2014年09月17日

第53話、感動の再会なのに今回も夫婦漫才(笑)

さて、第53話は、「普通に病院で再会するのでは」という予想を裏切り、「マジであの場面から将也が橋にやってきて二人が再会」という、ある意味コテコテの、でも感動的な再会劇となりました。

でも大今先生は、この2人についてはいつも、真面目に向き合うとどうしても夫婦漫才的なコントになってしまう、そういった演出上の味付けをしています。

考えてみると、あの超名場面である第23話も、ポニーテールで大盛り上がりの将也から始まり、硝子の必死の口話、それに対して将也がさっくりと「手話使えよ」と受け流し、その後の硝子の手話で結絃がよだれをたらしていたり、せっかくもらったプレゼント(ガーデンピック)を飴だと思ったりと、会話が完全にコントになっていましたし、最後の「うきぃ」を将也が「月」と勘違いして「きれいだね」という「奇跡のボケ」をかます漫才っぷりに、硝子自身まで苦笑いして走り去っていきます。
あとは、遊園地回のあとの橋での「ほめ殺し」も、無理しまくりの表情の将也とわけがわからず赤面する硝子、最後に靴下とパンをほめるという将也の暴走っぷりが完全にコントでした。

さらに遡ってみると、スマホを手に入れた将也が硝子のメアドを手に入れようとしたら佐原の連絡先を聞かれた場面も漫才ですし、さらに遡って結絃の妨害を永束がさえぎって久しぶりに橋で再会したシーンでも将也が「いいバゲット」を見せて硝子がびっくり、というコントのシーンがあり、さらにさらに遡れば、高校で最初に再会した場面も、いきなり「友達になれるか?」という手話をぶつける将也の手を真っ赤になりながら思いっきり握りしめる硝子も、さらにその前、「忘れ物」といって筆談ノートを見せる将也に思いっきりびっくりする硝子も、どれも「夫婦漫才」の要素が満載です。
(そういえば、「筆談ノートでびっくり」の硝子と、今回の「硝子を橋で見つけてびっくり」の将也は、リアクションがそっくりでした。)

つまり、この2人は再会した頃からずっと、夫婦漫才を続けてきたということですね。

ちなみにこの2人の「夫婦漫才」は、どちらもボケになりうる、というところに特徴があります。
第23話では、硝子が口話を使っているあたりは硝子がボケ、将也がツッコミとなっていますが、最後の「うきぃ」に対して将也が「月?」と聞くところ、そして将也がかっこよく「キレイだね」と返したところは、将也の大ボケに硝子が「ダ」と逃げる形でツッコミと、攻守入れ替わっています。

そして今回も、久しぶりの「奇跡の再会」で感動の場面ですが、やっぱりコントになっています。


第53話、15ページ。

将也のこの気の抜けた「よっ」から、夫婦漫才スタートです。

まず、大今先生渾身の「仕込み」で、お互いがお互いに相手をユーレイじゃないかと思わずにはいられないような演出がなされています。

硝子は、肩を痛めていることもあってボサボサの髪、寝間着のままで深夜に橋にいるという異常な状況、そして将也に気づいてもすぐには動かない(これは逆に、硝子も将也をユーレイだと思ったからですが(笑))といった状況から、硝子のことを「それとも西宮のほうがユーレイだったり?」と思ってしまっています。
(読者からはさらに、これまでの硝子が表情を殺して幽霊のように動き回っている姿や、植野が「ユーレイかと思ったわ」と言ったりした場面を知っているので、いっそう硝子が「ユーレイっぽく」見えていますね。)

一方の将也は、病院で昏睡しているはずなのに深夜の橋にいきなり登場して「よっ」と声をかけてくるという「絶対にありえない状況」ですし、しかも着ているのが白い入院着で、どこからどう見ても「ユーレイの白装束」にしか見えません
さらに、フラフラ、ユラユラと歩いてきたのでしょうし…。

そして、二人は同じタイミングで目をこすり、


第53話、16ページ。

同じタイミングで相手をいぶかしげに見つめ、自分の頬をつねる将也におずおずと硝子が近づき、指で将也をつついて「実体」があることを確認してびっくり、という、これまたコテコテのリアクションで、しっかり「夫婦漫才」を見せてくれました。


第53話、17ページ。

さらに、これは第53話の時点ではまだ「漫才」に展開していませんが、きっと何か起こるだろう「伏線」として、将也がカテーテルを垂らしたままで橋にきている、ということがあげられます。
カテーテルを垂らしている姿もユーモラスですし、さらにカテーテルの性質上、将也の尿はどんどん出てきてしまっている(ただ、将也はちゃんとキャップははめたようです)はずで…。
将也がこんな状態で「感動の再会」をしている2人、というのも、傍から見たらコントにしか見えません。

感動の場面であってもたっぷりとネタ要素を仕込み、夫婦漫才を展開させるのも、この「聲の形」の面白さだと思います。
posted by sora at 12:56| Comment(3) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

やはり聲の形は「鯉の形」だった?(あるいは第53話のオカルト展開をどう読むか)(2)

第53話で、将也が橋で泣いている硝子を「透視」する場面、なぜこの場面だけ露骨に超能力っぽい展開になっているのか、と考えたときに、

これは、「鯉」が起こしている奇跡ではないのか?

という仮説にいきあたりました。

これまでも、聲の形ワールドにおいて、「鯉」は実はインガオーホーの理を司る「神」のような存在なのではないか、と考えていたのですが、今回、その思いがさらに強まりました。

つまり、

「聲の形」の物語のなかで、「鯉」は神のような存在であって、これまでもさまざまな奇跡やインガオーホーの理に基づく罰を与えたりしているが、今回もその「奇跡」の1つとして、昏睡したまま息を引き取ろうとしていた将也を死の淵から引き上げ、さらに将也をして橋で泣いている硝子を「透視」させた。

ということですね。
別の言い方をすると、「聲の形」ワールドの全員が超能力を使えるわけでも、「聲の形」ワールド全体がオカルトで動いているわけでもなく、ただ1つ、「鯉」だけがオカルト的存在として超常的能力を発揮して物語を動かしている、という風に考えるわけです。

そう考えるならば、第52話から第53話で起こった「奇跡」も、スムーズに整理できるように思います。
つまり、将也に心から会いたい、生きて戻ってきてほしいと願って硝子が落とした涙を、橋の下の川にいた鯉が受け止め、その想いを認めた鯉が「その瞬間に」奇跡を起こして、昏睡していた将也を死の淵から引き上げ、さらにいま橋で泣いている硝子の姿を透視させて、硝子の願いをかなえさせた、ということになります。


第52話、15ページ。

考えてみると、聲の形のなかで大きな「奇跡」が起こっている場所には、常に「鯉」がいます

将也が転落したときに「たまたま」島田がいてすぐに引き上げられて一命をとりとめたのも、「そこにいた鯉がこっそり奇跡を起こしていた」と解釈することも可能ですし、第52話で硝子が向かったのが病院ではなく橋だったのも、単に病院に将也を見舞っただけでは希望はかなわなかった(会えなかったでしょうし、恐らく死んでいた)のに対して、橋に行って(結果的に)鯉に祈りを捧げたおかげで、将也は生還し、しかも会うことができた、と考えれば「正しい選択だった」と考えることができます。

さらに遡ると、そもそもこの物語がただの「小学校の頃のいじめ」で終わらず、これだけのドラマに発展したのも、あの「筆談ノート」が校庭の池を介して硝子から将也の手にわたったことが出発点ですが、それもまた、あの池にいた鯉によって運命付けられた「奇跡」だった、と考えることも可能ですね。(そして、そういう展開が訪れた原因は、もしかすると硝子がパン係になって鯉に餌を与え続けたからかもしれません。)

そう考えていくと、この「聲の形」の物語というのは、単純にオカルト要素のあるドラマとして考えるよりも、「障害者いじめが起こってそのまま時が過ぎていくだけの平凡で残酷なリアルなセカイ」に、「インガオーホーを司り、運命を弄び、奇跡を起こす鯉」を登場させ、介入させることで、「こんなドラマがあったらいいな」という物語を私たちに見せてくれている、そんな構造をしているんだ、と考えることができるように思われるのです。
ラベル:第53話
posted by sora at 07:24| Comment(7) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

やはり聲の形は「鯉の形」だった?(あるいは第53話のオカルト展開をどう読むか)(1)

先ほどのオカルト展開エントリの続き的なエントリです。
さっそく、第53話でのオカルト的展開をがっつり楽しみつつ読み解いていきたいと思います。

第51話あたりから、将也と硝子の物理的距離を超えたコミュニケーションが少しずつ出てきて、物語がややオカルト的要素を帯びてきていましたが、第53話ではっきりと「超能力」としか読めない(あるいはそう読むのが最も自然な)展開が出てきました。

それは、

硝子が橋で泣いているシーンを将也が夢に見た際の硝子の服装が、将也転落後に硝子がはじめて着た、将也の知らない服装だった。

という点です。


第53話、4ページ。

他の場面はなんとか偶然で説明することもできそうなのですが、このシーンだけは「将也が転落して昏睡したあとの硝子の服装」を知っていなければありえない描写になっているため、偶然だけで説明するのは厳しそうです(あえていうなら、記憶の錯乱によって、実際の再会時に見た硝子の服装を、夢でも見たかのように「夢の記憶の後付けの修正」が行われた、と考えるくらいですが、まあちょっと無理があります)。

簡単にいえば、将也はこの場面で、「透視能力」という超能力を発揮していま橋で泣いている硝子を「見た」、そう考えるのがもっとも自然な読み解きでしょう。

でも、それにしてもこのシーンには少し不思議なところがあります。

このシーン、もしも硝子の姿を無難に「将也の知っている服装」にしておけば、偶然の一致かオカルトか微妙なラインを走ることができたはずだからです。
実際、このシーンで将也のほうは病院着ではなく4月15日の制服姿をしています。
つまり、作者もこの「服装問題」を意識して描いていることは間違いありません。
この場面で硝子も同じく制服の冬服にすることで第51話の夢枕シーンっぽく見せることも可能だったはずで、そう描けば「オカルトか偶然か」の微妙なラインを維持することもできたはずです。

でも、そうはなっていません。

つまり、この場面では、作者はあえてはっきりと「この場面では超能力が発揮されたんです」と表現しようとしている、そう考えたほうがよさそうだ、ということになります。

だとすると、他の場面ではオカルトか偶然か分からないように描いているのと比較して、この場面には「奇跡」がおこる必然的な背景、状況がある(と作者が考えている)ことになります。
それは、何でしょうか?

…と考えていて、「答え」らしきものにいきつきました。

「鯉」です。

次のエントリに続きます。
ラベル:第53話
posted by sora at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする

聲の形の「オカルト的展開」をどう読むか、という話

これ、エントリとして書くかどうか迷ったのですが、たぶん第51話から53話くらいの展開について議論していく際に、この部分について私がどう考えてエントリを書いているのかを示しておかないと、個々のエントリごとに微妙に火種がくすぶりそうなので、独立エントリとして自分なりの立ち位置を示しておくことにしました。

端的にいって、第53話で、

1)将也が硝子と同じ夢を見たこと。
2)将也が橋で泣いている硝子を夢で「透視した」こと。
3)その泣いている硝子の服装が、将也が見ていないはずのものだったこと。


などは、どれも「超能力的」であるように見えます。

こういった展開をみると、聲の形はオカルトまんがになってしまったのか、だとすればなんでもありだから「考察」しても仕方ないんじゃないか、といった意見も、まああると思います。

一方、これらの一見オカルト的な展開も、さまざまな考察を重ねることで、(多少強引になるでしょうが)オカルト的な前提をおかずに、「リアル路線+偶然」で説明することも不可能ではないと思います。
でも、そういった態度は、「オカルト的展開を無理に否定してリアル路線で読むという苦しい態度」に見えるということもあると思います。

ただ、この点について、私のポジションははっきりしています。

フィクションなんだからまずは全肯定。
オカルト要素があってもなくても構わないし、それも含め純粋に「作品の要素」として楽しみたい。
そのうえで、最終的にはそれによって表現されたものに対する「好き嫌い」の問題。(ただし「読み解き」は好き嫌いとは別)


少し前から書いていましたが、もともと、このまんがでは「リアル路線」とはちょっと違うセカイが描かれている、と思ってきました
具体的には、ものすごく少ない人数で物語が回っていき(将也転落を救出したのが島田と広瀬、とか)、「偶然の出来事」が割と当たり前に発生する、私たちが生きている世界とは微妙に違うパラレルワールドが舞台の物語だという認識です。(ゴールデンウィークもありませんでしたし、まだ肌寒い春でも平気で川に飛び込んだりもしていました)

ですから、ある場面で超能力っぽい展開が出てきたとして、それをそのまま「超能力」として受け止めてもいいですし、そうではなく「偶然の出来事が当たり前に起こるパラレルワールドで、また素晴らしい偶然が起こった」と読んでも、どちらでもいい、と思っています。

考察についても、

1)オカルトを前提として素直に読む。
2)オカルトは前提にしないが、「偶然の出来事がよく起こる」という「聲の形的パラレルワールド世界観」を前提にして深読みする。
3)あえてリアル世界観を前提にして「こんなこと起こらねーよ」と笑い飛ばす。


上記の1)から3)を組み合わせたり使い分けたりして、考察という営みそのものを楽しんでいきたい、というのが当ブログでの私の考え方です。
つまり、「この場面をオカルト的に読むなら素直に○○だけど、理屈をつけて読むなら××と考えれば説明がつけられる、でもまあどっちも強引だよなあ(笑)」みたいな読み方をするのが、私なりのこの作品の「オカルト的展開」の楽しみかたになります。

オカルト的展開を否定することもしませんし、オカルト的に見える場面にあえて理屈をつける、という読み解きを楽しむことも否定しません。「さすがにここでオカルトになっちゃうのは強引だ」と笑うこともしますが、それは作品叩きとしてではなく、しっかり「読み解き」をやった後でのツッコミとして語りたいと思います。

ちなみに第53話についてですが、大今先生は基本的に「オカルトでない前提でも読みきれる」ラインをぎりぎり走っているように見えますし、むしろそれを楽しんでいるように見えます
そもそも将也自身に「グーゼン会えるなんて出来過ぎだし?」とかまんがの中なのにメタ的なことを言わせてますし、硝子を何話も使って「ユーレイ風」に演出し、将也を白装束で登場させて二人を会わせる、なんてのも、オカルトオチを嗤うギャグにしか見えません。


第53話、15ページ。

また、今回の展開は、ふたりの出会いをドラマチックかつスピーディ(かつコミカル)に演出するために選択されており、翌朝普通に病室で出会うという(合理的だけれども恐らく退屈な)展開と、本質的には何も変わらないものでもあると思います。

ですから、第53話についていえば、納得できる形で「奇跡」が演出された、そう素直に思っています。

なお、このブログは、「読み解き」をメインとしてやっている「ファン」ブログです。(読み解き=作者がそれぞれの場面で何を表現しているのかを、作品内の情報から推理していくことです)
作品の好き嫌いの議論を否定するものではありませんが、例えばオカルト的であることを理由とする「作品叩き」「作者叩き」「キャラクター叩き」は、当ブログではご遠慮いただいていますので、ご了解いただいたうえで、楽しく皆さんと議論していければと思っています。

よろしくお願いします。
ラベル:第53話
posted by sora at 07:15| Comment(19) | TrackBack(0) | 第7巻 | 更新情報をチェックする