2014年09月04日

第51話、「空想シーン」で描かれている世界の意味とは?

第51話の真ん中に、明らかに現実と違う、楽しそうな毎日が描かれた硝子の「空想シーン」があります。(まんがのコマの枠がぐにゃぐにゃのものが、それにあたります)

このシーン、最初は、障害を持ちつつももう少しうまくやれていたら、このくらい楽しい毎日になっていただろうな、という硝子のささやかな願望、もしくは、辛いことがたくさんあった過去の記憶を微妙に捏造して、「楽しかった過去」に塗り替えているシーンとして読んでいたのですが、あることに気づいて、衝撃を受けました。

このシーンの読み方。それは、

硝子が空想する、「もし私の耳が聞こえていたら、障害がなかったら」というifの世界

ということです。

硝子が自宅に帰り、笑顔の西宮母、西宮祖母と一緒に食事をとるシーンにはもう1膳の食器があり、入浴中に「ガチャ」とドアの音がして、結絃が「おおぉあぁんあぁー」と言っています。これは「お父さんだー」でしょう。


第51話、11ページ。

つまり、この空想のなかでは、父親が離婚していません
そして、入浴中なのに、「ガチャ」という遠くのドアの音が「聞こえる」設定になっています
さらに、結絃の髪は長いままで、あの「髪切りイベント」も発生していないことがわかります。

そして、硝子は歌番組を楽しみ、合唱コンクールでもうまく歌えてみんなの中に溶け込んでいます。佐原も不登校になっておらず、ヘアメイク雑誌の話題で盛り上がる関係です。

…これらで分かるとおり、この「空想」の世界では、硝子は耳が聞こえるのです

では、なぜ「聞こえる」設定なのに、すべての登場人物の発音がおかしいのでしょうか?

それは、

硝子は、正しい発音の世界を知らないから。

です。

硝子の空想は、硝子が経験している、理解できている知識の範囲のなかで構築された「健聴者の世界」です。その「硝子が想像できる範囲」のなかに、健聴者がスムーズに話している音声言語は含まれていません。
ですから、この空想は「誰も聴覚障害者がいない世界」という設定になっているにも関わらず、会話は全部崩れていて、まさにそのことが、「本当は、硝子は重い聴覚障害者である」ということを残酷にも示している、ということになっているわけです。

…いや、この表現はすごい。
この表現の構造に気づいたとき、リアルに鳥肌が立ちました。

そして、「硝子視点回」を、単純に過去のいじめの回想とかに使うのではなく、硝子が障害をもっていることでどれだけ自己肯定感を潰され続けてきたか、硝子がどれだけ辛い人生を送っていたかを示すために、こんな形で使うとは、本当に度肝を抜かれました。

もう、この描写だけで、個人的には第51話は第21話(最初の植野大暴れ回)に匹敵するかそれを超える「神回」になりました。
ラベル:第51話
posted by sora at 08:17| Comment(20) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする

第51話、将也登場シーンをどう考えるか?(3)

第51話の後半部分、将也の登場シーンについて考察するエントリの続きです。

硝子の「夢枕」に立って語る将也の言ってることがどうもおかしい、という点について、いまの時点で考えられる整合的な答えとは、

将也が時間をさかのぼって、記憶を失いつつある。

という仮説(記憶喪失の展開となる、という仮説)です。

簡単にいうと、

1)いま、将也は死ぬ方向ではなく、むしろ回復の方向にあって、もうすぐ目覚める。
2)でも、その回復の過程で、時間をさかのぼりながら記憶を失いつつある。
3)ちょうど再会した当時まで記憶を失った時点で、硝子の夢枕に立った。
4)硝子に別れを告げる場面では、すでに小学生のころまで記憶喪失の時間がさかのぼっている。


ということです。

まず、夢枕にたった将也が、転落直前の決意や想いと関係のない話しかできていないことは、そのときの記憶をすでに忘れ、記憶が「再会時」にまで遡っているから、ということで説明できます。

そして、将也がいっている「挨拶してから しのーと思ってさ」というのは、いま死にかけているということではなく、再会時に胸に秘めていたけれども言えなかった(結果的にそれがよかったわけですが)、硝子に謝罪して自殺しようという想いを語っているに過ぎない、と解釈できます。
つまり、「挨拶してしのーと思って」いたのは再会したときであって、ちょうどその時期の記憶まで記憶喪失が遡っている瞬間だったからそういう話を将也がしているのであって、いま現に死にそうなわけでもない、という解釈です。
実際には将也の語っている内容が「謝罪」ではなく「挨拶」になってしまっているのは、再会時の将也はまったく過去に立ち向かう「覚悟」ができておらず、「謝罪できない将也」がそのまま出ているだけ、と考えれば自然です。

だとすると、その後に、「みんな変わらないけど普通に過ごせてるから万事OK」などと、無責任っぽいことを硝子に話している部分についても、将也がいっている「みんな」というのは、再会後に再度つながった橋メンバーのことではなく、硝子の転校後、将也が孤独に過ごしてきたなかでのかつてのクラスメートを指しているということになります。
(実際には、少なくとも転落事故後の橋メンバーの多くは、少なからず「変わって」いるので、その点でもこの将也のせりふをそのまま受けとるのは不自然に思われます。)

そして、最後に硝子がつかむ袖を振りきって、将也が「じゃーな」と去り、小学生の姿に変わるのは、この時点で、将也のなかから「再会した頃の記憶」も消え、将也が小学生だったころ以降の記憶をすべてなくしたことを示しているのではないでしょうか。

この仮説に従うなら、「じゃーな 西宮」というのは、将也の存在自体が消えるという意味での別れのことばではなく、「再会後、硝子に幸せな火曜日を運んできてくれた高校生の将也」が消える、という意味での別れのことばだった、ということになります。

将也の記憶が小学生まで戻るとするなら、将也は手話を忘れ、硝子が机の落書きを消していたことを忘れ、とっくみあいのケンカをしたことも忘れてしまうかもしれません。
それどころか、硝子と小学校で出会い、さまざまなことがあったことまで、忘れてしまうのかもしれません。

もしそうだとすると、将也と硝子の関係は、この後どうなっていくんだろう、と思わずにはいられません。

まあ、もちろん「将也が記憶喪失になる」というのは、それ自体はあまり当たる確率が高くなさそうな「予想」の1つでしかないので、ここでこれ以上この部分に深入りするのは避けたいと思います。
それに、こんな重要な場面で「挨拶してから しのーと思ってさ」と言っている将也が、「たまたま昔思ってたことをいってるだけ」というのも、さすがにちょっとあんまりな気もしますので(^^;)。
ラベル:第51話
posted by sora at 07:06| Comment(13) | TrackBack(0) | その他・一般 | 更新情報をチェックする

第51話、将也登場シーンをどう考えるか?(2)

第51話の後半部分、将也の登場シーンについて考察するエントリの続きです。

まず最初のポイントとして、今回硝子が「見た」将也は、すべてあの再会の日、4月15日の「場面」として現れている、ということを押さえる必要があると思います。

硝子は、この「夢」を見る前に、カレンダーと時計を見ています。
カレンダーには、火曜日に星印がついていました。
時計は、今日が火曜日で、その火曜日がもうすぐ終わることを示していました。


第51話、13ページ。

そして、現れた将也のいた「場面」は、硝子に訪れた夢のような日々のきっかけとなった「最初の火曜日」の場面でした。
一方で、そこで語られた将也のメッセージは、将也が、今日の火曜日の終わりとともに死んで硝子のもとを去っていくことを示唆するものでした。

つまり、この将也登場シーンの「場面の設定」は、将也とともに過ごした楽しい日々の「最初の火曜日」と「最後の火曜日」を同時に表すための場面設定になっている、と考えることができるように思うのです。
いまの硝子にとって「火曜日」は特別な日ですが、それは「火曜日」自体が特別だったのではなく、そこに将也がいたからこそ、火曜日が特別な曜日になっていたのだ(だから、将也のいない火曜日は、実は「ただの火曜日」であり、将也のいなくなった火曜日は「失われた火曜日」になってしまう)ということに、硝子は改めて気づいたのではないかと思います。

次に、最初に将也が現れた場所が病院ではなく「初めて再会した福祉会館」であることをふまえると、このときに将也が言っている「見つけた 最後に挨拶してから しのーと思ってさ」には、ダブルミーニングがかけてあることになります。

1つは恐らく、

1)いま昏睡している将也が、リアルタイムに危篤状態に陥っていて、死の前に硝子の夢枕に立って語っている。

という意味で、もう1つは、

2)4月15日に再会したときに、実は将也が胸のうちに秘めていた自殺念慮が、この場面で硝子に伝えられた。

という意味です。

このシーンを素直に読むと、硝子の夢枕に立った将也が、いま危篤状態に陥っていてダイイングメッセージを届けにきた、つまり1)ということになると思うのですが、だとすると不自然なところがいくつかあります。

まず、将也は転落直前に、硝子にしっかり向き合って謝罪することや、硝子の自分に対する気持ちを聞くこと、そのうえで自身の硝子への恋心を打ち明けることなどを考えています。
それに対して、今回現れた将也は、謝りかたも結構テキトーで、お互いの気持ちを確認することなく、一方的に、万事OKだから俺は死ぬ的なことをいって硝子を振りきって去っていってしまいます

それにそもそも、いまわの危篤状態で挨拶にきているなら、場面が時間をさかのぼった再会シーンである必然性はないことになります。

そしてさらに、最後に「じゃーな」で小学生将也になってしまう、ということを、どうとらえればいいのでしょうか

このあたりを整合的に解決する「答え」が、いまのところ自分のなかで1つだけあります。
ちょっとベタでご紹介するのに多少勇気がいる(笑)のですが、次のエントリで、その「仮の答え」について書いてみたいと思います。
ラベル:第51話
posted by sora at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする

第51話、将也登場シーンをどう考えるか?(1)

すみません、このエントリはまだはっきりとは答えが出ていないのですが、気がついたところをまとめて、考える糸口にしたいと思っています。

第51話の後半で、夢のなか?に将也が現れて、別れを告げるシーンがあります。


第51話、14ページ。

ここからのシーン、最初の「場所」は、点字ブロックと手すりがあり、奥にソファが置いてある場所ですが、これと同じ場所を特定しました。
これは将也が入院している病院ではなく、硝子と将也が再会した手話サークルのある福祉会館の廊下です


第2巻21ページ、第6話。

ここに、点字ブロックも手すりもソファも映り込んでいますから間違いないでしょう。
そして、この場面に登場している硝子も将也も「冬服」を来ていますから、これは4月15日の「再会の場面」で確定です。

そして、場所が切り替わって、硝子がつかんだ袖を将也が振り払うシーン、これはいつもの「橋」でまちがいないですね。


第51話、16ページ。

この場面も、おそらく4月15日です。
このシーンも硝子と将也が「冬服」ですが、「橋」で硝子と会った日で、硝子と将也が「冬服」なのは、4月15日と4月29日(結絃に妨害されつつも、永束の助けでなんとかもう一度会うことができた日)の2回しかありません。
しかも、4月29日の将也はかばんからバゲットを盛大にはみ出させていますが、今回のシーンでは将也はかばんを持っていません。4月15日に再会したときには、将也はかばんを持っていませんでした。

さらに、この同じ橋の場面では、最後に将也が高校生から小学生に戻ります。これにもきっと意味があるのだと思います。
(一応、この「橋」から小学生の将也が飛び込んだのは「第42回」度胸試しの日であり、同じ日に硝子はデラックスらに補聴器を(別の)川で捨てられ、その後ヘアメイクイシダにカットに来ています。)

次のエントリ以降で、この場面についての中身の考察に入っていきたいと思います。
ラベル:第51話 第06話
posted by sora at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする