当ブログでは、いわゆる発売日前の「フライングのネタバレ」に関する話題は扱いません。フライングのネタバレとなるコメントはご遠慮ください。ご協力よろしくお願いします。(発売日後のネタバレはOKです。)

おすすめエントリ(最初はこちらからどうぞ)

2014年07月01日

デートごっこ以後の硝子の心情を改めて考える

さて、42話の展開で、橋事件以後の硝子の心情がようやくある程度明確になりました。
すでに書いている内容とかぶる部分もありますが。改めて整理してみたいと思います。

第39話の最後でデートを承諾した硝子ですが、その夜結絃から橋事件の詳細を聞いて、自分の存在があらゆる人を不幸にしてしまう、という絶望を深くしたことでしょう。

翌日の「デートごっこ」をあえて(恐らく将也を絶望させないために)断らなかったものの、その結果、今度は将也にケガを追わせてしまいます。
橋事件に続いてまたも将也を「不幸にした」ことで、硝子のなかで「私と一緒にいると誰もが不幸になる」という気持ちが、自分でも制御できないくらい大きくなってしまったのだと思います。

そして、この表情。


第40話、17ページ。

これは、将也に筆談ノートを捨てられてずぶ濡れになって帰ってきたとき、結絃に見せたのと同じ表情であり、「自殺念慮」と直結する表情です。
つまり、硝子は、この瞬間に自殺することを決めたのだと思います。
そのあとの吹っ切れたような笑顔はつまり、自分はもうすぐ自殺して消えるから、長くここに居続けて将也を不幸にすることはない(だからもうそのことを心配する必要もない)、という意味で「吹っ切れた」笑顔だったのだと思います。

そしてこの後、硝子はつきものが落ちたようなさっぱりした表情になり、将也に対する態度も別人のようになります。
(手話サークルで会ったときはギョッとしたものの)映画への誘いを素直に受けただけでなく、自宅にまで呼んで一緒に家族の誕生日を祝い、さらに花火にも積極的に誘っています。

これはやはり、好きな人、一緒にいたい人、必要だと思ってくれる人と、最後のひとときだけは過ごしたい、という気持ちの現れだったのだと思います。
それに加えて、「周囲を不幸にするという呪いの意識」を(最悪の形でですが)吹っ切れたことで、やりたくてもやれなかったこと(将也を積極的に誘うことなど)ができるようになった、ということもあったのだと思います。

そして、これ以降硝子が汗ひとつかかなくなったのは、硝子にとっての現実が、自殺決行にむけて少しずつリアリティを失っていくことを示していたのだと思います。

そんな、束の間の幸せな、でも少しリアリティを失った時間のなかで、将也から「来年の誕生日を一緒に祝おう」が硝子に突き刺さります。
それまで淡々と将也との会話に応じていた硝子は現実に引き戻され、叶えることのできないこの約束に対して、あの変顔が出てしまいます。


第42話3ページ。

この笑顔の口元、かつて第3巻21話で硝子が見せた、「とても笑顔でいられる状態じゃないけど辛うじて作った笑顔」とまったく同じ類のものです。

第3巻144ページ、第21話。

とうとう耐えられなくなった硝子はこの会話を期に花火会場を去り、自殺を決行するために自宅に戻っていきます。
このとき、将也の「また」に対して、「また」ではなく「ありがとう」を返しています


第42話4ページ。それにしてもこのまんがは、「またね」の手話を超有名にしましたね。

硝子が将也に「また」を返さなかったのは、これで2回目になります。(1回目は植野と再会したときの修羅場)

もしも将也がこのあと硝子の命を救わなければ、これが硝子のさいごの「聲」になるところでした。

ありがとう。…そして、さようなら、と。
posted by sora at 21:32 | Comment(9) | TrackBack(0) | 第5巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月02日

第43話と第1話の完璧な関係とは?

さて、怒濤の展開が続く聲の形ですが、43話も事前のあまたの予想の裏をいく展開でした。

ところで第43話について、このあと内容についてもどんどん書いていこうと思いますが、「なぞ解き」ブログとして、個人的には何より先にこの点に触れずにはいられません。

43話のサブタイトルは「度胸試し」です。(例によって前話ラストの煽り文とは全く違いましたが(^^;))


第43話1ページ。

このサブタイトル、どこかで聞いたことがあります。
そうです、第1話で、将也が島田・広瀬と放課後にやっている川への飛び込み、最初のが「第41度胸試し大会」、その次(ヌートリアを見つける回)が「第42度胸試し大会」と呼ばれていました。


第1巻21ページ、第1話。

えっ、「第42回」…?
この中途半端な回数、当然これを読んだ時点では「たくさん度胸試しをやってる」という「たくさん」以上の意味のない数字だと思っていたのですが、

今話は「第43話 度胸試し」です。

なんと、42と43でつながってる
こんなところでよく分からない伏線回収してる!

その符合をふまえて改めて読んでみると、驚くべきことに気づきます。

もともと第1話で「第43回」をやろう、と島田・広瀬にもちかけたとき、島田は塾で断り、広瀬からも「俺ら もう少し安全で身になる時間の使い方しよーよ」と断られた結果、「第43回」は実現せず、度胸試し大会は第42回で中断しているのです。

さらに、この「度胸試し大会」ができなくなり、友達が微妙に離れていき、将也が退屈に押しつぶされそうになったときに現れたのが、他ならない転校生の西宮だったわけです。

そして今回、広瀬が回想に登場して、水への跳び込みの衝撃についてウンチクを語りだすという、「ッオイ石田ァ! そんな悠長なこと思い出してる場合じゃないだろッ!」という(ある意味ユーモラスな)展開も、これこそかつて「第43回」の誘いを広瀬が断るときのセリフで、ここでも伏線回収しています。


第1巻46ページ、第1話。
今回将也は思い出せませんでしたが、正解?は「15メートル」でした。

さらに、第41回の「度胸試し大会」で、広瀬に「いつか死ぬぞあいつ」と言われているのが、今回「それはきっと」と回収されている。

つまり、第43話は、第1話で描かれた「度胸試し大会」を伏線としてきれいに回収しているのですが、そもそもこれは後付けで考えられたものではなく、「第42回」で中断してしまった度胸試し大会を「第43話」でもう一度やる、そしてそこには第1話で広瀬にしゃべらせたこと(水面に落ちたときの固さや、「いつか死ぬぞ」の暗示など)を使う、ということが予め想定されて描かれていた、ということになります。
そうでなければこういう構成には絶対できないわけですから。

つまり、大今先生は第1話の時点で、「第43話に何を描くか」まで(下手すればネームに近いレベルで)完璧に決めていたことになります。
そしてその構想を実際の連載でも完璧に実現した、と。

…これはとんでもないな。
「聲の形」の連載が始まった時点で、もう既に将也・硝子のいまの運命は大今先生によって完璧に定められていたんですね。
そして、そのプロットは、たった1話のずれも発生させることなく、完璧に想定どおりここまで進んでいるということなんですね。
これは確かに「当初の構想を簡単にはいじれない」という編集さんの話も分かる気がします。




私も、事実上新人に近い大今先生が、初の週刊誌連載で、第1話の時点の構想を第43話で完璧に実現していることが分かって、まさに「異次元の驚き」を感じずにはいられません(^^;)。やっぱ天才だわ。
タグ:第43話
posted by sora at 07:12 | Comment(8) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第44話の展開を推理する

前週も、次週予測のエントリがけっこう盛り上がりましたので、今回も試しに立ててみようと思います。

前回、私がたてた「次回以降の予測」は、残念ながらことごとく外れてしまいました。

まさか、硝子が助かって将也だけ落ちるなんて…
さすがにそれは斜め上すぎました(笑)。
これからは、展開予測として「オカルトにならない範囲のいちばん斜め上の展開」を選ぶのが正解なのかもしれません。

ただ、実は先のエントリでも触れていたとおり、「第43話」というナンバリングそのものが大きなヒントになっていたんですね。
「度胸試し大会」が第42回で中断していたことが伏線になっているとピンと来ていたら、第43話では(かつて度胸試しでやっていたように)少なくとも将也は落ちる・飛び込むだろう、と予測できていたかもしれません。

そういう意味では、次話のナンバーも大今先生が意味を乗せてきそうな「第44話」です。乗せられそうな「意味」としては、

1)44=死死=2人死ぬ。

考えたくないけど「意味づけ」として一番ありそうなのはこれではないでしょうか。「2人」の組み合わせとしていろいろ考えましたが、やはりストーリーが破綻しないのは、

1a)将也が死んで、硝子が再度後追い自殺

だけかな、と考えました。
実際には死なないが死んだも同然、というパターンもいくつか考えられます。

1b)将也は意識が戻らない・または下半身不随に、硝子はショックでまともじゃない状態に。

もっと大きくファンタジー方面?に振るなら、

1c)将也は外傷性ショックで、硝子はトラウマで、二人とも記憶喪失に。

希望がある方向性なら、

1d)将也もかつて自殺を硝子に救われており、2人がそれぞれ一度死に、それぞれ相手に救ってもらったことを悟る。

こんなところでしょうか。

ちなみに、もし「44」が「死死」で回収されるのなら、「45」はやはり「死後」で回収される可能性が高いでしょうから、第44話で描かれた「2つの死」の「後」、という話になるのではないかと予想されます。

さて、上記1)とは別の「44」に関連しそうな物語の中での「意味」としては、

2)西宮母の44歳の誕生日。

というのがありました。
このときの「44」というのもなんか不自然な感じだったので、実は伏線回収の方向性としては十分あり得そうなんですが、回収のしかたがまったく想像つかないですね。
ベタな想像でいうと、将也が搬送されたのが西宮母が勤務する病院で、将也と西宮母のからみが何かある、という展開でしょうか。

もう1つ、「44」で思い当たるのは

3)「四肢」=両手両足

です。
これだと、将也に四肢まひの後遺症が残る、という展開が予想されますが、だからといってそれを「44」というナンバリングと結びつけて意味を持たせるというところが必ずしもぴんと来ない気もしますね。(麻痺が残る、という展開自体は十分考えられるのですが…)

あとは、ちょっと「44」に対してはこじつけとなりますが、

4)「視死」=目が見えなくなる

は「大技」としてあるかもしれません。
第1巻でも「目つぶし」がいじめネタで出てきましたし、硝子とのコミュニケーションは目がやられるとほぼ壊滅ということで試練がやってきますし、クラスメートへの×の問題にも関係してきますね。

いずれにしても、第42話の「死に」、第43話の「度胸試しの続き」など、ここのところ話数に意味を持たせてきている大今先生なので、「44」にも意味がこめられている可能性が高そうです。

それ以外の予想要素としては、43話ラストで石田母が姉から「大丈夫」と言われていることから、この時点で将也は少なくとも生きていること、でも直接面会できない程度には重体なことはわかります。
また、病院に石田母と石田姉しかおらず、西宮ファミリーも橋メンバーもいない、ということから、「どんな経緯で病院に搬送されたのか?」「来てない人たちはいまどこにいて何をしているのか?」というのも、推理を難しくしているところです。

個人的な予想としては、

・このまんがは将也と硝子の物語で、あと2巻もあるんだから、将也も硝子も死なないだろう。
・将也は入院、硝子も話せる状態ではなく、最初は何が起こったか誰もわからないが、結絃がカメラの録画に気づき、真相が明らかになっていくのでは。
・展開の興味深さということで「44」は上記の4)で回収する予想。伝えたいことがたくさんあるときに限って、お互いの「聲」がどうしても伝わらない苦悩を描く、とか。
・ただ、硝子のショックは半端なものではないだろうから、ここで硝子は将也から逃げていくのではないだろうか。第1話の冒頭のように。


あたりでしょうか。
うーん、やっぱり難しいですね。
タグ:第44話 第43話
posted by sora at 08:20 | Comment(20) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

繰り返される「飛び込み」、硝子が「諦めたもの」、そして「鯉」の謎とは?

さて、考え始めるとすべてが伏線に見えてくる(笑)聲の形ですが、もう1つ、今回の第43話を受けて、伏線としてつながってきているようにしか見えないものがあります。

それは、「川に飛び込む」という行為が意味しているものです。

この作品では、やたらと登場人物が川に飛び込みます。
その飛び込みですが、大きく3回あって、

1)小学校時代の将也の飛び込み(度胸試し)
2)高校再会時にノートを拾おうとして硝子が飛び込み
3)第43話で硝子を救うために将也がマンションから川に転落


このうち、1)と3)が「連続した1つのもの」であることは、第43話の見事な構成で明確に示されました。1)+3)の飛び込みが意味しているものは、端的には「将也の並外れた『度胸』で、消えかけた硝子の命が救われた」みたいなことだと思います。

ここで思い出すのが、第2巻で将也が結絃に切った啖呵と、その直前の会話です。


第2巻152ページ、第13話。

将也「体があるうちは西宮のために消耗したいと思ってる!命を!

今回、将也は3)でこの宣言を有限実行しました。
さらに、その直前の会話を考えてみると、

将也「あいつ この前…『一度 諦めた』って言ったんだ」
「俺のせいで あいつは何かを諦めた だから…」


この「一度 諦めた」発言は、2)のときに硝子が将也に語ったものです。
つまり、3)と2)はつながっています。
3)と1)もつながっていますから、1)2)3)はすべてつながっているわけです。

そして2)については、「諦めていたもの=将也が拾ってくれたもの=筆談ノート(が象徴するもの)」であり、2)の飛び込み(と筆談ノート探し)には「硝子が、一度諦めたことにいま一度手を伸ばしてみることにした」という意味が込められていることも間違いありません(落ちるときに大きく手を伸ばしていますしね)。

だんだん深くもぐってきました。
(この先も個人的考察の長文になっていくので、好きな方だけどうぞ。)

小学校時代、筆談ノートを将也に捨てられて「諦めたもの」とは何だったのでしょう。
この「諦めた」の語は、作者が2巻で繰り返し登場させています。特に先ほどの将也と結絃の会話は、この第2巻のドラマのピークともいえる部分ですから、このまま放置されるとは思えない、特A級の重要な伏線(しかもまだ回収されていない)の1つだと言えます。

この「諦めたもの」を素直に解釈すると

a)(筆談ノート等を使って)自分からすすんで友達を作ろうとすること

といったあたりでしょう。

でも、ここで思い出したいことがあります。
この「筆談ノート投げ捨て事件」の日、ずぶ濡れの硝子が結絃に伝えた「自殺」のメッセージです。

読みきりで分かるとおり、硝子は池ポチャされた筆談ノートを発見しますが、絶望のあまりそれを回収せず、池に落としたまま帰宅します。(それを後日将也が拾うわけですが)
そして「命を捨てたい」というメッセージを結絃に伝えるのです。

つまり、「諦めたもの」にはもう1段すすめた解釈をする余地があって、

b)硝子にとっての、生きること・行き続けることの積極的な意味

と読み取ることも可能になるでしょう。
さらに踏み込んでいうならば、「諦めたもの=筆談ノートが象徴しているもの」とは、

c)硝子の命、生の実感

と考えることも可能です。
a)b)c)はほぼ同じことを、順に、より深刻にとらえているということになるかと思いますが、硝子が筆談ノートを捨てられて「自殺」を考えるくらいですから、a)で留まるというよりはb)ないしc)にまで踏み込んで理解したほうがより本質に近いのではないでしょうか。

そして、今さっと流してしまいましたが、「硝子がずぶ濡れ」「将也が拾う」のところにも実は飛び込みがあることを見逃してはいけません。つまり、

4)硝子が筆談ノートを拾うために学校の池に飛び込み。
5)学級裁判後に島田らに落とされて、将也が学校の池に飛び込み。


という「飛び込み」もあるので、全部で5つの「水に飛び込み」場面があることになります。

そして、これらのすべてをつなぐのが、「筆談ノート」です
「筆談ノート」を「硝子の生の意味」におきかえて時系列に並べて整理してみると、

1)=3)を成功させるための「練習」、壮大なイントロ
4)=「硝子の生の意味」が池に捨てられる。硝子は拾うのを「諦めた」→自殺念慮
5)=「硝子の生の意味」を将也が偶然拾う。3)につながる、硝子と将也の運命を示唆。
2)=将也が硝子と再会、拾った「硝子の生の意味」を持ってくる。
   硝子は「一度諦めた」生への意味付け、生きていることへの実感を劇的に取り戻す→うきぃ
3)=「硝子の生の意味」に書かれた「死」のページ。→自殺、しかし、5)で「硝子の生の意味」を拾った将也が、「死」を蹴飛ばしたうえで、再び硝子の命を本当に「拾う」。


きれいにつながるのです。
簡単にいうと、硝子にとっての「生きる意味・生の実感」は、「筆談ノート」により象徴的に実体化されていて、かつそれは何度も捨てられ、また拾われて、しかもそこには常に将也が運命的に存在していた、ということになるわけです。(最初に捨てたのも将也でしたが…)

そう考えると、硝子にとって、4)から2)までの5年間は、ちょうど第41話がそうであったように、「自殺念慮を持ち、生の実感を喪失しながら、でも表面だけは平穏に生活してきた5年間」だったと言えるでしょう。

そしてそのことを察していた結絃は、学校に行くことも放棄して、必死に硝子を守っていた。
でも、2)で将也に会って以降、それがいい方向に激変して安心した。
その嬉しさを語った場面こそが、第29話「ばーちゃん」での結絃と祖母の会話だったのではないでしょうか。(このときもまた筆談ノートが登場しているのも見逃せません)

だとすれば、2)以降、硝子があっという間に将也に惹かれ、第23話で「うきぃ」となってしまうのも、それまでの「生きながら死んでいた5年間」との対比の鮮やかさを思えば不思議ではありませんし、逆に、第39話の橋事件でそれがすべて再び壊れてしまったショックが、硝子のなかでストレートに「自殺」につながったのもまったく不自然ではありません。

そして、もう1つ忘れてはならないこと。
1)から5)までの、将也や硝子が飛び込んだすべての水の中に、「鯉」がいるのです。

あまりに文章が長くなりすぎたので、この「鯉」についての考察は別の機会にしたいと思いますが、将也と硝子の運命を濃縮したような「川(池)への飛び込み」「筆談ノート」、そのすべてを見つめている「鯉」、さらには将也の心象風景にも繰り返し登場する「鯉」…。

まだまだ、「聲の形」について考えなければならないことは多そうです。
タグ:第13話 第43話
posted by sora at 08:32 | Comment(4) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(超深読み)改めて考える、「鯉」が象徴するものとは?

「聲の形」の重要場面で必ず登場する鯉。
それがもつ意味について、これまでも何度か考察してきました。


第2巻15ページ、第6話。

将也の心象風景に現れる鯉
なぜ40話の表紙に鯉がいるのか?
繰り返される「飛び込み」、硝子が「諦めたもの」、そして「鯉」の謎とは?

今回は、従来のこれらの考察よりもさらに深読みをして、ちょっとオカルトというか「さすがにそこまで考えてないだろ」というレベルにまで踏み込んでみたいと思います。
(というわけで、まあある意味のことば遊びでもあります。あまり本気にせずに気軽に読んでいただければ。)

これまで、「鯉」について、将也のまわりに現れる鯉は、将也の犯した「罪」を象徴した存在であり、それとは別に、硝子がいつもえさをやっている橋の下の鯉はそれほど深刻なものではなく、「鯉にえさをやって(将也との)恋を育てる」程度のもの、と、これらを別々のものとして考えていました。

でも、第43話で、将也が川に飛び込む前にいきなり神様に祈りはじめて、それから川に転落したことで、1つつながった(オカルト的に)ことがあるのです。

これは、キリストの「最後の晩餐」とつながっているのではないか、と。
最後の晩餐では、イエスは弟子たちに「このパンは私のからだ、ワインはわたしの血だと思って食べなさい」と言ってパンとワインを与えました。
パンはそれを与えているひとの「からだ」を象徴していると言えるでしょう。
そして、「鯉」がこれまでどおり「かかえている過去の罪」を意味するのだとすれば、「鯉にパンをあげる」というのは、「過去の罪を償うために自らの身体を提供する」という行為を象徴している、ととらえられないでしょうか?

そしてこれは、将也だけではなく硝子にも当てはまるのです。
硝子は、生まれながらの障害により、周囲の人を不幸にしてしまう、という「罪」の意識にずっとさいなまれています。
ですから、「自らすすんでパン当番になって鯉にパンをあげる」というのは、上記のとおり、「自らの罪深さを償うために、身を切り刻んで(パンをちぎって)提供している」ということを意味しているのではないでしょうか。


第2巻26ページ、第6話。

そう考えると、将也のまわりにいた「鯉」と、硝子がえさをあげてきた「鯉」は、実は同じものだ、ということになります。

そして、このバカッター事件の記事にある「最近、鯉の元気がない」というのは、鯉に十分にえさが与えられていないということだと考えれば、この直前に将也が考えていた「罰が足りない(贖罪=鯉にえさを与える、が不十分)と符合します。


第2巻104ページ、第10話。

そして、第43話です。
将也は、まず神に祈ります。
そしてそのあと転落。
転落後の川には、えさを与えるべき(=贖罪の対象である)鯉がいます。
そして、将也は自らの身を投げ、同時に出血しています。


第43話、17ページ。

と、いうことは…

最後の晩餐で、パンとワインになぞらえられたのは、イエスの「からだ」と「血」でした。
そして第43話のラストで、将也は川のなかに「からだ」と「血」を捧げ、そこに「鯉」が泳いでいる…。

しかもそれは、もしも将也が硝子を引き留めなければ、硝子がやっていたことでした。
その場合も、これまでは「パン(「からだ」の象徴)」を鯉(過去の罪)に与えていた硝子が、ついに本当の「からだ」(と「血」)を鯉に提供する、という形になっていたはずです。

もしそうだとするならば、将也は、過去の罪を償うために、ついに自らの「からだ」と「血」を、贖罪の象徴である「鯉」に捧げた(それによって救済が成った)、と考えることはできないでしょうか

これらは、単なる偶然の符号なのでしょうか。
それともここには、将也が「過去の罪」をあがなうために、「からだ」と「血」を捧げた、という「宗教的な描写」が含まれているのでしょうか?

ここまでくるともう意図的なものか、オカルト的な深読みなのか、私自身もよくわかりませんね。(^^;)
(もし本当に「パン」=「からだ」なのだとしたら、第4巻95ページ、第28話の「このパンもいいパンだ」が微妙にエロくなりますね(笑))

もしそうだとすると、この花火大会があったのが「金曜日」で(最後の晩餐の曜日)、将也はそれから3日目の日曜日に復活する(イースター)、という展開もありえるかもしれません。
また、そうやって復活という奇跡をおこした将也は、硝子を含むあらゆるメンバーに「救済」を与える存在となるのかもしれません。

また、これもこじつけかもしれませんが、将也と硝子が再会した「4月15日」というのは、どうやらキリストが復活した日であるという説が割と有力なようです(その2日前の「13日の金曜日」に刑が執行され、15日の日曜日に復活)。
あとは、将也の姪が「マリア」だ、というのも、その親が「ペドロ(=ペテロ)」だ、というのも、キリストと関係ある名前ですね。これも偶然?

ちなみに、キリスト教と鯉との関係としては、かつてのキリスト教では肉を食べてはいけない日があり、その日に肉の代わりに食べる魚として鯉が養殖されるようになった、ということがあり、特に東ヨーロッパでは、クリスマスには鯉を食べるという風習がいまでもあるということです。
タグ:第43話
posted by sora at 20:46 | Comment(25) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

第43話、将也が転落したのは何階からか?

43話で将也は硝子の代わりにマンションのベランダから転落してしまうわけですが、ここで将也の容態に大きな影響を与えるのが、

結局、将也はマンションの何階から落ちたのか?

ということだと思います。

ここで決定的証拠となるのがこのコマです。


第43話、15ページ。

転落直後の将也の視界だと思われますが、まだ硝子の着物のすそが見えている、ということはまだ1フロア分も落ちていないタイミング(でも硝子の顔は見えないくらい)だということが分かります。

ここで、ベランダの柵がよくみると4つ確認できます
そうすると、転落したフロアの柵はもう過ぎてしまって見えてないわけですから、4+1で柵の数は5つ。
5階、ということでいいでしょうか?

多分、違います。
マンションでは通常、1階はこういう壁+フェンスという構造にはなっておらず、壁のないテラス状になっています。(それで専用庭みたいなのがついているマンションも多いですね。あるいは専用のガレージになってる場合も多いです)

つまり、4+1+1で最低6階、ということになるのではないでしょうか。

6階だとすると、1フロア3mとして(まんがで言っているように4mは通常ありません)、6×3=18m、ではなくて、6階の床=5階の天井の上にいるわけですから(6−1)×3=15mということで、ちょうど広瀬が言っていた「コンクリートの固さに…」の高さに相当します。
うーん、かなり高いですね…。

しかも、この着水直前のコマですが、


第43話、15ページ。

花火の「しだれ部分」が下向き(つまり上下反転)で、かつ上半分が見切れています。
これを素直に将也の視界として解釈すると、「頭からまっ逆さまに着水した」としか読めません。…

次号で判明するであろう、将也の容態が気になります。
タグ:第43話
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第43話、もっとも不気味ななぞとは?

さて、第43話はサブタイ煽りでは「西宮硝子の回想」だったはずが、実際には「石田将也の回想」でした。
そしてその回想が終わったところで、将也はマンションから下の川に転落して大怪我を負い、一方の硝子はかなり不安定な状況(たぶん、フェンス上部の手すり部分に手をかけ、足はもうフェンス下部の外壁切り欠き面に乗っている状態)ではありつつも何とか助かった、そういう状況描写だと思います。

でも、だとすると不可解なことがあります。

最後の場面、石田母が病院に呼ばれ、心配で泣き崩れている場面に、なぜ西宮ファミリーが誰もいないのでしょうか?
少なくとも、なぜ硝子はいないのでしょうか?



第43話、18ページ。

これが相当に不気味です。
(警察に呼ばれている、といった展開は、リアリティとしてはそうなのかもしれませんが、「余計なものを極限までそぎ落としている」この作品では、ちょっと冗長であり、可能性はそれほど高くないのでは、と思います。)

さらに加えていうなら、将也が落ちて救急車を呼んだのは誰でしょうか?
将也転落の時点でベランダの柵の外側にいて(浴衣なのでまたぐのも大変)、耳が聞こえず、発話もままならない硝子に、救急車を呼ぶのは至難のわざでしょう。

そうすると、やはり誰か橋メンバーが「あれ 西宮さんじゃね?」であとをつけてきたのか、川の周辺とか花火を見にベランダに出ていた他の部屋の人に発見されたのか、たまたま帰ってきた結絃や西宮母が助けたのか、そのあたりも謎になってきます。
(橋メンバーが呼んだのなら、その橋メンバーが病院にいないとおかしいですが…)

自分が死ぬはずが、将也を犠牲にしてしまって、しかもその瞬間を間近で見てしまった硝子が、冷静でいられるとはとても考えられないということもあります。

石田転落後、硝子はどう行動したのか? どこへ行ったのか? いまどこにいて何をしているのか?
(加えて、そろそろ帰ってきているであろう結絃と西宮母はどうなったのか? カメラの録画はどうなったのか?)

これらは、おそらくあえて第43話のラストの描写では隠されているため、現時点ではまったく解くことができません。
そういう意味で、もっとも不気味な謎ではないかと思います。
タグ:第43話
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未解決の伏線を整理して、エンディングまでの展開を推理する

さて、今後の展開予測ネタの第2弾です。

今回、43話という終盤で、第1話の伏線を1話もずらさずガチガチに回収してくるという離れ業をなしとげた大今先生ですから、ここからエンディングまでのプロットもほぼ完璧に用意されていると考えるのが自然です。

全7巻完結ということは、あと20話弱ということになります。
ヒロインの自殺決行と主人公の重体という怒涛の展開は、物語の起承転結の「転」であること、これはほぼ間違いないところですから、ここからは「結」ということで、これまでに広げられた風呂敷をたたみ、伏線を回収していくストーリーになっていくのだと思います。(そうでないとさすがにもう間に合わないでしょう)

ということで、そろそろタイミング的には、この「聲の形」の物語がどのようにエンディングを迎えるのかについて考えてもいいところまで来ているんじゃないかと思っています。

さて、そういった観点から、これまでに出てきた伏線のなかで、回収されていない「大物」を思い返してみましょう。

1)特A級

1a)硝子の将也への恋心は届くのか。将也の硝子への恋心は自覚され届くのか。
1b)将也、硝子双方が持つ自己嫌悪は克服されるのか。
1c)島田の中学での将也迫害の理由、島田が将也に考えている(いた)こと
1d)小学校時代の硝子がなぜ将也と友達になろうとしたか
1e)硝子が自殺を決意するに至る(小学校からの)心情的経緯
  (読み取れる、という考え方もありますが、硝子がそれを語るのか否か)
1f)橋メンバーとの和解。誰と和解し、誰と和解しないのか。
1g)将也がクラスメート全般につけている×は外れるのか
1h)硝子が「諦めていたもの」とは何だったのか

2)A級

2a)硝子が植野に出した手紙の中身
2b)硝子の補聴器が片方になった理由
2c)水門小から転校後の硝子の学校生活、交友関係
2d)なぜ島田はテキ屋になっているのか、ただのバイトなのか
2e)結絃カメラのゴクヒ映像はもう使われないのか
2f)結絃の不登校は解消されるのか、自称「硝子の世話係」を卒業するのか

3)Aマイナス級

3a)真柴の正体、真柴の「同級生」
3b)結絃が死体写真ばかり撮っていた理由
3c)ガーデンピックはいつ聞くんだ
3d)佐原のメール「成長を証明する」方法
3e)竹内がなぜ手話を知っているのか
3f)ペドロはどこへ行った?
3g)広瀬のいま、島田・植野との関係
3h)将也が中学時代も孤立していたことを硝子は知ることになるのか

4)B級

4a)喜多先生の結婚相手、喜多はいま何をやっているのか
4b)小学校時代、将也以外のクラスメートの硝子いじめの実態
4c)石田母の「優しさの中の厳しさ」はもう表現されないのか
4d)健脚コンビとは何だったのか
4e)デラックスってなぜ登場したんだろう、再登場はある?
4f)石田姉の顔出しはある?


うーん、整理してみたら実は山のように残ってますねえ。
これだけ多いと、多分その多くは回収されずに、読者の推測にゆだねられることになりそうです。

恐らく、残り2巻のストーリーの骨格は、まずは怪我をした将也をとりまく問題の解決(ケガの治療とか起こしてしまった騒動の収束とか)に第6巻の半分くらいをかけつつ、6巻と7巻の2巻をかけて、主に上記の「特A級」の伏線の回収をしていく(その過程でその他の伏線も適宜回収していく)ということになるのではないかと想像します。

つまり、ものすごく乱暴にいえば、

・将也と硝子はお互いの恋心を自覚して恋愛関係になる。少なくとも、そういう関係にならないとしてもお互いの気持ちを共有する。
・そのプロセスのなかで、硝子の小学校時代からの心情、将也に接近した動機、自殺に至る心情などが(ある程度)明かされる。
・硝子・将也がそれぞれ自分のことを嫌いであるという問題になんらかの解決が示される。
・将也は、島田が何を考えていたかを知り、トラウマを克服。(和解するかどうかは別。)
・橋メンバーの一部との和解、残りのメンバーとは「和解できない関係もある」という整理がつく。
・将也のメンタルに救いがもたらされ、全員の×が取れる。


といったことが、ここから完結に向かう物語の骨格になっていくのでは…と思います。

それ以上は、まだなかなか読めませんね。
タグ:第43話
posted by sora at 18:19 | Comment(20) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月04日

第42〜43話が、デートごっこでの転落事件をトレースしている件

第40話のデートごっこの最後に、将也は坂道を転落してしまいますが、第42〜43話での硝子の自殺劇をみたうえで改めてこのエピソードを見ると、不思議なくらい展開が似ていることに気づきます。

1)硝子がいると思って見回した室内に硝子が見当たらない
2)硝子を呼ぶ→返事なし
3)室内ではなくその先の室外に硝子を発見



第40話、12ページ。


第42話、11ページ。

4)硝子が転落しそうになる(42話ではベランダから身投げ)
5)硝子を助けようと将也がかけよる
6)硝子は支えになるものをつかんで助かる
7)代わりに将也が滑落
8)硝子が手を伸ばすも届かず



第40話、13ページ。


第43話、14ページ。

9)将也は下まで落ちてしまって怪我をする

3)のシーンとか8)のシーンとかがあまりにもそっくりで、これは狙ってやっているとしか思えません。
「硝子が落ちそうだったのに、助けにいった将也が落ちている」というところもまったく同じですから…

そして、もしこれが本当に同じ展開のトレースだとしたら、この先も同じ、と考えることができるかもしれません。

10)将也は水(不老不死の水・クッション代わりの川)のおかげで助かる
11)硝子は、倒れた将也に手をさしのべてしっかり助け起こす


こういう展開になってほしいですね。ただ、トレースということでは、

12)硝子は、「自分のせいで将也が不幸になる」という思いをさらに強める

という要素もあるので、こちらが発動してしまう可能性もありますね…
まあ、トレースといっても、「途中までは同じだが結果は違う」というパターンも多いので、このどれにも当てはまらない可能性もあるとは思います。
タグ:第43話 第42話
posted by sora at 07:10 | Comment(3) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マガジン今週号、原稿持ち込み歓迎の挿し絵に使われているのは?

本編とは関係のないコネタです。

聲の形43話が掲載されている今週のマガジンについてのネタです。
週刊少年マガジンの巻末(目次のページ)にはいつも、新人の原稿持ち込み歓迎という告知が入っているのですが、今週(2014年31号)の告知の挿し絵に使われているカットが笑えます。

KOEKATA_43_020.jpg
週刊少年マガジン2014年31号巻末。

節子、それ告知に使ったらあかんやつや。

それは硝子の渾身のフェイクスマイル。言っていることと本心で考えていることがまったく異なることを美しく隠した笑顔です。

この笑顔で、「マガジン編集部は意欲に満ちた新しい作品を待ち望んでいます!」と言われてしまうと…。
聲の形ファンとしては、思わず「ほんとはどう思ってるんでしょう?」と考えてしまいそうですね。(笑)
posted by sora at 07:29 | Comment(5) | TrackBack(0) | その他・一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

硝子は「天使」ではないのか(あるいは、硝子をどう理解すればいいのか)?

いつかこの方向性のエントリを書きたいと思っていて、ようやく書けそうな感じになってきました。

私は連載初期、というか読み切りを読んだ頃から、西宮硝子が「天使のような」存在である、という評価はしてきませんでした。
それを言うなら、「天使のように見える」存在だろう、と。
硝子は、将也から小学校時代に言われ、連載では植野や結絃からも遊園地編で言われたように、「腹の底にある気持ちを言わない」で笑顔でごまかして生きてきているし、その「腹の底の気持ち」ゆえに、なぜか悲惨な環境でも周囲に献身的な「天使のようなふるまい」をするのです。

私はこれまで、硝子が「天使のように見える」振る舞いをする理由は、(母親が望むように)健常者社会に適応して生きていくために、処世術としてそういう「善良で誠実で反抗しない障害者」を演じていたから、という、まあ障害者問題をリアルにとらえた場合に常識的に考えられる理由を想定していました。
そしてそれは、必ずしも間違っていないと今でも思っています。

でも、当初は作者は否定していると思っていた(仏教的概念である)「因果応報論」がここへきて将也を押し潰すくらい強くなってきていることや、石田家に「マリア」「ペテロ(ペドロ)」がいて、キリスト教的モチーフが取り入れられていることに気づいたことから、ここには単なる障害者についての社会的問題を超えた、フィクションとしての、より重い(ある意味宗教的な)意味づけがなされていそうだ、と考えるようになりました。

では、硝子は「天使」ではなくて、何なのか。
「天使のように見える」振る舞いの下に隠されていた実像とは、どんなものなのか。

それは、生まれながらに呪いをかけられ、その呪いを解く力が自分にはないという無力感に絶望し、その呪いによる周囲の不幸への贖罪だけに人生を捧げている「運命に見捨てられた無力な人間」
それが、フィクションとしてのこの物語における、硝子の実像なのではないでしょうか。

ここでいう「呪い」とは、「周囲にいる人間、自分が近づいた人間を不幸にする」という呪いです。
硝子というキャラクターに対する否定的意見として、「(硝子と)深く関わった人間ほど不幸になり、さっさと見限って切り捨てた人間ほど平和な人生を送っている」というものがあります。
現実社会で特定の個人に対してこれを言ったらヘイトスピーチですし、本人の悪意のないところに起こる問題を本人の「責任」にするのはナンセンスです。
でも、フィクションであるこの物語の場合、実際問題として「硝子に深く関わった近しい人間は皆不幸な目にあってしまう」ように描かれており、硝子が物語の神(あえて大今先生とは言わないでおきましょう(笑))から、そのような運命を背負わされていることは否定できません。

そして、少なくとも現時点では、この呪いは、何人たりとも絶対に逃げられない、逆らうことも抗うこともできない、という絶対的な強さをもって物語を覆っています。その呪いに10何年もの間さいなまれ続けてきた硝子には、その呪いに対して、もはや無力感と絶望以外なにもないのは当然のことでしょう。

その運命(呪い)のあまりの重さに、硝子は周囲から受け続けるさまざまないじめも「自らのもつ呪いへの罰」として受け止め、怒ることもなく、またそれだけの仕打ちを受けていても「まだ贖罪が足りない」という認識から、周囲への献身的行動をとっていた、そう考えると、硝子の「天使のような」振る舞いの理由がうまく説明できるのではないでしょうか。

そんな、無力感からすべてを諦めていた硝子のもとに突然現れたのが将也です。
再会後の将也が単行本2巻から5巻前半にかけてやっていたことは、端的に「硝子にかけられている呪いを解こうともがく」行為だったと整理できます。
そこに希望を見いだし、同時にそこに将也への好意をも見いだしていた中での「橋事件」。
事件の原因と経緯を結絃から聞いた硝子は、「やはり、呪いのなかで戦ってくれた将也も、最後は自分の呪いに勝てなかったのだ」と、更なる絶望にとらわれたことでしょう。
そして、その呪いで大好きな将也をこれ以上滅ぼしてしまう前に、自分が消えることを選んだ、という流れが見えてきます。
ところが、この硝子にかけられた「呪い」は、やはりそんな硝子の行動を軽く超越する強さをもっていて、硝子が死のうとしたら代わりに将也が転落してしまう、という形で、またもやその邪悪な力を見せつけてしまいます

そういう意味で、将也は将也自身ではなく、むしろ硝子の運命に試されている、ということができます。
残り2巻のなかで、硝子について展開される最大のテーマは、この「呪い」をどうやって解くのか、これに尽きると思います。
ここまでひたすら、この呪いが「自分ひとりではどうにもならない」ということが示されてきたわけですから、この呪いを解くプロセスのなかでは、将也の存在が非常に大きなものになっていくことでしょう。
単に恋愛関係になる、というよりも(それはそれであっていいですが)、もっと濃密な二人の物語があって、そのなかでこの「呪い」が劇的に解かれていく、そういう展開をぜひ期待したいと思います。

ちなみに、この視点で植野を見るとなかなか興味深いです。
植野のいう「西宮さんがこなければみんなハッピーだった」は「物語の神」がやっていることをふまえれば真理であり、本質を見抜いている部分があります(リアルで言ったらヘイトですが)。
そして、将也が「硝子の呪い」に取り込まれて滅んでいくのを、何とか自力で救おうとしているのも植野であり、ここもある意味「将也のためを思って『この物語』のなかで奮闘する行動原理」としては本質をとらえています。
でも、植野が将也に対してやろうとすることは、すべて失敗に終わります。
それはなぜかというと、植野が所詮「神(による呪い)に逆らう(ただの)人間」という位置付けだから
硝子が自ら「呪い」を解くことができない無力な存在であるのとまったく同じ意味で、植野もまた、いちどかけられた将也への「呪い」を解くことができない、無力な「人間」として描かれているわけです。
そして、「人間としての将也」もまた、橋事件が示すように、「硝子を中心に回る呪い」を司る神の力の前に無力でした。

第43話の時点で、物語は「イマココ」です。
もしここから、硝子の身代わりとなって転落し、自らの「からだ」と「血」を捧げた将也が復活してきたとすれば、ある意味「呪いと戦って生還した」ことになるのではないでしょうか。
だとすれば、こんどこそ、物語全体を暗く包むこの「呪い」を解くための道が示されていくのかもしれません。
posted by sora at 21:32 | Comment(6) | TrackBack(0) | その他・一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

第43話、また新しい視点が登場している?

これはコネタです。

「聲の形」の連載版は、基本的に視点が将也からのものに意図的に限定されていて(作者がそれを明言している)、それだけでは描ききれないシーンを描くために、補助的に「結絃視点」だけは例外的に許されている、ということはこれまでも何度か触れてきました。

それに対して、先日の第41回の花火のシーンでは、異例にも「神の視点」が突然採用されたということについては、先日エントリ書いたとおりです。

今回、第43話は、前回の次回サブタイ煽りで「西宮硝子の話」となっていたので、「いよいよ硝子視点クルー?」と期待?されていましたが、例によってサブタイ詐欺で、将也視点での前回エンドからの続きでした。

でも、今回、視点の移動がなさそうに見えて実は違っていて、よく見ると将也でも結絃でもない新しい独自視点の場面が描写されていることに気づきます。

それは、ラストの1ページです。


第43話、18ページ。

石田母がどこかから(たぶん病院)電話を受けるシーンから、病院で泣き崩れるシーン。
これは、どう見ても将也視点でも結絃視点でもなく、「石田母視点」ですね。

さすがに、この場面では二人の視点とも明確に「使えない視点」になっていますから、こうするほかなかったのでしょう。

そう考えると、次回以降も「視点の縛り」はかなり物語の進行を難しくしそうですから、また別人視点も出てくるのかもしれません。

まあ、「視点固定」というのは必ずしもまんがを面白くするわけではないので(前も書きましたが、葬式編はもっと素直に西宮母視点・祖母視点でよかった気がします)、個人的には視点変更は全然気になりません。
posted by sora at 08:49 | Comment(15) | TrackBack(0) | 第6巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする