2014年12月08日

第58話を社会心理学の視点から読み解く(1)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

今回、第58話で描かれたやりとりが、心理学的な観点から見て、すごく「典型的」な部分があって面白かったので、今回はちょっとそっち系のネタを書いてみたいと思います。

第58話の前半で、永束らが制作した映画が否定的に評価されたことに端を発する言い争いが発生します。


第58話、10ページ。

簡単にまとめると、せっかくみんなで頑張って制作して、出来にも自信があった映画を、著名な審査員に評価してもらうんだからきっと高く評価されるだろう、そう期待していたのに、結果はこっぴどく叩かれて作品を否定されてしまった、そういう状況に陥ってしまったわけです。


第58話、7ページ。

この「みんなで頑張って作った映画なのに、審査員から評価されなかった」という状況は、映画メンバーに、社会心理学でいうところの「認知的不協和」という状態をもたらした、と考えられます。

というわけで、このあとの説明のために必要になりますので、ここで社会心理学の用語である「認知的不協和理論」について簡単に説明しておきたいと思います。

「認知的不協和理論」とは、ヒトが何か矛盾する認知を同時に抱えると、ストレスがかかった状態になり、その状態を解消するために態度や行動を変更する、という考え方です

たとえばある人が、「私はタバコを吸っている」と「タバコは体に悪い」という2つの認知を同時にかかえたとします。
そうすると、これらは「矛盾」しており、この状態を「認知的不協和」と呼びます。
このような状態(矛盾する2つの認知をそのまま抱えている状態)が続くとストレスになるので、その人は例えば次のように態度や行動を変化させて、「不協和」を解消しようとします。

・タバコを吸うのをやめる。
・タバコは別に体に悪くない、と考える。
・タバコより交通事故とかのほうが危険だから、タバコはまだマシ、と考える。
・運動を始めて、タバコのマイナスを運動のプラスで穴埋めしようとする。


(どの解決法がいいとか悪いとかいうのとは別の話として、こういう「認知の傾向がある」というのが、認知的不協和理論がいっていることです。)


さて、話をまんがに戻したいと思います。

今回、映画を酷評された直後の映画メンバーは、まさに上記のタバコのケースと同様、「認知的不協和」をかかえた状態になっていることがおわかりいただけるのではないかと思います。

具体的には、以下のような「矛盾する認知」を同時に抱えてしまった状態です。

1)自分たちの映画は優れている
2)審査は適切に行なわれた
3)自分たちの映画は賞賛されなかった
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2014年12月09日

第58話を社会心理学の視点から読み解く(2)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

今回、映画を酷評された直後の映画メンバーは、以下のような認知を同時に抱え、「認知的不協和」の状態に陥っています。

1)自分たちの映画は優れている
2)審査は適切に行なわれた
3)自分たちの映画は賞賛されなかった


上記1)から3)は、このままだと同時に成立することのできない「矛盾した認知」です
でも、映画を酷評された直後の映画メンバーは、この矛盾した認知をいったん同時に抱えざるを得ない状況になっていますから、その矛盾を解消すべく、認知もしくは行動の修正を行おうとすることになります。

その「認知または行動の修正」を行うために、映画メンバーがとった行動こそが、あの選考会場での「言い争い」に他ならないわけです。

簡単に整理すると、この1)から3)の矛盾を解消するには、この3つのうちのどれかを否定する必要があります。

具体的にはこうなります。

1’)自分たちの映画は優れていない、と「認知」を変える。

2’)審査は適切に行なわれなかった、と「認知」を変える。

3’)自分たちの映画が賞賛されるように、「行動」を変容させる。


そして、実際の言い争いのなかで各メンバーがとった現動は、それぞれこの1’)から3’)のいずれかに該当することが分かります。

最初に植野、佐原が、審査員は衣装のことを何も分かっていない、と憤慨する場面では、ふたりは2)の認知を否定しようとしています。

植野、佐原:2’)審査員は、衣装のことを何も分かっていない。審査は不当である。


第58話、9ページ。

ここで植野は、「俺 めっちゃ腹たってる」と憤慨してみせた将也に(これはまさに「俺はいま認知的不協和のなかにいる」という将也の告白そのもんです)、衣装も音楽も悪くなかった、ということを言わせて自己確認します。
これは、植野にとっての、1)の認知が間違っていない、修正不要であることの再確認です。


第58話、10ページ。

そのうえで植野は、永束のセンス全般が悪かった、と個人攻撃を始めます。

植野:2’)審査員は、永束のダサい格好を見て、映画の中身までダサいと勘違いしてしまった。審査は不当である(が、原因は永束)。


第58話、10ページ。

でも実は、ここでも植野は映画そのものの出来が悪かったとは必ずしも言っていないことに注意が必要ですね。
「衣装も良かった、音楽も良かった」と言っているだけで、永束についても「審査会での見た目がダサかった」と言っているだけで、映画そのものの出来を否定しているわけではありません。

ところが、それを受けた永束は、違う形での「認知的不協和の解消」を試みます。
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(3)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

選考会後の言い争いで、植野から「見た目がダサかった」と個人攻撃された永束は、その前の植野・佐原とは違う形での「認知的不協和の解消」を試みます。

というのも、永束は審査会が始まる前に、審査員がいかに著名人で優れているかをさんざん力説しています


第58話、3ページ。

つまり、永束にとっては、

2)審査は適切に行なわれた

という認知が正しいということへのこだわりがもともと相当強かったわけです。
そのため、永束としては今さら2)を否定することはハードルが高く(後には引けない)、必然的に議論を

1’)自分たちの映画は優れていない、と「認知」を変える。

の方向にもっていかざるをえないことになります。永束が認知的不協和を解消するために主張した1’)の具体的な内容とは、

永束:1’)実は、映画には問題があった。

・植野、佐原の衣装のデザインセンスが悪かった。
・川井が脚本にフェアリーやファンタジーといった変な要素を入れたのが悪かった。

など、「自分以外」の映画メンバーのスキルが低く、映画のクオリティが下がってしまった。



第58話、10ページ。

興味深いことに、永束は一貫して審査員のことをまったく責めていないことに気がつきます。
審査員を責めずに目の前の映画メンバーを平気で責めてしまうあたり、やはり永束らしいなあと思います。

ついでに、それに対する川井の反論は、

川井:1’)映画の脚本はよくなかったかもしれないが、それは自分のせいではなく、永束の意向を取り入れたのが原因である(だから永束が悪い)。


第58話、10ページ。

という風に整理できるでしょう。

そして、橋崩壊事件のときと違って、今回はちゃんと自分の意見が(一応)言えた硝子の反論はどちらかというと植野に近く、

硝子:1)映画の出来が悪いわけではなく、みんなよかった。


第58話、11ページ。

と、永束らが言い争っている映画メンバーの否定=1’)を改めて否定して、1)を再度肯定する意見を言っています。
まあ、映画再開を必死に主導した硝子からしてみれば、1)を否定することなどありえないでしょうから、これもまた自然な反応だといえます。

ただ、1)を認めるというだけだと、再び認知的不協和が発生してしまいます。
硝子はその先を言っていないので、硝子にとっての認知的不協和解消の方向性がどうなのかははっきりしませんが、まあ自然に考えれば、

硝子:2’)審査員がみんなの努力や配慮をちゃんと認めてくれなかったから、評価が不当に低くなってしまった。

という、まあ「優等生」的な認知修正を行ったのだ、と思います。

そしてこの後、将也がひとり、ここまでとはまったく異なった認知的不協和解決策をとろうとします。
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(4)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、ここまで、植野・佐原、永束、川井、硝子といったメンバーがそれぞれとった「認知的不協和」解消のための言動をみてきましたが、ここまでの各メンバーのやり方は、どれも、3)の「映画が評価されなかった」という「結果」を変えるものではありません

3)の結論はありきで、1)もしくは2)に対する認知を変えることで、矛盾を抱えることの心理的ストレスを解消しようという動きということになります。

ところが、これに対して、一人だけ全然違う「認知的不協和解消」に乗り出そうとする人物が登場します。

そうです、それが将也です。

将也:1)映画はよくできていた。みんな頑張って作ったんだ。

   2’)だから、映画を酷評した先ほどの審査は不当だった。

   3’)この映画は評価されるべきだから、「評価されなかった」という結果を変えるために審査員のところに乗り込む。


という風に、認知的不協和解消のために、「認知の修正」だけではなく、「現実を変える」ための行動までとろうとしたわけです。


第58話、12ページ。

これは、とても積極的であると同時に、非現実的で「子どもっぽい」行動選択でもあるように感じます。

常識的に考えて、一度くだった映画への評価が、制作メンバーの説得ごときで覆るなんてことはあり得ません。
どこまでいっても、映画の評価というのは「映画を見たことによる評価」であって、それはすでに選考会のあの場で完璧に終わっているわけです。

にもかかわらず、審査員にもう一度かけあって何かを主張すれば自分たちが望むような方向に結果が変わるかもしれない、と期待する(あるいは、難しいと分かっていてもあえてそういう行動をとろうとする)のは、小さい子どもが持っている「万能感」に近いものである、と評価せざるを得ません。

ただこれは言い換えると、「あの頃の将也」が戻ってきている、ということでもあるのかな、とも思います。
学級裁判でカースト転落する前の将也はまさに、「どんなに度胸だめしをしても死なない」「自分の仲間たちは自分と同じことを考え、同じことを楽しんでいる」という、無邪気な万能感に支配されていたと思います。


第1巻41ページ、第1話。

一方、その後カースト転落して、どんなに努力しても孤立から抜け出せないという状況が続いていく中で、将也は逆に「何をやっても何も変わらない」という「無力感」を学習し、それに支配されていったと思います。
橋崩壊事件のときの将也の態度は、まさにそれを示すものだったと言っていいと思います。

そんな将也が、「自分が動いて結果を変える」と主張して実際に行動を起こそうとしたことは、硝子と向き合い、クラスメートと向き合い、バッテンを外していった一連の流れの中で、「かつての将也」が少しずつ取り戻されている(あるいは、分裂していた「かつての将也」と「いまの将也」が統合されつつある)状況を象徴的に示しているようにも思います。
タグ:第01話 第58話
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(5)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

さて、認知的不協和解消のために、

3)自分たちの映画は賞賛されなかった

という「結果」そのものを変えようとする行動をとろうとした将也でしたが、それに対して、「あの男」が異論を唱えました。

島田:2)人から作品を評価されるというのはそういうもんだ。自分たちが評価しないクソみたいな審査員に評価されても嬉しくもないだろう。


第58話、12ページ。

そして、3)の結論を変えようとする将也の行動を批判したわけです。

3)審査の結果など変わるわけがない。変えてやるなんていう将也の行動は、昔と変わらず、相変わらずダサい。


第58話、12ページ。

音楽のプロか何かを目指して、オーディションなどを多数受けて、ひどい評価もさんざん受けているであろう島田らしい「大人の」発言です。

そして、将也の行動への批判については、第1話の頃、いつまでも子どもっぽい将也に対し「もうこんなガキっぽいことはやめよう」と言っていたのを彷彿とさせますね。
いつまでも子どもっぽさの抜けない将也と、小学校のころからませて冷めていた島田。
ここは、その対比がうまく描かれている場面だと思います。

さて、ところが、ここで将也の行動を否定することで、みんなの認知はふたたび「認知的不協和」の状態に戻ってしまいます

よく読むと、島田の意見は2)を否定しているように見えて、していません。
そうではなくて、もともとの2)を差し替えているのです。

1)自分たちの映画は優れている
2)審査は適切に行なわれた → New2)審査は適切な場合もそうでない場合もあるが、審査とはそもそもそういうものであって結果がすべて
3)自分たちの映画は賞賛されなかった


そしてそのうえで、島田は1)について、別のボールを繰り出します。

1’)片手間でやったんだから映画の完成度もそこそこで大したことはない。
New2)審査もろくでもないが、審査なんてまあそんなもの(島田のニュアンスとしては、「努力なんて評価とは関係ないし、審査員の言ってることはそんなに間違ってない」と言っているように聞こえます)。
3)だから映画は高く評価されなくても仕方ない。結果を受け入れろ。

タグ:第58話 第01話
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(6)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

島田の、「片手間だからこんなモンだろ」という、映画の完成度を割り引く発言(認知的不協和解消方法としては、先のエントリの1’)に該当します)に対して、まっさきに賛同したのは植野でした。

植野:1’)そうよ こんなのただの片手間


第58話、14ページ。

それに対して将也が再度反論します。

将也:1)お前なあ みんな全力で頑張ったのに

この将也の発言は、島田の出した1’)を1)に戻そうとするものであることに注目です。
でもここで植野は佐原に賛同を求め、佐原はユニークなボールを返します。

佐原:1’)たしかに私達は全力を出さなかった
   2’)にもかかわらず全力を出してこの程度だと評価されてしまったかもしれない
   3)だから評価されなかったのは仕方がない



第58話、15ページ。

佐原の返したボールは、島田・植野の考えを踏襲したものですが、同時に、将也を映画の「当事者」から「非当事者」に位置変更する発言になっているのです。

というのも、将也は映画メンバーが「全力を出した」と言いましたが、実際には将也は映画制作に実質参加しておらず、そういう意味では、今回の選考会の評論家と同じ「外部から完成後の映画を評価する非当事者」です

これがメンバーの「全力を出した結果」であると評価したのは、将也も審査員も同じでも、将也はその「全力」のなかにメンバーの思いや配慮などを感じたから高く評価して、審査員にはそういうものは伝わらなかったから評価されなかった、ということです。

だから、佐原のこの「これが全力だと思われたくないよね」というのは非常にたくさんの意味が込められていて、

・審査員から下ったこんな酷評が、私たちの全力だと思われたくないよね。だからこれからもっと努力をして上を目指していけばいい。

・石田君はこれが私たちの全力だと思って評価してくれたけど、こんなもんじゃないよ、もっと上を目指せるから期待していてね。

・全力じゃなかったから、(島田が言うとおり)わかってない審査員には評価されなかったけど、「ちゃんと分かってくれている」石田君には評価されたからそれでいい。

・だから、酷評された結果そのものは仕方がないということで受け入れよう。


このせりふは、とても「佐原らしい」と思います。
それは、

・「これが全力だと思われたくない」というのがいかにも佐原らしい上昇志向を表している

のと同時に、

・「石田君は今回の映画では当事者じゃないよ」「だから私たちの映画制作が全力だったかどうかなんて本当は分からないよ」という、身も蓋もない冷徹な判断をあっさりと下している

ところです。

佐原回で、硝子の自殺を止められなかったことを「どうにもならなかった」とやはり「冷静」に振り返っている佐原らしい、見た目とは裏腹な人間関係への意外なドライさが浮き彫りになったせりふだと思います。
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Androidアプリ「コミコミ」で、聲の形のデータが配信開始!

こんなアプリがあるとは知りませんでしたが、まんがのコマを書き換えて遊ぶという「コミコミ」というアプリで、聲の形のデータが本日から配信開始しました。

http://www.animate.tv/news/details.php?id=1418018046

Androidで先行配信ということで、私はAndroidの人なので早速入れてみました。

https://play.google.com/store/apps/details?id=me.comi2.android.google
Google Playの該当ページはこちら。


インストールは無料です。ストアにアクセスすると確かに聲の形のデータが。


データ購入に200ポイント(216円)かかります。アプリ内課金でポイントを購入。


購入できました。さっそく使ってみます。


好きなコマを選んでふきだしを編集します。数えてみたら24コマありました。


できあがり!(笑)
できあがった画像はファイルとしても保存できますし、TwitterやLINEなどでつぶやくのにも使えます。

まあ、たわいない遊びですけど、216円で遊べるなら、ファンなら利用する価値は十分あるように思いました。
あいさつ用の画像をいくつか作ってTwitterやLINEで使おうかと思います(^^)。


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2014年12月10日

第58話を社会心理学の視点から読み解く(7)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

前エントリでみたとおり、佐原の「これが全力だと思われたくないね」というせりふは、ある意味、将也を、選考会の審査員と同じ「非当事者」の地位におく発言ではあるのですが、だからといって将也を審査員と「同じ」と評しているわけではありません。むしろ逆です。

つまり、

・糞みたいな評価をしたクソみたいな審査員

と、

・みんなの納得できる評価をした将也

が対置されることによって、島田の捨てぜりふもしっかり受け止めて消化し、将也の映画への評価を損なわない形での認知的不協和の解消を志向しているのです。


第58話、15ページ。

島田の言うとおり、「糞みたいな奴」には評価されなかったけれども、別にそれは糞みたいな奴の評価だから気にもならない。
一方で、「糞」ではない、仲間である将也は、映画にかけられた思い、願い、配慮、努力を理解して、ちゃんと評価してくれた。
もともと、この映画はある意味「将也のために」作られた映画でもあったわけですね。
ですから、そんな将也にはこの映画はしっかり評価されたわけですから、その評価はとても嬉しいものだし、そういう意味で映画は「正当に評価された」ことになったわけです。

さて、この佐原の投げかけたボールに、将也以外のすべてのメンバーが賛同します。

川井、真柴、永束:1’)うん、確かに全力を出していなかった。だから映画の完成度はそこそこだけど、自分たちが全力をだしたらほんとはこんなもんじゃない!


第58話、15ページ。

これで、最終的に認知的不協和が以下のように解消され、「平和」が戻りました。

1)映画には全力を注げなかったので、完成度はそこそこだった。
2)審査員はろくでもない人間だったが、そこで下った評価は受け止めなければならない。
3)だから、映画は評価されなかった(でもそれはやむを得ないし納得する)。


この結論に、佐原のせりふ以降「部外者」という立場になった将也は納得せざるを得ず、みんなにジュースをおごってその場は収まりました。
ちなみに、ここでジュースをおごったのが将也だということも、将也はこの映画に対して、「外部」から「良かった」と評価をする「非当事者」である、ということを象徴的に表していることを見逃してはなりません。
最終的に、この映画は、いちばん見てほしかった将也に見てもらえて(将也が昏睡から無事に目覚めて、ちゃんと文化祭にきて映画を見ることができたことは、それだけで映画メンバーにとっては大きな喜びだったはずです)、そしてその将也に高く評価してもらえました。
その「評価」の象徴が、ここでみんなにおごられたジュースだったんだろうと思います。
つまり、文化祭で映画を上映した時の将也のスタンディングオベーションこそが、この映画の「表彰」であり、ここでおごられたジュースが、映画制作メンバーへの将也からの「賞品」だったのだ、ということですね。

さて、ここまでは選考会後のメンバーのやりとりを「認知的不協和理論」に基づいて読み解いてきましたが、このあとさらに続けて、同じく社会心理学の概念である「原因帰属理論」によるさらなる読み解きを行いたいと思います。
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(8)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

ここまで、第58話における選考会後のメンバーのやりとりを「認知的不協和理論」に基づいて読み解いてきました。

ところで、この映画を酷評されたことに対して、当初永束が「みんなのスキル不足で」映画の完成度が低かった、と主張した時はみんな感情的になって反論したのに、佐原が「みんなが全力を出してなかったから」映画の完成度が低かった、と整理したときには、みんな納得して話が丸く収まりました

どちらも似たような、「出された力が不十分だったから」映画の完成度が低かった、という考え方なのに、前者ではみんなが怒って後者ではみんなが納得したのはなぜでしょうか?

このあたりについては、「認知的不協和理論」とは別の、「原因帰属理論」という社会心理学の概念をもってくることで、うまく説明できるように思います。

「原因帰属」というのは、なんらかの「結果」としての事象が生じたとき、その事象を引き起こした「原因」はなんであるか、ということを考えるときのフレームワークです

何かが起こったとき、その「原因」は最初から1つに定まっているようにも思えますが、実際にはそんなことはなく、さまざまな要素が複雑にからみあっています。また、神様ではない私たちには、「正しい原因」が必ずしも見えないこともあります。
そんななかでも、私たちはある事象を引き起こした「原因」が何であるかをいろいろ考えて、結論を出して納得して、それによって「経験から学んで」前に進んでいく、そんなことを繰り返して毎日を過ごしているわけです。

ここで興味深いことに、その「原因帰属」について、人によってどのようなものを「主な原因」と考えるかという傾向は人によって違っています。
その違いは、その人のものの見方、考え方についての「個性」そのものであり、場合によってはその後の人生にも影響を与えます。

原因帰属理論では、さまざまな事象に対する、想定しうるさまざまな「原因」を、大きく4つのカテゴリに分けて考えます。

そのカテゴリは、「外的―内的」という軸と、「固定(安定)―変動(不安定)」という軸、2軸を組み合わせたマトリックス構造をしており、次のように分類されます。

1)外的ー固定:課題の難しさ
2)外的ー変動:運
3)内的ー固定:能力
4)内的ー変動:努力


それではまた今回も、「認知的不協和理論」のときと同様、いったんまんがを離れて、この「原因帰属理論」を理解するための簡単な例をあげてみたいと思います。

ある子どもがテストを受けたものの、テストの点数が悪かった、とします。
このとき、子どもは(あるいは指導者は)その「テストの点数が悪かった」という「結果」に対して、なにか理由をつけて「言い訳」をすることになるでしょう。

その言い訳こそがまさに「原因帰属」ということになるわけです。

その「言い訳=原因帰属」は、先の原因帰属理論における4つをふまえ、つぎのようにカテゴリ分けをして考えることができます。

1)”課題の難しさ”に帰属
「あの先生のテストはいつも難しすぎるんだ。あんなテスト、授業が全部分かっててもいい点取れないよ!」

2)”運”に帰属
「今回はたまたま風邪で体調が悪かったからしょうがないよ」

3)”能力”に帰属
「ボクはこの教科はよくわからなくて、クラスの中でもできないほうなんだ…」

4)”努力”に帰属
「今回はテスト勉強が足りなかった。今度は頑張っていい点を取るよ」

ちなみに、一般論として、子どもの教育上、望ましいとされている原因帰属の方向性とは、上記のうちどれでしょうか?

…そうですね。「努力」です

できるだけ成功体験を繰り返せるようにし、かつその成功を「努力」に帰属させるように誘導することで、子どもの学習意欲を高めることができると考えられています。

なぜでしょうか?

上記の4つの類型の「原因」のなかで、自分の力で変えることができる割合がもっとも大きいのは、「努力」だから、です。
成功した時も、失敗した時も、「努力のおかげだ」「努力不足のせいだ」と考えることができる子どもが、努力することを大切にして伸びていく、一般論としてはそういうことが言われています。

さて、それではこの後はまんがの話に戻り、「映画が酷評された」という「結果事象」に対し、それぞれのメンバーがどのような「原因帰属」を行っているかを見ていきたいと思います。
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(9)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

第58話では「映画が酷評される」という「結果」事象が発生しています。
そしてこの結果に対して、各メンバーによって、さまざまな「言い訳=原因帰属」が行われていきます。
それらについて、先の「原因帰属理論」に当てはめながら、改めて眺めていきましょう。

最初の、植野・佐原の「なにもわかってないくせに…」という批判は、審査員が適切に評価してくれなかった(審査員がダメダメだった)、ということを言っているわけですから、これは、カテゴリとしては

2)運(=外的、かつ変動する)

に帰属していることになります。


第58話、9ページ。

その後、植野から文句を言われた永束が反論して、川井とやりあっているところでは、映画メンバーそれぞれのスキル不足を言い合っているので、ここでの帰属カテゴリは、

3)能力(=内的、かつ固定)

ということになるでしょう。


第58話、10ページ。

「(変な審査員で)運が悪かった」から、「メンバーの能力不足の問題だった」に帰属が移行したわけですから、場が荒れるに決まっています。そして、「誰の能力が足りなかったのか」の「犯人探し」になっていったわけですね。

ここで将也が改めて「みんな最高、映画はよくできてた、審査員がわかってねーんだ」と反論したところで、帰属は改めて

2)運(=外的、かつ変動する)

に戻ります。

ここで、「運」というのはわかりやすさのラベルであり、実際には「変動する外的要因への帰属」ということになります。
ですから、将也は「変動する外的要因」である「審査員の評価」のサイコロをもう一度振るために「審査員にかけあって再評価させる」という手段に打って出ようとしたわけです。(これはテストの例でいえば「もう一度テストを受ければこんどはいい結果が出るかもしれない」というのと同じような話です)


第58話、12ページ。

そして、ここで島田が登場します。
島田は、「糞みてーな奴に認められて嬉しいのかよ」と、将也の原因帰属(と問題の解決法)をやんわりと否定しつつ、新たに「片手間だしこんなモンだろ」と、新たな帰属を提示します


第58話、13ページ。

「片手間だからこんなモン」というのは、

4)努力(=内的、かつ変動する)

への帰属だ、ということに気づくでしょうか?

ここへきての島田のひとことで、ある意味(失敗したことを納得し、次につなげるためには)もっとも望ましい、「努力」への原因帰属が初めて示されたことになります。
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第58話を社会心理学の視点から読み解く(10)

※このエントリは、第58話連載時に書いたものです。そのため、その後の連載の内容と齟齬があったり考察に変化がある場合があることをご了承ください。

島田が登場し「片手間だからこんなモンだろ」吐き捨てたことで、映画が酷評されたという「結果」事象に対して、

4)努力(=内的、かつ変動する)

への原因帰属が提示されました。

この新しい帰属に飛びついたのが、植野と佐原でした。


第58話、14ページ。


第58話、15ページ。

この二人については、かなりはっきりと衣装を否定されたという「出発点」があるうえ、そもそも衣装というのは「他人から評価される」ことが大前提のものです。
ですから、「見る人が悪かった」という「運」に帰属させるのは、実はあまり納まりが良くありません。
さらに、当然ですが、「能力」に帰属させてしまうと、二人が目指している進路に必要なスキルを自ら否定することになってしまいます

それに対して、「今回は全力を出さない片手間だったから、あまり評価されなかった」という「努力」に原因帰属させることができれば、ある意味もっとも自己肯定感を損ねることなく、結果を冷静に受け入れることができることになるわけです。

この「努力」への帰属は、前半で永束と川井がけんかしていたときに出てきた「能力」への帰属と、ちょっと似ているようで実はまったく違います。
「能力」に帰属してしまうと、「自分には能力がない」から「結果が出せなかった」のだ、ということを認めなければならなくなりますが、「努力」に帰属すれば、「自分には能力がある」けれども、「今回は全力を出さなかった」から「結果が出なかった」のだ、と考えることができます
つまり、「自分には能力がない」という認識を受け入れるのは困難な場合が多いですが、「自分には能力はあるが今回は努力が足りなかった」という認識は、それよりもはるかに受け入れが容易なわけです。

そう考えると、この島田の「努力帰属」のせりふに即座に反応した植野に、もともと上昇志向(努力志向)の強い佐原が乗っかるのは当然の流れでしたし、川井と永束、そして真柴についても、その「原因帰属」がもっとも受け入れやすいものであったことは明らかです。


第58話、15ページ。

結果、すべての映画メンバーは「今回は全力を出さなかったから評価が低かった」、という「努力への原因帰属」を受け入れて、納得しました。
これによって、今回「映画が酷評された」という辛い結果は「過去のもの」となり、あわせて、「こんどはもっと努力していい結果を出そう」という前向きな認識も残すことができたことになります。

これは、今回のような問題の着地点としては、とてもいいものだったと思います。

ただ、真柴については、本当にこれで良かったのでしょうか?
そう簡単には「努力」に帰属できない状況にあるはずの真柴が、あっさり「うん」と言って場を収めているのは、ある意味ちょっと切なく映りますね。
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posted by sora at 07:17| Comment(3) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

「このマンガがすごい!2015」発売!

12月10日発売の、宝島社「このマンガがすごい!2015」、ようやく入手することができました。





表紙を見てすぐ分かるとおり、事前の情報どおり、今年のオトコ編第1位は、「聲の形」が見事獲得しました!

そして、その後8ページにわたる大今先生へのロングインタビューが掲載されています。



上記の写真の左端に少しだけ入れてありますが、インタビューのページに、大今先生の描きおろしのカラーイラストが掲載されています。
将也、石田母、そしてマリアがカラーで登場しています。
特に石田母とマリアがカラーになったのは恐らく初めてで、「プリン」とも言われる(笑)石田母の髪の色がようやく判明しています。マリアの帽子は緑色だったんですね。

そして、今回のインタビューですが、相当に読み込んで、伏線などを徹底的に読み解いてきた人がインタビュアーをやっていることがはっきりわかる内容になっています。



内容としては、リフレイン構造の話や、回収されなかった伏線の話題が中心なのですが、その「回収されなかった伏線」として指摘しているポイントが極めて的確です。

・竹内が手話を覚えていたこと
・石田母のピアス引きちぎり事件
・途中から硝子の右耳の補聴器が消えること

実際、これらは私も「回収がまったくされなかった伏線」として指摘していたものです。(一方で、「島田との対決がなぜなかったのか」とか「自殺の理由がはっきりしない」といった、深く読めば描かれていると言えるポイントを「未回収」として指摘するようなことはまったくありませんでした)

また今回、大今先生が、硝子の障害の程度について、非常に重要な「ネタバレ」を1つされています。

「硝子は高度難聴。聾ではないが、右耳がほとんど聞こえない」(大今)。(本書9ページより)

そして続く文章で、「作中、途中から硝子は右だけ補聴器をかけなくなる。」と記述されており、上記の大今先生の答えとあわせて、「硝子が右耳に補聴器をかけなくなったのは、かけても聞こえないから無意味だからつけなくなったのだ」と推測できるようになりました。
これはとても重要な情報だと思います。

さて、そんなわけで、聲の形のファンブック的要素も十分兼ね備えた今年の「このマン」、ちょうど1週間後に控えたコミックス最終第7巻とあわせて、ぜひ一緒に揃えたくなる、すばらしい内容でした!
posted by sora at 07:18| Comment(17) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする