2014年11月30日

将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説(4)

さて、将也が「他人の罪まで背負ってそれを償い、救済を与える救世主」である、と読み解くとき、その「救い」が与えられたもっとも典型的な登場人物といえば、

西宮母

でしょう


西宮母については、硝子が障害をもって生まれてしまった事情や、そこから発生した夫との確執、離婚については同情を禁じえませんが、それ以降に彼女がとった「行動の選択」からは、先に述べたような意味に近い、問題を直視できない「弱さ」を感じざるを得ませんし、さらにそのような弱さの結果として新たな「罪」を重ね、罰を受け続ける負のスパイラルに入ってしまっていることも明らかです。

西宮母が硝子を育てるにあたってとった子育ての方針とは、硝子がもって生まれた障害を「否定・否認」し、「障害を乗り越えて普通になることができれば認めてあげる」という「条件付き承認」を硝子に提示することでした。
そしてそういった子育てに否定的な西宮祖母や結絃といった家族の意見をすべて無視し、硝子のことを自分がすべて決める、という方針のもと、障害の重さからすれば相当に困難が予想される「普通級への就学」にもこだわり続けました。


第1巻65ページ、番外編。

一般的にいえば、西宮母は「障害に無理解な親」の典型例の1つといえます。

その結果、硝子は学校でいじめを受け続け、常に自己を否定し自殺念慮をもつような極めて自己肯定感の低い子どもに育ってしまいましたし、結絃は母親とのコミュニケーションを拒絶して不登校となりました。
西宮母自身も、家庭にも学校にもプライベートにも、どこにも味方がいないような環境に自らを追い込んでしまっていました。
もしもあのまま西宮家が将也と関わっていなければ、結絃は不登校のまま中卒後は行き場を失い、西宮祖母の死去を受け止める余裕もなく、硝子もまた、結絃や家族の人生を不幸にしてしまったことへの責任感から結局自殺していたのではないかと思わずにはいられません。

高校編スタート時までに起こっていた西宮家のさまざまな不幸は、遡れば夫からの理不尽な離婚とその際の暴言が出発点にはなっているかもしれませんが、直接的な「元凶」はやはり、西宮母自身のその後の行動選択にあった、と言わざるを得ません
それは、繰り返しになりますが、西宮母が、自らの「弱さ」ゆえに重ねてしまったさまざまな「罪」(誤った行動選択)と、その結果としての「罰」(不幸な出来事の発生)の無限連鎖なのだと言えるでしょう。

このような流れを見ると、本来であれば西宮母が「弱さ」ゆえに犯してしまったさまざまな罪によって、西宮家は最終的に「一家崩壊」という最悪の罰を受けてもおかしくない状況にあったわけです。
そして実際、すべてのできごとはその方向に向かっていたように見えます。
しかも、西宮家の誰一人として、その流れを止めることができない状況にありました

タグ:番外編
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将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説(3)

聲の形の世界において「将也ばかりが罰を受けている」という認識を、宗教的な1つの世界観によって視点を変えて、「将也がみんなの罰を代わりに受けている」ととらえると、その世界が変わって見えてきます

なお、このエントリは、このあたりから非常に宗教的、観念的な議論に入っていきます。
別エントリの「インガオーホー」論は、あえていうならば「聲の形」の世界観の仏教的側面にスポットライトを当てて読み解いたものでしたが、こちらのエントリでの議論は、「聲の形」の世界観のキリスト教的側面に注目したものになる、と言ってもいいかもしれません。

私自身は、リアル社会の価値観としては、必ずしもこういった宗教的価値観に共感するものではありませんが、作品の「読み解き」としては、ここは外すことができないと考えています。
なぜなら「聲の形」には、さまざまな宗教的世界観・価値観が間違いなく流れていて、それは実は作品全体を貫く「裏テーマ」ですらあるのではないかと感じるからです。
ですので以下のエントリでも、作品全体を流れるこういった宗教的世界観について、しっかり掘り下げて考えていきたいと思います。

さて、通常の倫理観からすると、ある人の罪は、当然にその人当人に責任があり、それによって受ける罰はその当人が引き受け、そして自ら罪を償わなければならない、ということになります。

でも、この世の中では、誰もがそれができるほど強いわけではなく、自らの「罪」にちゃんと向き合って、そしてしっかり罰を受けながら罪を償っていける人ばかりではないでしょう。
そんな「弱い人」があふれる世界は、誰もが自らの罪を直視できず逃げ惑い、そしてなすすべもなく罰を受け続ける、救いのない世界だと言えるのではないでしょうか。

そんな「救い」のない世界に、「救い」をあまねく届けるための「答え」の1つ。
それは、自ら罪に向き合うことができず、その罪を償う強さを持たない者たちの罪を一身に背負い、受け止め、そしてそれらの者たちに代わって罰を受け、それらの者たちに代わって彼らの罪を償い、それによって「弱き者たち」に救いを届ける、そんな存在が現れることです。

そういう人物のことを、人は「救世主」と呼ぶでしょう。

つまり、前エントリでいうところの「後者の解釈」で聲の形の世界を読み解くとするなら、将也はこの世界の中で、自分自身のみならず、周囲にいるさまざまな人たちの罪を背負い、罰を受け、そしてその罪を当人に代わって償い、救いをもたらす、宗教的救世主として描かれている、ということになるのではないか?と考えられるわけです。
posted by sora at 08:43| Comment(5) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説(2)

このように、聲の形という作品では、将也とそれ以外の人間を並べて比較した場合、「罪」と「罰」のバランスがまったく取れていません
それは間違いのない事実で、将也だけが罪に対して過重なまでの罰を負い、逆に将也以外は罪がいくら重くてもあまりそれに見合った罰が与えられていないのです。

リアルであれ虚構であれ、ある世界のなかで、善と悪が公正に裁かれることを期待する立場からは、「聲の形」というのは、実に不正義、不公正な物語の展開をしているように映るのだろうと思います。

でも、それは「物語の構成が下手でバランス感覚が悪いから」そうなっているのでしょうか?

私は、そうではなくこれは「意図的なものだ」と考えています。

将也は、この作品の中で、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。
将也は、この作品の中で、ある意味「ただ一人」、ひたすら罰を受け、贖罪を重ねていきます。


一方、

各登場人物には、この作品の中で、最終的に救いがもたらされます。
各登場人物には、この作品の中で、最終的に「ほとんど全員に」、救いがもたらされます(あるいは、最初から「罪」などなかったかのように生きることが「赦されて」います)。


ここに、対応関係があることがわかるでしょうか?

罪を負い、それを償うのは、将也ひとり。
罪を負ったけれども、その罪が赦され、救済が与えられるのは、登場人物みんな。


この対応関係を解釈する方法は、2つあります。
1つは、

この「こえかたワールド」は非常に不公正、不正義な世界であって、将也はささいなことで罰を受けまくってひどい目にばかり会うのに対して、将也以外はひどいことをやっても最初から許されて、罰を受けることもなくのうのうと生きていけるようにできている。

という考え方。
これに対して、もう1つの解釈とは、

この「こえかたワールド」では、本来は、すべての人の罪に対して同じように罰が与えられ、その罪を償うことが求められる公正性のバランスのとれた世界である。
でもそこに「将也」が現れ、他の人の罪までひとりで引き受けて、まとめて罰を受け罪を償って、他の人の罪まで救済してしまった。
将也以外の人は、そんな「将也」の救済に気づかず、自分は罪もなくのうのうと生きていられるのだと錯覚している。


となります。
posted by sora at 08:37| Comment(4) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

将也だけが罰を受けすぎ? あるいは将也=キリスト仮説(1)

さて、聲の形にはいろいろな批判があって、そのなかには「確かにそうだな」というものもあれば、「それはこの作品の特質と考えるべきでは」と思うものもあります。
ここでとりあげようと思っているのは、私が「後者」だと感じる、典型的な意見のなかの1つです。

いわく、「この作品に出てくるのはクズばかりでみんなひどいことをやっているのに、手ひどい罰を受け、償いをさせられているのは将也ばかりで、不公平だし不正義だ」といった批判です。
これと連なる批判として「将也は植野とか島田に報復し、植野や島田らは自分の過ちを後悔し反省・謝罪すべきだ(そういう展開にならなかったのはおかしい)」といったものもあると思います。

確かに、作品を振り返ってみたとき、たとえば「いじめ」という行為ひとつをとってみても、作品内で「いじめ」を行なっていたといえる登場人物はけっこうたくさんいます。

・将也(硝子に対して)
・島田(将也に対して)
・広瀬(将也に対して)
・植野(佐原、硝子に対して)
・真柴のクラスメート(真柴に対して)


でも、このなかで、その「いじめ」という行為に対してはっきりとした罰が下っているのは将也だけです。
将也だけがひたすら贖罪を続け、それでもあまり報われずに生命の危機にすらさらされることになります。
しかも、それだけの罰を受け、贖罪を続けながら、将也だけが硝子に「謝罪」しています。

一方で、執拗さと期間の長さからすれば将也の硝子いじめを上回ると考えてもおかしくない、島田による将也いじめや、佐原を不登校に、そして硝子を転校に追い込んだ植野は、少なくとも「いじめ」を直接の理由とする罰は受けていないと言ってもいいでしょう。
特に島田・広瀬については、島田は「のうのうと」音楽に生活をささげてフランス留学まで決めていますし、広瀬も「のうのうと」彼女を作って結婚、子どもを作って幸せそうに生きています。そういえば、真柴をいじめていたクラスメートの男女も同じような感じでした。

また、小学校の学級裁判で将也をスケープゴートにして自らの地位保全をはかった竹内や、硝子の障害をあしざまに罵って西宮母を絶望させ、さっさと離婚して逃げてしまった西宮父とその家族なども、やったことは相当ひどいにも関わらず罰らしい罰は下っておらず、やはり「のうのうと」生きているのだろうと思われます。

これらの「将也以外の加害側」と呼べる人たちのうち、後悔や謝罪が描かれているのは植野だけで(それにしても謝罪は部分的で、将也昏睡中のモロモロとかは隠してしまっていますし)、島田を初めとするその他の人たちはみな後悔も反省もなく生きています
むしろ、そういった人たちを将也のほうが「許して」いるようにさえ見えるわけです。

このことを、どう受け止めるべきか、という問題があります。
posted by sora at 08:35| Comment(4) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする