2014年09月03日

第51話、ヒントはコマ枠にあり?

第51話は、硝子の現実と回想と妄想とテレパシーみたいなオカルトなどが入り交ざって、しかも時系列もぐちゃぐちゃで、それらをあえて分かりにくく配置しているので、どこで何が描かれているのか、どれが現実でどれが空想か、どういう順序で話が進んでいるのかが非常にわかりにくいですが、実はそれらの区別をかなりはっきりつけさせてくれるギミックが盛り込まれています。

それは、

コマの枠の描かれ方

です。

まず「回想」シーンは、枠の外が黒く描かれています
この技法は過去にも何度も使われていますし、現実から回想シーンに入るところでは枠の外がだんだん黒くなって、回想から現実に戻ってくるとまただんだん白くなるように描かれていますから、たぶん皆さん気がついていらっしゃるでしょう。

今回も、冒頭の花火大会の夜、石田転落後に警察や島田・広瀬と出会うシーンは、普通に枠の外が黒く塗りつぶされていますから、ここは「回想」ということになります。


第51話、5ページ。

そして映画再開の場面は普通の枠なので、ここは「現実」ということになるでしょう。

ところがこのあたりから雲行きが怪しくなります。

かつての6年2組の席に座ったところから過去に戻り、小学校で硝子がクラスメートと仲良くやっている描写は、一見「回想」に見えますが、枠の外が黒くなく、かつ枠がぐにゃぐにゃです。


第51話、10ページ。

つまりこれは、「現実」でも「回想」でもない、ということを示しています。
そして内容を読み込むと、全面的に過去の事実と異なるものになっていることがわかりますから、この「ぐにゃぐにゃ枠」で描かれている場面は、「夢」ないし「妄想」ととらえるのがいいと思います。
実際に、幸せそうな小学生硝子が布団に入る(妄想)シーンから、腕を器具で固定して涙を流す硝子が目を覚ます(現実)シーンに切り替わるときに、「ぐにゃぐにゃ枠」が「通常枠」に戻っています
(よくみると、「妄想」シーンのところどころに少しだけはさまれている「現実」シーンでも、そのコマだけ「通常枠」に戻っていることがわかります。)

そして、さらに悩ましいのが、将也が現れて死を示唆する場面。ここは明らかに「夢」であるように見えるのに、「枠」の線がまっすぐで、かつ外側も黒く塗られていません


第51話、15ページ。

この枠は「現実」の表現です。
なのに、そこにいないはずの将也が、さまざまな場面で現れ、年格好まで変わるという、明らかに「夢」の中としか思えないシーンになっています。

これは、どういうことでしょうか?

それはおそらく、このシーンは(あえてオカルトに傾く事を妨げないなら)、「夢」ではなく「現実」だ、ということなのでしょう。
硝子の頭の中だけで完結している「夢・妄想」ではなく、「現実」の将也が硝子のもとにやってきて、リアルタイムに「会話」をした、そういう「現実」として描かれている、と。

だから、硝子は走らないといけない、ということになります。
火曜日が終わる前に。
じゃーな、と言って去っていこうとする将也を、「現実」として、引き止めるために。
なぜなら、将也のそのメッセージは、「現実」のなにか、だということだから。

なお、今回は「枠」だけでなく、「文字」にも読みときにつながる表現技法が使われていますので、それについては別エントリで触れたいと思います。
タグ:第51話
posted by sora at 08:13| Comment(9) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする

第51話、冒頭煽りと話末の煽りが出色の出来!

さて、第51話は大今先生の「実験」が全面的に盛り込まれた回になっていますが、その「実験」の一方で、連載だけで楽しめる「アレ」が、今回はいつになく切れ味が鋭くて素晴らしいです。

「冒頭煽り」と、「話末煽り」の文章です。

まず、今回の冒頭の煽りです。


第51話、1ページ。

あの日、そしてこれまでの人生で、少女は何を見て、何を聞いたのか。

そして、話末煽りがこちらです。


第51話、18ページ。

5年ぶりの再会も、「パン係」中の雑談も、映画撮影の定例会も…
気が付けば、「火曜日」が少女の生きがいだった。溢れる想いを抱え、走る先は-。


冒頭のあおりについては、あえて、「何を『聞いた』のか。」という一文を入れてあるところが深いですね。
失われた聴覚のなかで、硝子に「聞こえていた世界」を(極めて実験的な手法で)描ききった今回は、まさにこの煽りにあるとおり「何を見て、何を聞いていたのか(逆にいうと、何が見えず、何が聞こえなかったのか)」を、冷徹に描いていると感じています。
また、「見て」のほうについても、硝子が夢「見て」いた世界が、現実とあまりにもかけ離れた「妄想」に近いものだったことが、逆に硝子の「現実への絶望」を明確に示していて、息苦しくなります。

そして今回、何よりも胸に刺さったのが、話末煽りの文でした。

これはまだエントリを上げられていませんが、硝子は水門小学校から転校して以降、「諦めた」状態になり、恐らくまともな人間関係を構築することはなかったようです。(硝子は将也に「楽しくやれている」と答えていましたが、多分社交辞令だったと思っています)

そんな生活のなかに、突如ふたたび現れた将也。
将也は深い海に沈むように生きていた硝子をその海から引き上げ、かつて「諦めた」ものを次々と取り戻してくれる、硝子にとってかけがえのない存在になっていったのだと思います。
第4巻の西宮祖母と結絃との会話の中でも、そんな硝子の「変化」が語られていました。


第4巻114ページ、第29話。

そんな将也が橋事件で傷つき、それを償おうとした自分の行為が逆に将也をさらに傷つけ、自分にできることを必死に探してたどりついた「映画再開」。それがようやく緒につき、みんなが集まった「火曜日の」映画撮影の場に、肝心の将也がいない。

そんな、硝子にとってかけがえのない「火曜日」がまもなく終わる時間に突如訪れた、その「火曜日」にかかわず全てを運んできてくれた存在を失ってしまうかもしれない危機への直感。

まさに硝子は、そんな「火曜日」に対するさまざまな「溢れる想い」を抱えながら、残りわずかしかない「火曜日」を終わらせないために、走り出しました。
この話末の「煽り文」には、まんがのなかではダイレクトに描かれない、硝子の内なる感情の爆発が描かれていて、感動的です。

これらの煽り文は、残念ながら単行本では消されてしまいますから、この「感動」を味わえるというのは、連載を追いかけている人ならではの特権ですね。(^^)
posted by sora at 08:02| Comment(11) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする

第51話はまさかの硝子回!

今回、第51話は、「聲の形」全体のなかでも、屈指の難解な回となっている印象です。
どのシーンをどう読むか、まだはかりかねている部分もありますが、今回、何よりも驚いたのは、

・最終話ではなく、ここでサブタイ「西宮硝子」が出てきた。

ということです。


第51話、1ページ。

多くの人が、サブタイ「西宮硝子」は最終話だと予想していたのではないでしょうか。
私も、第1話がサブタイ:石田将也だったこともあり、それとの対比から、最後の最後に「西宮視点」で一気に伏線回収、大団円という流れを想像していました。

ところが、大今先生はここで硝子視点を使ってきました。
これによって、6巻で描かれているのは、「将也と硝子の物語」であるのと同時に、「将也をとりまく、残り全員の群像劇」であることが明確になりました。

改めて読み返してみると、第6巻の各自視点回は、「それぞれの登場人物が、高校生になった将也と再会することで、どう変わったのか、どう影響を受けたのか」を描く回になっていたことに気づきます。

第44~45話(結絃):「石田 お前ならどうしてた?」→将也が心の支えになっていた
第46話(永束):親友とはこういうものだと初めて感じた
第47話(佐原):石田くんは変わった。自分はどうだ?
第48話(川井):「気持ち悪い」で自分の防衛機制と弱さを自覚
第49話(真柴):自分の愚かさに気づかされた
第50話(植野):変われない自分を自覚


そして、第51話の硝子回です。

硝子にとっての再会後の将也は、硝子の人生のすべてを変えるほど大きな存在だったことがわかりました。
水門小を離れたときに諦めてしまった、たくさんの夢、壊れてしまった関係。
そういったものを次々と取り戻して、空っぽだった硝子の毎日の生活を満たしてくれた、奇跡のような存在が将也だったのだ、ということが、第51話を読んで痛いほど伝わってきました。

そんな将也が、過去の自分とのかかわりが原因で傷つき、ボロボロになり、将也が取り戻してくれたものもまた壊れてしまったとき、硝子が自殺という選択をせざるを得なかったという流れも、改めて説得力を増したように思います。

最後に夢枕?に出てきた将也のメッセージが非常に不穏ですが、今度こそ、硝子も、自分にとっての将也の「かけがえのなさ」をはっきり自覚しましたから、もし次回、将也が目覚めて硝子と対面できれば、第3巻ラストの再来も期待できるように思います。
タグ:第51話
posted by sora at 07:08| Comment(9) | TrackBack(0) | 第6巻 | 更新情報をチェックする