2014年12月09日

Androidアプリ「コミコミ」で、聲の形のデータが配信開始!

こんなアプリがあるとは知りませんでしたが、まんがのコマを書き換えて遊ぶという「コミコミ」というアプリで、聲の形のデータが本日から配信開始しました。

http://www.animate.tv/news/details.php?id=1418018046

Androidで先行配信ということで、私はAndroidの人なので早速入れてみました。

https://play.google.com/store/apps/details?id=me.comi2.android.google
Google Playの該当ページはこちら。


インストールは無料です。ストアにアクセスすると確かに聲の形のデータが。


データ購入に200ポイント(216円)かかります。アプリ内課金でポイントを購入。


購入できました。さっそく使ってみます。


好きなコマを選んでふきだしを編集します。数えてみたら24コマありました。


できあがり!(笑)
できあがった画像はファイルとしても保存できますし、TwitterやLINEなどでつぶやくのにも使えます。

まあ、たわいない遊びですけど、216円で遊べるなら、ファンなら利用する価値は十分あるように思いました。
あいさつ用の画像をいくつか作ってTwitterやLINEで使おうかと思います(^^)。


posted by sora at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(6)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

島田の、「片手間だからこんなモンだろ」という、映画の完成度を割り引く発言(認知的不協和解消方法としては、先のエントリの1’)に該当します)に対して、まっさきに賛同したのは植野でした。

植野:1’)そうよ こんなのただの片手間


第58話、14ページ。

それに対して将也が再度反論します。

将也:1)お前なあ みんな全力で頑張ったのに

この将也の発言は、島田の出した1’)を1)に戻そうとするものであることに注目です。
でもここで植野は佐原に賛同を求め、佐原はユニークなボールを返します。

佐原:1’)たしかに私達は全力を出さなかった
   2’)にもかかわらず全力を出してこの程度だと評価されてしまったかもしれない
   3)だから評価されなかったのは仕方がない



第58話、15ページ。

佐原の返したボールは、島田・植野の考えを踏襲したものですが、同時に、将也を映画の「当事者」から「非当事者」に位置変更する発言になっているのです。

というのも、将也は映画メンバーが「全力を出した」と言いましたが、実際には将也は映画制作に実質参加しておらず、そういう意味では、今回の選考会の評論家と同じ「外部から完成後の映画を評価する非当事者」です

これがメンバーの「全力を出した結果」であると評価したのは、将也も審査員も同じでも、将也はその「全力」のなかにメンバーの思いや配慮などを感じたから高く評価して、審査員にはそういうものは伝わらなかったから評価されなかった、ということです。

だから、佐原のこの「これが全力だと思われたくないよね」というのは非常にたくさんの意味が込められていて、

・審査員から下ったこんな酷評が、私たちの全力だと思われたくないよね。だからこれからもっと努力をして上を目指していけばいい。

・石田君はこれが私たちの全力だと思って評価してくれたけど、こんなもんじゃないよ、もっと上を目指せるから期待していてね。

・全力じゃなかったから、(島田が言うとおり)わかってない審査員には評価されなかったけど、「ちゃんと分かってくれている」石田君には評価されたからそれでいい。

・だから、酷評された結果そのものは仕方がないということで受け入れよう。


このせりふは、とても「佐原らしい」と思います。
それは、

・「これが全力だと思われたくない」というのがいかにも佐原らしい上昇志向を表している

のと同時に、

・「石田君は今回の映画では当事者じゃないよ」「だから私たちの映画制作が全力だったかどうかなんて本当は分からないよ」という、身も蓋もない冷徹な判断をあっさりと下している

ところです。

佐原回で、硝子の自殺を止められなかったことを「どうにもならなかった」とやはり「冷静」に振り返っている佐原らしい、見た目とは裏腹な人間関係への意外なドライさが浮き彫りになったせりふだと思います。
ラベル:第58話
posted by sora at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(5)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、認知的不協和解消のために、

3)自分たちの映画は賞賛されなかった

という「結果」そのものを変えようとする行動をとろうとした将也でしたが、それに対して、「あの男」が異論を唱えました。

島田:2)人から作品を評価されるというのはそういうもんだ。自分たちが評価しないクソみたいな審査員に評価されても嬉しくもないだろう。


第58話、12ページ。

そして、3)の結論を変えようとする将也の行動を批判したわけです。

3)審査の結果など変わるわけがない。変えてやるなんていう将也の行動は、昔と変わらず、相変わらずダサい。


第58話、12ページ。

音楽のプロか何かを目指して、オーディションなどを多数受けて、ひどい評価もさんざん受けているであろう島田らしい「大人の」発言です。

そして、将也の行動への批判については、第1話の頃、いつまでも子どもっぽい将也に対し「もうこんなガキっぽいことはやめよう」と言っていたのを彷彿とさせますね。
いつまでも子どもっぽさの抜けない将也と、小学校のころからませて冷めていた島田。
ここは、その対比がうまく描かれている場面だと思います。

さて、ところが、ここで将也の行動を否定することで、みんなの認知はふたたび「認知的不協和」の状態に戻ってしまいます

よく読むと、島田の意見は2)を否定しているように見えて、していません。
そうではなくて、もともとの2)を差し替えているのです。

1)自分たちの映画は優れている
2)審査は適切に行なわれた → New2)審査は適切な場合もそうでない場合もあるが、審査とはそもそもそういうものであって結果がすべて
3)自分たちの映画は賞賛されなかった


そしてそのうえで、島田は1)について、別のボールを繰り出します。

1’)片手間でやったんだから映画の完成度もそこそこで大したことはない。
New2)審査もろくでもないが、審査なんてまあそんなもの(島田のニュアンスとしては、「努力なんて評価とは関係ないし、審査員の言ってることはそんなに間違ってない」と言っているように聞こえます)。
3)だから映画は高く評価されなくても仕方ない。結果を受け入れろ。

ラベル:第58話 第01話
posted by sora at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(4)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、ここまで、植野・佐原、永束、川井、硝子といったメンバーがそれぞれとった「認知的不協和」解消のための言動をみてきましたが、ここまでの各メンバーのやり方は、どれも、3)の「映画が評価されなかった」という「結果」を変えるものではありません

3)の結論はありきで、1)もしくは2)に対する認知を変えることで、矛盾を抱えることの心理的ストレスを解消しようという動きということになります。

ところが、これに対して、一人だけ全然違う「認知的不協和解消」に乗り出そうとする人物が登場します。

そうです、それが将也です。

将也:1)映画はよくできていた。みんな頑張って作ったんだ。

   2’)だから、映画を酷評した先ほどの審査は不当だった。

   3’)この映画は評価されるべきだから、「評価されなかった」という結果を変えるために審査員のところに乗り込む。


という風に、認知的不協和解消のために、「認知の修正」だけではなく、「現実を変える」ための行動までとろうとしたわけです。


第58話、12ページ。

これは、とても積極的であると同時に、非現実的で「子どもっぽい」行動選択でもあるように感じます。

常識的に考えて、一度くだった映画への評価が、制作メンバーの説得ごときで覆るなんてことはあり得ません。
どこまでいっても、映画の評価というのは「映画を見たことによる評価」であって、それはすでに選考会のあの場で完璧に終わっているわけです。

にもかかわらず、審査員にもう一度かけあって何かを主張すれば自分たちが望むような方向に結果が変わるかもしれない、と期待する(あるいは、難しいと分かっていてもあえてそういう行動をとろうとする)のは、小さい子どもが持っている「万能感」に近いものである、と評価せざるを得ません。

ただこれは言い換えると、「あの頃の将也」が戻ってきている、ということでもあるのかな、とも思います。
学級裁判でカースト転落する前の将也はまさに、「どんなに度胸だめしをしても死なない」「自分の仲間たちは自分と同じことを考え、同じことを楽しんでいる」という、無邪気な万能感に支配されていたと思います。


第1巻41ページ、第1話。

一方、その後カースト転落して、どんなに努力しても孤立から抜け出せないという状況が続いていく中で、将也は逆に「何をやっても何も変わらない」という「無力感」を学習し、それに支配されていったと思います。
橋崩壊事件のときの将也の態度は、まさにそれを示すものだったと言っていいと思います。

そんな将也が、「自分が動いて結果を変える」と主張して実際に行動を起こそうとしたことは、硝子と向き合い、クラスメートと向き合い、バッテンを外していった一連の流れの中で、「かつての将也」が少しずつ取り戻されている(あるいは、分裂していた「かつての将也」と「いまの将也」が統合されつつある)状況を象徴的に示しているようにも思います。
ラベル:第01話 第58話
posted by sora at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(3)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

選考会後の言い争いで、植野から「見た目がダサかった」と個人攻撃された永束は、その前の植野・佐原とは違う形での「認知的不協和の解消」を試みます。

というのも、永束は審査会が始まる前に、審査員がいかに著名人で優れているかをさんざん力説しています


第58話、3ページ。

つまり、永束にとっては、

2)審査は適切に行なわれた

という認知が正しいということへのこだわりがもともと相当強かったわけです。
そのため、永束としては今さら2)を否定することはハードルが高く(後には引けない)、必然的に議論を

1’)自分たちの映画は優れていない、と「認知」を変える。

の方向にもっていかざるをえないことになります。永束が認知的不協和を解消するために主張した1’)の具体的な内容とは、

永束:1’)実は、映画には問題があった。

・植野、佐原の衣装のデザインセンスが悪かった。
・川井が脚本にフェアリーやファンタジーといった変な要素を入れたのが悪かった。

など、「自分以外」の映画メンバーのスキルが低く、映画のクオリティが下がってしまった。



第58話、10ページ。

興味深いことに、永束は一貫して審査員のことをまったく責めていないことに気がつきます。
審査員を責めずに目の前の映画メンバーを平気で責めてしまうあたり、やはり永束らしいなあと思います。

ついでに、それに対する川井の反論は、

川井:1’)映画の脚本はよくなかったかもしれないが、それは自分のせいではなく、永束の意向を取り入れたのが原因である(だから永束が悪い)。


第58話、10ページ。

という風に整理できるでしょう。

そして、橋崩壊事件のときと違って、今回はちゃんと自分の意見が(一応)言えた硝子の反論はどちらかというと植野に近く、

硝子:1)映画の出来が悪いわけではなく、みんなよかった。


第58話、11ページ。

と、永束らが言い争っている映画メンバーの否定=1’)を改めて否定して、1)を再度肯定する意見を言っています。
まあ、映画再開を必死に主導した硝子からしてみれば、1)を否定することなどありえないでしょうから、これもまた自然な反応だといえます。

ただ、1)を認めるというだけだと、再び認知的不協和が発生してしまいます。
硝子はその先を言っていないので、硝子にとっての認知的不協和解消の方向性がどうなのかははっきりしませんが、まあ自然に考えれば、

硝子:2’)審査員がみんなの努力や配慮をちゃんと認めてくれなかったから、評価が不当に低くなってしまった。

という、まあ「優等生」的な認知修正を行ったのだ、と思います。

そしてこの後、将也がひとり、ここまでとはまったく異なった認知的不協和解決策をとろうとします。
ラベル:第58話
posted by sora at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

第58話を社会心理学の視点から読み解く(2)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

今回、映画を酷評された直後の映画メンバーは、以下のような認知を同時に抱え、「認知的不協和」の状態に陥っています。

1)自分たちの映画は優れている
2)審査は適切に行なわれた
3)自分たちの映画は賞賛されなかった


上記1)から3)は、このままだと同時に成立することのできない「矛盾した認知」です
でも、映画を酷評された直後の映画メンバーは、この矛盾した認知をいったん同時に抱えざるを得ない状況になっていますから、その矛盾を解消すべく、認知もしくは行動の修正を行おうとすることになります。

その「認知または行動の修正」を行うために、映画メンバーがとった行動こそが、あの選考会場での「言い争い」に他ならないわけです。

簡単に整理すると、この1)から3)の矛盾を解消するには、この3つのうちのどれかを否定する必要があります。

具体的にはこうなります。

1’)自分たちの映画は優れていない、と「認知」を変える。

2’)審査は適切に行なわれなかった、と「認知」を変える。

3’)自分たちの映画が賞賛されるように、「行動」を変容させる。


そして、実際の言い争いのなかで各メンバーがとった現動は、それぞれこの1’)から3’)のいずれかに該当することが分かります。

最初に植野、佐原が、審査員は衣装のことを何も分かっていない、と憤慨する場面では、ふたりは2)の認知を否定しようとしています。

植野、佐原:2’)審査員は、衣装のことを何も分かっていない。審査は不当である。


第58話、9ページ。

ここで植野は、「俺 めっちゃ腹たってる」と憤慨してみせた将也に(これはまさに「俺はいま認知的不協和のなかにいる」という将也の告白そのもんです)、衣装も音楽も悪くなかった、ということを言わせて自己確認します。
これは、植野にとっての、1)の認知が間違っていない、修正不要であることの再確認です。


第58話、10ページ。

そのうえで植野は、永束のセンス全般が悪かった、と個人攻撃を始めます。

植野:2’)審査員は、永束のダサい格好を見て、映画の中身までダサいと勘違いしてしまった。審査は不当である(が、原因は永束)。


第58話、10ページ。

でも実は、ここでも植野は映画そのものの出来が悪かったとは必ずしも言っていないことに注意が必要ですね。
「衣装も良かった、音楽も良かった」と言っているだけで、永束についても「審査会での見た目がダサかった」と言っているだけで、映画そのものの出来を否定しているわけではありません。

ところが、それを受けた永束は、違う形での「認知的不協和の解消」を試みます。
ラベル:第58話
posted by sora at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする