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2014年12月10日

「このマンガがすごい!2015」発売!

12月10日発売の、宝島社「このマンガがすごい!2015」、ようやく入手することができました。





表紙を見てすぐ分かるとおり、事前の情報どおり、今年のオトコ編第1位は、「聲の形」が見事獲得しました!

そして、その後8ページにわたる大今先生へのロングインタビューが掲載されています。



上記の写真の左端に少しだけ入れてありますが、インタビューのページに、大今先生の描きおろしのカラーイラストが掲載されています。
将也、石田母、そしてマリアがカラーで登場しています。
特に石田母とマリアがカラーになったのは恐らく初めてで、「プリン」とも言われる(笑)石田母の髪の色がようやく判明しています。マリアの帽子は緑色だったんですね。

そして、今回のインタビューですが、相当に読み込んで、伏線などを徹底的に読み解いてきた人がインタビュアーをやっていることがはっきりわかる内容になっています。



内容としては、リフレイン構造の話や、回収されなかった伏線の話題が中心なのですが、その「回収されなかった伏線」として指摘しているポイントが極めて的確です。

・竹内が手話を覚えていたこと
・石田母のピアス引きちぎり事件
・途中から硝子の右耳の補聴器が消えること

実際、これらは私も「回収がまったくされなかった伏線」として指摘していたものです。(一方で、「島田との対決がなぜなかったのか」とか「自殺の理由がはっきりしない」といった、深く読めば描かれていると言えるポイントを「未回収」として指摘するようなことはまったくありませんでした)

また今回、大今先生が、硝子の障害の程度について、非常に重要な「ネタバレ」を1つされています。

「硝子は高度難聴。聾ではないが、右耳がほとんど聞こえない」(大今)。(本書9ページより)

そして続く文章で、「作中、途中から硝子は右だけ補聴器をかけなくなる。」と記述されており、上記の大今先生の答えとあわせて、「硝子が右耳に補聴器をかけなくなったのは、かけても聞こえないから無意味だからつけなくなったのだ」と推測できるようになりました。
これはとても重要な情報だと思います。

さて、そんなわけで、聲の形のファンブック的要素も十分兼ね備えた今年の「このマン」、ちょうど1週間後に控えたコミックス最終第7巻とあわせて、ぜひ一緒に揃えたくなる、すばらしい内容でした!
posted by sora at 07:18 | Comment(17) | TrackBack(0) | その他・一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(10)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

島田が登場し「片手間だからこんなモンだろ」吐き捨てたことで、映画が酷評されたという「結果」事象に対して、

4)努力(=内的、かつ変動する)

への原因帰属が提示されました。

この新しい帰属に飛びついたのが、植野と佐原でした。


第58話、14ページ。


第58話、15ページ。

この二人については、かなりはっきりと衣装を否定されたという「出発点」があるうえ、そもそも衣装というのは「他人から評価される」ことが大前提のものです。
ですから、「見る人が悪かった」という「運」に帰属させるのは、実はあまり納まりが良くありません。
さらに、当然ですが、「能力」に帰属させてしまうと、二人が目指している進路に必要なスキルを自ら否定することになってしまいます

それに対して、「今回は全力を出さない片手間だったから、あまり評価されなかった」という「努力」に原因帰属させることができれば、ある意味もっとも自己肯定感を損ねることなく、結果を冷静に受け入れることができることになるわけです。

この「努力」への帰属は、前半で永束と川井がけんかしていたときに出てきた「能力」への帰属と、ちょっと似ているようで実はまったく違います。
「能力」に帰属してしまうと、「自分には能力がない」から「結果が出せなかった」のだ、ということを認めなければならなくなりますが、「努力」に帰属すれば、「自分には能力がある」けれども、「今回は全力を出さなかった」から「結果が出なかった」のだ、と考えることができます
つまり、「自分には能力がない」という認識を受け入れるのは困難な場合が多いですが、「自分には能力はあるが今回は努力が足りなかった」という認識は、それよりもはるかに受け入れが容易なわけです。

そう考えると、この島田の「努力帰属」のせりふに即座に反応した植野に、もともと上昇志向(努力志向)の強い佐原が乗っかるのは当然の流れでしたし、川井と永束、そして真柴についても、その「原因帰属」がもっとも受け入れやすいものであったことは明らかです。


第58話、15ページ。

結果、すべての映画メンバーは「今回は全力を出さなかったから評価が低かった」、という「努力への原因帰属」を受け入れて、納得しました。
これによって、今回「映画が酷評された」という辛い結果は「過去のもの」となり、あわせて、「こんどはもっと努力していい結果を出そう」という前向きな認識も残すことができたことになります。

これは、今回のような問題の着地点としては、とてもいいものだったと思います。

ただ、真柴については、本当にこれで良かったのでしょうか?
そう簡単には「努力」に帰属できない状況にあるはずの真柴が、あっさり「うん」と言って場を収めているのは、ある意味ちょっと切なく映りますね。
タグ:第58話
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(9)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第58話では「映画が酷評される」という「結果」事象が発生しています。
そしてこの結果に対して、各メンバーによって、さまざまな「言い訳=原因帰属」が行われていきます。
それらについて、先の「原因帰属理論」に当てはめながら、改めて眺めていきましょう。

最初の、植野・佐原の「なにもわかってないくせに…」という批判は、審査員が適切に評価してくれなかった(審査員がダメダメだった)、ということを言っているわけですから、これは、カテゴリとしては

2)運(=外的、かつ変動する)

に帰属していることになります。


第58話、9ページ。

その後、植野から文句を言われた永束が反論して、川井とやりあっているところでは、映画メンバーそれぞれのスキル不足を言い合っているので、ここでの帰属カテゴリは、

3)能力(=内的、かつ固定)

ということになるでしょう。


第58話、10ページ。

「(変な審査員で)運が悪かった」から、「メンバーの能力不足の問題だった」に帰属が移行したわけですから、場が荒れるに決まっています。そして、「誰の能力が足りなかったのか」の「犯人探し」になっていったわけですね。

ここで将也が改めて「みんな最高、映画はよくできてた、審査員がわかってねーんだ」と反論したところで、帰属は改めて

2)運(=外的、かつ変動する)

に戻ります。

ここで、「運」というのはわかりやすさのラベルであり、実際には「変動する外的要因への帰属」ということになります。
ですから、将也は「変動する外的要因」である「審査員の評価」のサイコロをもう一度振るために「審査員にかけあって再評価させる」という手段に打って出ようとしたわけです。(これはテストの例でいえば「もう一度テストを受ければこんどはいい結果が出るかもしれない」というのと同じような話です)


第58話、12ページ。

そして、ここで島田が登場します。
島田は、「糞みてーな奴に認められて嬉しいのかよ」と、将也の原因帰属(と問題の解決法)をやんわりと否定しつつ、新たに「片手間だしこんなモンだろ」と、新たな帰属を提示します


第58話、13ページ。

「片手間だからこんなモン」というのは、

4)努力(=内的、かつ変動する)

への帰属だ、ということに気づくでしょうか?

ここへきての島田のひとことで、ある意味(失敗したことを納得し、次につなげるためには)もっとも望ましい、「努力」への原因帰属が初めて示されたことになります。
タグ:第58話
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(8)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

ここまで、第58話における選考会後のメンバーのやりとりを「認知的不協和理論」に基づいて読み解いてきました。

ところで、この映画を酷評されたことに対して、当初永束が「みんなのスキル不足で」映画の完成度が低かった、と主張した時はみんな感情的になって反論したのに、佐原が「みんなが全力を出してなかったから」映画の完成度が低かった、と整理したときには、みんな納得して話が丸く収まりました

どちらも似たような、「出された力が不十分だったから」映画の完成度が低かった、という考え方なのに、前者ではみんなが怒って後者ではみんなが納得したのはなぜでしょうか?

このあたりについては、「認知的不協和理論」とは別の、「原因帰属理論」という社会心理学の概念をもってくることで、うまく説明できるように思います。

「原因帰属」というのは、なんらかの「結果」としての事象が生じたとき、その事象を引き起こした「原因」はなんであるか、ということを考えるときのフレームワークです

何かが起こったとき、その「原因」は最初から1つに定まっているようにも思えますが、実際にはそんなことはなく、さまざまな要素が複雑にからみあっています。また、神様ではない私たちには、「正しい原因」が必ずしも見えないこともあります。
そんななかでも、私たちはある事象を引き起こした「原因」が何であるかをいろいろ考えて、結論を出して納得して、それによって「経験から学んで」前に進んでいく、そんなことを繰り返して毎日を過ごしているわけです。

ここで興味深いことに、その「原因帰属」について、人によってどのようなものを「主な原因」と考えるかという傾向は人によって違っています。
その違いは、その人のものの見方、考え方についての「個性」そのものであり、場合によってはその後の人生にも影響を与えます。

原因帰属理論では、さまざまな事象に対する、想定しうるさまざまな「原因」を、大きく4つのカテゴリに分けて考えます。

そのカテゴリは、「外的―内的」という軸と、「固定(安定)―変動(不安定)」という軸、2軸を組み合わせたマトリックス構造をしており、次のように分類されます。

1)外的ー固定:課題の難しさ
2)外的ー変動:運
3)内的ー固定:能力
4)内的ー変動:努力


それではまた今回も、「認知的不協和理論」のときと同様、いったんまんがを離れて、この「原因帰属理論」を理解するための簡単な例をあげてみたいと思います。

ある子どもがテストを受けたものの、テストの点数が悪かった、とします。
このとき、子どもは(あるいは指導者は)その「テストの点数が悪かった」という「結果」に対して、なにか理由をつけて「言い訳」をすることになるでしょう。

その言い訳こそがまさに「原因帰属」ということになるわけです。

その「言い訳=原因帰属」は、先の原因帰属理論における4つをふまえ、つぎのようにカテゴリ分けをして考えることができます。

1)”課題の難しさ”に帰属
「あの先生のテストはいつも難しすぎるんだ。あんなテスト、授業が全部分かっててもいい点取れないよ!」

2)”運”に帰属
「今回はたまたま風邪で体調が悪かったからしょうがないよ」

3)”能力”に帰属
「ボクはこの教科はよくわからなくて、クラスの中でもできないほうなんだ…」

4)”努力”に帰属
「今回はテスト勉強が足りなかった。今度は頑張っていい点を取るよ」

ちなみに、一般論として、子どもの教育上、望ましいとされている原因帰属の方向性とは、上記のうちどれでしょうか?

…そうですね。「努力」です

できるだけ成功体験を繰り返せるようにし、かつその成功を「努力」に帰属させるように誘導することで、子どもの学習意欲を高めることができると考えられています。

なぜでしょうか?

上記の4つの類型の「原因」のなかで、自分の力で変えることができる割合がもっとも大きいのは、「努力」だから、です。
成功した時も、失敗した時も、「努力のおかげだ」「努力不足のせいだ」と考えることができる子どもが、努力することを大切にして伸びていく、一般論としてはそういうことが言われています。

さて、それではこの後はまんがの話に戻り、「映画が酷評された」という「結果事象」に対し、それぞれのメンバーがどのような「原因帰属」を行っているかを見ていきたいと思います。
タグ:第58話
posted by sora at 07:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(7)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

前エントリでみたとおり、佐原の「これが全力だと思われたくないね」というせりふは、ある意味、将也を、選考会の審査員と同じ「非当事者」の地位におく発言ではあるのですが、だからといって将也を審査員と「同じ」と評しているわけではありません。むしろ逆です。

つまり、

・糞みたいな評価をしたクソみたいな審査員

と、

・みんなの納得できる評価をした将也

が対置されることによって、島田の捨てぜりふもしっかり受け止めて消化し、将也の映画への評価を損なわない形での認知的不協和の解消を志向しているのです。


第58話、15ページ。

島田の言うとおり、「糞みたいな奴」には評価されなかったけれども、別にそれは糞みたいな奴の評価だから気にもならない。
一方で、「糞」ではない、仲間である将也は、映画にかけられた思い、願い、配慮、努力を理解して、ちゃんと評価してくれた。
もともと、この映画はある意味「将也のために」作られた映画でもあったわけですね。
ですから、そんな将也にはこの映画はしっかり評価されたわけですから、その評価はとても嬉しいものだし、そういう意味で映画は「正当に評価された」ことになったわけです。

さて、この佐原の投げかけたボールに、将也以外のすべてのメンバーが賛同します。

川井、真柴、永束:1’)うん、確かに全力を出していなかった。だから映画の完成度はそこそこだけど、自分たちが全力をだしたらほんとはこんなもんじゃない!


第58話、15ページ。

これで、最終的に認知的不協和が以下のように解消され、「平和」が戻りました。

1)映画には全力を注げなかったので、完成度はそこそこだった。
2)審査員はろくでもない人間だったが、そこで下った評価は受け止めなければならない。
3)だから、映画は評価されなかった(でもそれはやむを得ないし納得する)。


この結論に、佐原のせりふ以降「部外者」という立場になった将也は納得せざるを得ず、みんなにジュースをおごってその場は収まりました。
ちなみに、ここでジュースをおごったのが将也だということも、将也はこの映画に対して、「外部」から「良かった」と評価をする「非当事者」である、ということを象徴的に表していることを見逃してはなりません。
最終的に、この映画は、いちばん見てほしかった将也に見てもらえて(将也が昏睡から無事に目覚めて、ちゃんと文化祭にきて映画を見ることができたことは、それだけで映画メンバーにとっては大きな喜びだったはずです)、そしてその将也に高く評価してもらえました。
その「評価」の象徴が、ここでみんなにおごられたジュースだったんだろうと思います。
つまり、文化祭で映画を上映した時の将也のスタンディングオベーションこそが、この映画の「表彰」であり、ここでおごられたジュースが、映画制作メンバーへの将也からの「賞品」だったのだ、ということですね。

さて、ここまでは選考会後のメンバーのやりとりを「認知的不協和理論」に基づいて読み解いてきましたが、このあとさらに続けて、同じく社会心理学の概念である「原因帰属理論」によるさらなる読み解きを行いたいと思います。
タグ:第58話
posted by sora at 07:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする