2014年11月26日

聲の形における「因果応報」を考える(4)

第2巻での硝子との再会、そしてそこで交わされた「友達になろう」という会話は、硝子へのいじめによって「因果応報のループ」のなかに転落してしまった将也にとって、初めて見つけたそこから脱出するための糸口であったといえます。

ただ、その後の将也は、未来志向ではなく「過去志向」で、「硝子のために、失われた過去を取り戻す」という行動原理で行動してしまいます
第2巻で、将也は結絃に向かって「硝子のために命を消耗する」という決意を表明しますが、それは将也にとって、自身がからめとられている因果応報のループの「起点」である、「硝子をいじめたという罪」への贖罪によって、このループから脱出しよう、脱出できるんじゃないか、というあがきでもあったと思うのです。


第2巻152ページ、第13話。

でも、「過去」を向いた贖罪は、実はこの物語の中では、因果応報の無限ループを脱出するための「正解」ではありません
そのことは、物語の後半で徐々に明かされていくのですが、第2巻のタイミングでも、西宮母のせりふが「ヒント」を与えてくれています。

第2巻で、行方不明になった硝子の発見に協力した将也に対して、西宮母は、

「あなたがどんなにあがこうと 幸せだったはずの 硝子の小学校時代は戻ってこないから」

と告げています。


第2巻165ページ、第13話。

このあとの展開で示されていく、将也が因果応報のループを抜けるための方法は、最終的には「単なる謝罪」でもなく、「過去を修復すること」でもなく、「未来に向かって何かを作り出していくこと」だった、ということを、作者はこの時点ですでに西宮母のせりふという形で読者に予言的に伝えているのだと思います。

ここまでが2巻の展開です。
こうやって整理してみると、実は「因果応報」とはどんなものであるのか、どうすれば乗り越えられるのかということについて、将也のケースを使って第1巻から第2巻までの時点で、すでに相当踏み込んだ描写がなされていることに気づきます。

でも、この第2巻で密かに示されている、「過去の修復の先に(因果応報を乗り越えられる)救いはない」という「答え」は、登場人物のすべてに気づかれず、無視されます
そして、将也のみならず、硝子も、植野も、まさに登場人物すべてが「過去の修復」によって因果応報のループから脱出しようとして必死にあがき、そして究極的には(因果応報の罰による)「すべての崩壊」に向けてなだれを打っていく悲劇が描かれたのが、第3巻から第5巻だった、ということになるのではないかと思います。
タグ:第13話
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聲の形における「因果応報」を考える(3)

さて、この聲の形という物語に埋め込まれた3つの「因果応報」、つまり「過去の罪と、それによってくだされた罰の構造」とは、次のようなものです。

1)将也は、小学校時代に硝子をいじめたということが原因で、カースト転落して島田らにいじめられるようになり、孤立して人間不信になり、他人としっかり向き合うことができなくなってしまった。

2)硝子は、障害ゆえに周囲に迷惑をかけ、自分の近くにいる人・自分が関わった人をみんな不幸にしてしまうという「罪と罰の意識(呪いの意識)」にさいなまれ、その結果として自己肯定感が低く、他人と関わることに恐怖心があり、ひたすら自己を抑圧して生きていくようになってしまった。

3)植野は、ずっと好きだったはずの将也を「売り」、また腹いせに硝子をいじめたことが原因で、その後将也との親密な関係を手に入れることができず、ずっと後悔を続け、「あの頃こうすればよかった」「過去の素晴らしい関係を取り戻したい」といった形で、過去にしばられるようになってしまった。


そして、これら因果応報の構造は、聲の形の物語の中で「主題」の1つとして扱われ、まるで音楽のフーガかソナタのように、何度も何度もその姿を変えては現れていきます。

まず、物語の冒頭で、「硝子をいじめていた将也が、いじめられる側に転落する」という非常に分かりやすい形で「インガオーホーの基本構造」が提示され、奏でられます。
これはいってみれば、音楽における「主題の提示」です。


第1巻144ページ、第3話。

親切なことに(笑)、ちゃんとこのときに川井が登場して「ねぇ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」と読者にもよく分かるように教えてくれているわけです。

そして、第1巻の終盤、第5話では、この因果応報のループから抜け出そうとする将也が、島田らとの和解を試みますが(限定盤CD事件)、そんなことで問題は解決せず、逆に徹底的に拒絶されます。


第1巻180ページ、第5話。

このときの「拒絶」もまた、因果応報の理(ことわり)によって繰り返される将也への「罰」の1つであることは、言うまでもありません。

そして将也は、限定盤CDと一緒に買った手話の本を最後の心のよすがとして「手話を覚えて硝子に謝罪のことばを伝えて死のう」とします。
ところが、第2巻で出会った硝子に将也は思わず「友達になれるか?」と聞き、それが受け入れられてしまいます。


第2巻22ページ、第6話。

この「事件」によって、それまでまったく解決の糸口が見つからなかった、将也にとっての「因果応報のループからの脱出」に、一筋の光が見えることになります。
それは、硝子と友達になるという行為が、「過去をとりもどす」という方向性での贖罪ではなく、「未来にむけて新しい価値を作り出す」という方向での贖罪だったことと関係しているのですが、残念ながら将也はこの時点で、その2つの「違い」に気づくことができません

それが結果的に将也を誤った方向、つまり「過去を取り戻そうという方向の贖罪行動」に導いていきます。
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聲の形における「因果応報」を考える(2)

さて、聲の形において、この「因果応報」というキーワードが最初に出てきたのは、第1巻の学級裁判後、カースト転落して島田らにいじめられるようになった将也が、暴行されて校庭に倒れているときでした。
ここで、通りかかった川井が「ねぇ インガオーホーって知ってる? きっと それよ」と言い放ちますが、これがこの物語で最初に登場する「因果応報」です。


第1巻144ページ、第3話。

次に出てきたのが、第4巻での西宮母の回想(もしくは西宮祖母の手紙)場面で、西宮父の母が硝子と西宮母に対して言い放った「因果応報… 硝子が前世で何か悪いことをしたせいなんだよ あるいは あんたが…」というせりふです。


第4巻169ページ、第32話。

そして3つめが、橋崩壊事件直前、夏休みの登校日にクラスで川井から過去のいじめを暴露されてしまい、橋に行くのをやめようとした将也に、植野が語った「インガオーホーなんてくそくらえ!」というせりふです。


第5巻118ページ、第38話。

改めて物語全体を眺めてみると、ここで語られた3つの「因果応報」というのがそのまま、この聲の形という物語に埋め込まれた主要な3つの「罪と罰」の因果応報の構造を示していることに気づきます。

1つめの、将也に対する「インガオーホー」とは、将也が硝子をいじめたことに対する罪と、それにより与えられた「孤立」という罰について。

2つめの、硝子に対する「因果応報」とは、硝子が(それこそ前世の因縁のようなものとして)障害をもって生まれ、それによって周囲を不幸にしてしまうという「呪い」をかけられてしまった、といった「罪と罰的な構造」について。

3つめの、植野に対する「インガオーホー」とは、植野が将也を「売り」、将也へのいじめを黙認どころか加担までしてしまったことに対する罪と、それによって植野自身が過去にとらわれてしまって未来に目を向けられなくなるという罰について。

2つめが分かりにくいですが、あえて乱暴な言い方で表現するなら、硝子の「罪」とは、「前世におけるなんらかの悪行」であり、それに対する「罰」というのが、「障害を負い、それによって親しい人間を皆不幸にしてしまう」ということ(呪い)です
これは、硝子の父方の祖母が言った誹謗そのものであり、私自身は当然こんな考え方をまったく支持しない者ですが(実際、硝子の障害の原因は、親の不適切な感染症管理です)、それでも「この物語の中では」、硝子についての、この「父方祖母が主張する因果応報論」は「生きている」と判断せざるを得ません。

次のエントリで、以上3点をもう少し具体的に整理してみようと思います。
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聲の形における「因果応報」を考える(1)

聲の形が完結して、作品全体についてのエントリを少し書きたいと思っています。
(いちおう、全部で28エントリ分原稿ができているので、1日4エントリずつ、1週間にわたって連続でアップしていく予定です。)

いろいろ書きたいことはありますが、そんななかでも、特にずっと気になっていたのが、この「因果応報」というテーマです。

この物語における1つのキーワードとして「因果応報」というものがありました。
「因果応報」ということばにはいろいろな意味がありますが、辞書を引くと、基本的にはあまりよくない意味で使われることばのようです。
そして「聲の形」のなかでは、「過去に犯した罪によって、その罪が償われない限り、ずっと罰を受け続けること」といったような意味として、このキーワードが使われていたように思われます。

ただ、当初、第4巻あたりまでは、物語の中でなんどか出てくるこの「因果応報」ということばが重要なものであるのかそうでないのかが、いまひとつはっきりしませんでした。
川井に「インガオーホー」と言われた将也は、過去の罪を負いつつも、硝子と良い関係を築きつつあるように見えていましたし、もう1人、第4巻の西宮母回想回で「因果応報」と言われた硝子は、将也との再会により、かつて失った絆を少しずつ取り戻していき、幸せな結末が待っているようにも見えました。

でも、その幸せな流れは第5巻の橋崩壊事件で一気に崩壊し、将也も硝子も(そして見えにくいですが、実は植野も)、「因果応報の無限ループ」のなかにとらわれたままだったことが、残酷なまでに示されたのです。
そして、第6巻から第7巻にかけては、その因果応報の無限ループからの脱出が描かれていきました。

物語が完結してから振り返ってみると、実は「聲の形」とは、徹頭徹尾、「過去の罪をしっかりと償い、因果応報を克服することによってその無限ループから脱出し、それによってようやく幸せな未来をつかんでいく」という物語だったことが分かります。
「因果応報」は、聲の形において、実はもっとも中核におかれていた最重要テーマだったのですね。

以前このブログでもエントリを書いたことがありますし、いまでも聲の形に関する話題として語られることがあるようですが、「聲の形の物語の中で、因果応報というのは肯定されているのか否定されているのか?」という疑問があります。
これについては、私は明確に「聲の形の中で、因果応報は『絶対的真理』として取り扱われている」と考えます
これはあとで言及しますが、植野は物語のなかで「インガオーホーなんてくそくらえ」と言ってそれを否定しようとしますが、その直後にその「インガオーホー」に完膚なきまでに叩き潰されています。(そして実際のところ、植野が物語全体を通じて闘っていたのも、将也や硝子と同じく、この因果応報だった、と考えることもできるのです。)


第5巻118ページ、第38話。

そういう目で、この作品全体を改めて眺めてみると、また違った世界が見えてくる気がします。
posted by sora at 07:04| Comment(2) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする