋のシーン」で、このシーンは恐らく9月9日に撮影されたと推測されます。
そうなると、9月2日以降に永束はヒゲを伸ばし始め、9日に間に合わせてチョビヒゲを完成させ、映画に俳優として登場した(そしてそれを願掛けのためにそのまま剃らずに維持して、この文化祭の日を迎えた)、ということになるわけですが、これだと2つほどおかしな点が出てきます。

まず、

1)さすがに1週間でここまでの立派なチョビヒゲを完成させるは無理。

ということです。1週間でできるのはせいぜい「無精ひげ」的なものであって、映画のなかの永束のような立派なチョビヒゲは、1週間では難しいと思います。

そして次に、もっと致命的な問題として、

2)願掛けのくせに、将也が昏睡中はまったく伸ばさずに、将也が目覚めて元気になってから伸ばしていることになる。

ということです。
もちろん「早く登校できるくらい回復するように」という「願掛け」は不可能ではないでしょうが、それにしても昏睡中にまったくやらない「願掛け」というのはあまりにも不自然です。

となると、やはり答えはこうなるでしょう。

・永束のチョビヒゲは、やはり地毛ではなくつけひげ。
・しかも、別に映画撮影中ずっとそのヒゲをおまじないのようにつけていたという事実もなく、実際にこのヒゲをつけたのは映画に出演したときと今回(上映時)のみ。
・永束が将也に対して答えた「願掛け」というのは、せいぜい、「自分は高校生だからヒゲを伸ばすことは実際にはできないけど、気持ちではヒゲを伸ばして願掛け(をしたかった)」という程度のもので、端的に言えば将也に対していいかっこをするためのハッタリだった。


…。
まあ、永束らしいといえばらしいですが、相変わらずいい顔をするためにハッタリをかましたりウソをついたりする、という根っこのところはあまり変わっていないようです。
タグ:第57話 第51話
posted by sora at 07:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 第7巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

すべては植野のせいだった?

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

これは半分ネタでもあり、またもしかすると禁断のネタ?かもしれませんが(笑)、「聲の形」の物語で起こっているさまざまな事件や悲劇のほとんどは、実は植野が動いていなければ起こっていなかったんじゃないか?という疑惑があります。

以下、順に見ていきたいと思います。

1)植野が佐原と席を交換しなければ…

第1話の席替えで、窓際の席が当たった植野は、将也の近くに行きたくて、佐原と席を交換しました。


第1巻44ページ、第1話。

もしこの交換がなければ、植野はひとり窓際になり、将也の近くには川井・佐原が座っていたことになります。
その場合、硝子は、竹内がどうしても植野を世話係にしたいと考えていたなら植野の隣となり、将也と硝子は離れて座っていたことになります
この場合、「将也が硝子に興味をもってからかい始める」というイベントそのものが起こらなかった可能性があります。

また、もし竹内が硝子を委員長である川井の近くに座らせようと考えていた場合、硝子は将也の近くに座ることになりますが、植野は離れたところに座っており、かつ、硝子の世話を焼きたがっていた佐原が硝子の近くに座ることになります
この場合、硝子と植野の確執は生じず、また、佐原のサポートが得られたであろうため、硝子はクラスになじんで平和に学校生活を遅れた可能性があります。


2)植野が喜多先生の提案をつぶしていなければ…

植野は、自分一人に硝子の世話の負担がかかっているのに評価されないことに不満をいだき、喜多先生の提案した手話勉強会の話をつぶしてしまいます。


第1巻87ページ、第2話。

もしここで植野が反論せず、手話勉強会が始まっていたらどうなっていたでしょうか?
もちろん、手話について否定的なクラスメートもたくさんいたと思いますが、佐原や将也は興味をもって勉強を続けた可能性が高そうですし、クラスのなかに一定の理解者を作ることは可能になったのではないかと思います。


3)植野が佐原をいじめなければ…

第2話で、喜多先生の提案に乗って、佐原が手話を勉強して硝子の世話を引き受けることを申し出ましたが、それによって面目をつぶされたと感じた植野が佐原をいじめ、佐原は不登校になってしまいます。


第1巻92ページ、第2話。

もしこの「植野による佐原いじめ」がなければ、硝子はクラスの中に佐原という理解者を得て、クラスの中に一定の居場所を得ることができ、無事に卒業を迎えられたのではないかと思います。

さらに、当然ですが佐原自身も不登校にはならなかったので、不登校による挫折と再生という、佐原のドラマ自体も起こっていなかったでしょう。


4)植野が島田の将也いじめに乗っていなければ…

植野は、学級裁判後、将也いじめを始めた島田からの誘いを断れず、一緒に将也をいじめ始めます。


第6巻134ページ、第50話。

もし植野がこの島田からの誘いに乗らず、将也いじめに加わっていなければ、植野は島田から「机の落書きが消されている」という情報を得ることはなく、そうなればそれを消している硝子に関心をもつことはなく、硝子いじめを開始して硝子を転校にまで追い込むことはなかったでしょう。


5)植野が硝子いじめを続けていなければ…

植野は、硝子が将也の机の落書きを消しているのを発見して、将也に色目を使っていると判断して硝子いじめをエスカレートさせ、硝子を転校にまで追い込みました。



もし植野がこの硝子いじめをやっていなければ、硝子は何とか水門小に踏みとどまって勉強についていくことができ、転校することなく水門小を卒業できたのではないでしょうか。
そして、もし硝子が後半いじめを受けることなく、無事に水門小を卒業できていれば、将也が中学時代に受けたいじめのきっかけである「硝子をいじめ抜いて転校させた」という噂は生じないことになり、将也は中学時代に孤立しなかった可能性が高くなります。
また、そもそも、植野によって行われていた(後半の)硝子いじめは、植野ではなく将也がやっているものだと、小学校時代の島田らやクラスメートから誤解されていたフシがあります
ですから、植野が硝子いじめを行わなければ、将也がやっていたことは「学級裁判までの間だけ硝子をいじめていたが、学級裁判後はおとなしくしていた」という評価となり、小学校の卒業前から中学時代の将也へのいじめはなくなっていた可能性さえあるわけです。


6)植野が、硝子をいじめて転校に追い込んだのは自分だと島田に告白していたら…

ここからは推測が入りますが、中学に入った島田が、「将也が」硝子を転校に追い込んだという噂を流し徹底的に叩いた一方で、植野との関係が良好なまま続いていることを見ると、島田は植野が行った後半の硝子いじめは将也の仕業であるとずっと誤解を続けていた可能性が高いです。

もし、植野が島田に正直に「硝子を転校に追い込む後半のいじめをやっていたのは自分だった」と早い時期に正直に伝えていれば、島田は将也いじめをやめていた可能性が高いのではないでしょうか。


…こうやって考えてみると、「聲の形」の高校編を成り立たせるための、小中学校時代のほとんどの事件は、実はほぼすべて植野の行動によって生じた結果になっていることに愕然とします。

高校編になって以降も、まあぶっちゃけ植野はトラブルメーカーなわけですが、それでも植野によって状況がかき回された結果として「物語がポジティブな方向に動く」という展開が多々あるのでまだ救いがある印象です。
一方で、小・中学校編では、植野の選択した行動のほとんどすべてが、将也と硝子の運命をネガティブな方に転落させていくものばかりになっていることに驚くほかありません。
もしもこれらの「行動の選択」の中で、たった1つでも植野が本編とは違う行動をとっていたら、「聲の形」高校編は存在すらしていなかったことになります。
そういう意味では、「聲の形」は、内容としては将也と硝子の物語ではありますが、構造としては、植野の行動選択によって作り上げられた、「植野の物語」でもあるのですね。
posted by sora at 07:01 | Comment(3) | TrackBack(0) | 第1巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする